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作品名:時空のはざまより2 作者:光石七

第28回   ラ・シャルール・デュ・ノアール ―黒の温もり― 【テーマ:ねこ】
 本当の理由は誰にも言わないし、言えない。強いて言うなら、悪いのは私だということ。誰のせいでもない、私が弱かっただけ。
 抗うつ剤なんて、飲んでも飲まなくても一緒だ。私が本当は何に絶望していて、心の奥底で何を思っているのか、私はあえて誰にも伝えない。
「私なんかが生まれてきたのが間違いだった」
「生まれてくるんじゃなかった」
「なんで私を生んだの?」
 生み育ててくれた親を否定する言葉だと、傷つける言葉だとわかっているから、そういうのも飲み込んだままにしておく。でも、自分に生きてる価値があるとは思えないし、もうやりたいことも夢も無い。私に未来なんか無い。生きててもしんどいし、疲れた。もう全部終わりにしよう――。そう決めた。困るのは、決行前に横槍が入ること。小康状態が続いていると思われれば、変に心配されることは無いだろう。だから私は元気を装っていた。でも、もうそろそろ頃合い……というより限界だ。


 父も母も出勤した。夜勤明けの妹は、帰宅したと思いきやすぐに着替えて遊びに出かけてしまった。――今日、今、決行しよう。この苦しみから解放されよう。私は台所に行き、一番よく切れる包丁を手に取った。……手首じゃ不確実、頸動脈を切ったほうがいい。ネットで得た情報を頭の中で反芻する。包丁の柄を両手で握り、右側から刃を首筋に近づける。……それとも、前から一気に喉に突き刺すか? 別な情報を思い出した。いや、体勢的に力が入りづらいから難しいか。やはり頸動脈を……。ネットの画面の記憶が中途半端に交錯する。刃先を肌に当てては離し、離しては当て、を繰り返す。なかなか刃を首に食い込ませることができない。包丁を持つ手が震えてきた。
 生きてることが苦痛なのに。未練なんか無いはずなのに。鋼の冷たさと鈍い光がこれ以上押し進める力を奪う。
 突然、ガタガタッと網戸が揺れる音がした。
「……ノア?」
「ニャー」
 台所と居間を隔てる引き戸はいつも開け放たれている。居間のガラス戸の向こうに見える垣根と黒い影。躊躇してたら、ノアは再びジャンプして網戸に爪を引っ掛けてぶら下がり、ニャーニャー鳴く。「開けて」「中に入れて」と訴えているのだ。私はゆっくり包丁を下ろした。包丁をシンクの横の調理台の上に置き、フラフラと居間に向かう。ガラス戸と網戸を少し開けると、ノアがするりと隙間から入ってきた。ノアは私の足元にまとわりつき、しつこく鳴いてエサを催促する。
「……おかえり」
 居間の片隅に置いてあるエサ皿にキャットフードを入れた。ノアが口を付けるのを確認して台所に引き返す。ノアのことだ。食べ終えたらまたすぐ外に出るか、部屋を移動してお気に入りの毛布の上で昼寝するか、だろう。ノアが甘えてくるのはお腹が空いてる時くらいで、あまり愛想は無い。むやみに触られたり構われたりするのを嫌う。
 台所に戻ると、さっきまで握りしめていた包丁が目に入った。手を伸ばしかけて引っ込める。体中の力が抜け、そのまま床にへたり込んでしまった。
(結局私は……)
 立ち上がる気力も無く、私はシンクにもたれかかって目を閉じた。
 不意に、手の甲にザラリとした湿った感触が走った。目を開けると、ノアが私の手を舐めていた。五、六回ペロペロすると、今度は私の上腿に体をくっつけるように香箱座りになった。ノアの体温が伝わってくる。私はノアの背を撫でた。ノアが嫌がる素振りは無い。
「ねえ……私、どうしたらいい……?」
 本当の理由は誰にも言わないつもりだったし、誰かに相談するつもりもなかったのに、思わず口から漏れた。涙まで我知らず滲んでくる。ノアは何も答えなかったけれど、少々長めの黒一色の美しい毛並みは、いつも以上に触り心地が良かった
 抱き上げてもノアは逃げようとしたりせず、なされるがままだった。私はノアを膝に乗せた。ノアの背中に顔をうずめる。――温かい、柔らかい。私はひとしきり泣いた。自慢の毛並みが濡れて乱れても、ノアは私の膝から降りようとはしなかった。



※2016年4月に執筆。


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