ママが寝息を立て始めた。ボクは寝たふりをやめて、そっとベッドから抜け出した。忍び足で廊下に出る。 「ゴウ兄ちゃん……?」 小声で呼ぶ。リビングにはいないようだ。キッチンに移動して、もう一度呼んでみた。 「ハヤト、ここだ」 戸棚の陰からゴウ兄ちゃんが姿を見せた。 「ゴウ兄ちゃん……ごはん食べた?」 「食えるもん食った。心配すんな」 ゴウ兄ちゃんは明るく答える。 「……ごめんね」 「なんでハヤトが謝るんだ?」 「さっき……ママに叩かれた時、ボク、助けてあげられなかったから」 「気にすんな。ああいう時のママは誰にも止められない。叩かれたっつってもスリッパがちょびっとかすっただけだし、そんなにダメージ無かったから。後は逃げ切ったの、見てただろ?」 ゴウ兄ちゃんは笑っている。 「……どうしてママはゴウ兄ちゃんをいじめるの? ボクのごはんは用意してくれるのに、ゴウ兄ちゃんの分は無いし。オモチャだって、ボクには買ってくるのに、ゴウ兄ちゃんには何も無いなんておかしいよ。同じ家に住んでる家族なのに」 「ママは俺のこと、家族だなんて思っちゃいないさ。血のつながりも無いしな」 「ボクだってママのホントの子どもじゃないよ。でも、一緒に暮らすんだから家族だねって、これからよろしくねって……。ママが言ったのに、どうして……」 言いながら涙が出てきた。ゴウ兄ちゃんは困ったような顔をして、つぶやくように言った。 「……しょうがないかもな、この見てくれじゃ。ハヤトは誰が見てもかわいいけど、俺は……」 「そんなことない! ゴウ兄ちゃんはカッコいいよ!」 つい大声で叫んでしまった。……よかった、ママは起きてこない。またゴウ兄ちゃんがママにいじめられるのを見るのはイヤだ。 「ありがとう。でも、ママは俺なんかいないほうが家の中が平和だって思ってるだろうな」 「そんなのヤダ!」 また大きな声を出してしまい、ゴウ兄ちゃんにシーッと注意された。……ママは夢の中らしい。 「ボク、ママよりゴウ兄ちゃんが好き。ママはボクのホントの気持ちわかってくれないもん」 声を小さくしてお話を続ける。 「ゴウ兄ちゃんは優しくて、カッコよくて、勇気があって、オトコマエで……」 「『カッコいい』と『男前』は同じ意味だろ?」 ゴウ兄ちゃんがツッコミを入れてきた。 「いいの。とにかく、ゴウ兄ちゃんはボクのヒーローなんだ」 「そんなこと言ってくれるのはハヤトだけだ。……ありがとな」 ゴウ兄ちゃんはうれしそうに、優しく微笑んだ。だけど、その笑顔はどこかさびしげにも見えた。
今朝もママはゴウ兄ちゃんのごはんを用意しなかった。ゴウ兄ちゃんはどこかに隠れているらしい。ゴウ兄ちゃんはいつも、なるべくママと顔を合わせないようにしている。満腹になったボクは、しばらくオモチャで遊んでいた。ママは何やらバタバタと片付けをしている。 「ハヤト、ちょっとこっちにいてね」 突然ママに廊下に締め出された。部屋のお掃除でもするのかな? まあ、いいや。ボクは廊下でカラーボールを転がして追いかけた。……なんだか廊下がいつもより狭い気がする。あ、ドアが全部閉まってるからだ。いつもは開けっ放しの洗面所のドアまで閉まってる。そういえば、ママは窓もあちこち閉めてたような……。 ママが慌ただしくリビングから出てきた。ドアも急ぐようにバタンと閉める。 「ハヤト、お外行こうか」 ママが駆け寄ってきた。ボクはママに抱き上げられた。 「お財布と免許証、入ってるわよね?」 片手でボクを抱きかかえたまま、ママは靴箱の上のバッグを確認している。ママの肩越しに、ボクは閉め切られたドアをぼんやりながめた。 (あれ……?) ドアの隙間からうっすら煙が漏れ始めた。 (何あれ? 部屋の中は煙がいっぱいってこと? でも、中にはゴウ兄ちゃんが……え? まさか……!) 下ろしてほしくて、ボクはもがいた。 「ゴウ兄ちゃん!」 「ダメよ、ハヤト。暴れないの」 ママはボクをきつく抱きしめて離さない。 「ゴウ兄ちゃん、逃げて!」 どんなに抵抗しても、ママの力にはかなわない。ママはボクを抱っこしたまま外に出た。そして、玄関のカギをガチャリと閉めた。
ゴウ兄ちゃんはリビングの隅っこで死んでいた。黒光りする亡骸をママは紙で包むようにつかみ、ゴミ袋に放り込んだ。 「これでしばらく平和だわ。やっぱりゴキブリ退治にはボルサンが一番ね」 ママ、どうして……? ゴウ兄ちゃんがママに何かした? ボクは悲しくて、くやしくて、やりきれなくて、ママに飛びかかった。 「いたた、ハヤト、爪立てないで。掃除するから、あっち行ってて。後で遊んであげるから。――え、ちょっと、甘噛みじゃなくて本気?」 ボクはママの足に噛みつき、ひたすら猫パンチを繰り返した。
※2016年11月に執筆。
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