外は小雪が舞っている。あの日のように。僕はお気に入りの椅子に腰かけ、コーヒーを啜った。 「おはようございます。寒いですね」 恋奈君が出勤してきた。いつものようにすぐ店の掃除に取り掛かるかと思いきや、綺麗にラッピングされた小箱を僕に差し出す。 「これは?」 「わかりませんか? 今日はバレンタインデーです」 恋奈君が呆れたように言う。 「そうだっけ?」 「もう、先生ったら。世間はバレンタイン一色ですよ? まだ三十なのに、世捨て人ですか?」 「かもね」 「毎日他人の失恋話聞く世捨て人っています? それに、可愛い魅力的な女性が近くにいるのに、何も感じませんか?」 「えっ、どこに?」 素直な疑問だったのだが、恋奈君はむくれてしまった。黙って掃除道具を手に取り、奥の応接室に入っていく。……可愛い魅力的な女性って恋奈君のことか? 確かに可愛い顔立ちと言えなくもないが。僕がそこに気付かなかったから、気分を害したのか? (鏡平はホントわかってないね) クスクス笑う愛莉の声が聞こえた気がした。
「私、本当に信じてたんです。なのに……」 クライアントが泣きながら失恋の経緯を話す。――女性の話ってどうしてこうも要領を得ないんだろう? いつも不思議に思う。要は、付き合っていた男には本命の彼女がいて、このクライアント――泉井優花、二十三歳は都合よく遊ばれてたってことだ。 「ひどい男。彼女に優花さんのことを面白おかしく報告して、二人で笑ってたなんて」 恋奈君が泉井優花の背を優しくさする。……人の気持ちに寄り添うとはこういうことなのだろう。恋奈君を見てるとそう思う。しかし、クライアントのほとんどは若い女性だ。僕が気安く触れるのもどうかと思うし、そもそも男と一対一で話すのは抵抗がある人もいるだろうと思ったから恋奈君を雇ったわけで……。 「もうこれ以上付き合えないって思いました。でも……職場が同じだから、毎日顔合わせるから、辛くて……仕事、辞めちゃいました……」 「そんな最低男のために会社まで……」 恋奈君は同情して涙ぐんでいる。僕も神妙な表情を作ってはいるが、内心首を傾げていた。仕事は仕事と割り切れないものだろうか? 「次の仕事探そうにも……気持ちを切り替えられなくて……」 「それでここに来たんですね。わかりました」 僕は頷いた。一応事情は呑み込めた。あとは最終的な本人の意思確認をしたうえで『処置』を行えばいい。 「泉井優花さん。この恋を無かったことにする、ということでよろしいですか?」 「はい、お願いします」 はっきりした返答を聞き、僕は立ち上がった。泉井優花の横に移動し、彼女の額に左手をかざして精神を集中する。彼に関する記憶の場所を探り、消去と補正を施していく――。 『処置』を完了すると、泉井優花はゆっくりとソファに倒れこんだ。恋奈君が彼女に毛布を掛けてやる。二十分ほどで目覚めるはずだ。 「恋奈君、あとはよろしく」 僕は応接室を出た。窓の外を見ると、まだ雪がちらついている。
何故僕が『処置』――記憶隠蔽の力を持っているのか、原因はわからない。物心ついた時には自覚があった。僕のことを忘れればいじめられないと、幼稚園でいじめっ子の記憶を封印したのが最初だった気がする。僕は集団の中で浮くことが多く、友達もいなかった。特殊な力の代償なのか、僕は他の人とはどこかずれているらしかった。 唯一僕のそばにいてくれたのが幼馴染の愛莉だった。力のことを打ち明けても、愛莉は変わらず笑顔で接してくれた。 「鏡平は人の気持ちがわかってないね。そういうトコも個性だけど、寄り添ってわかろうと努力するのも大事だよ。力も、人のために使ったらどうかな? 苦しんでる人のために。例えば、失恋の痛手からなかなか立ち直れない人とか」 愛莉が事故に遭ったと聞いたのは、そんな話をした翌日だった。小雪の舞う寒い日だった。
泉井優花を見送った恋奈君が報告に来た。 「優花さん、スッキリした顔で帰って行かれました。就活頑張らなきゃって張り切ってましたよ」 「そりゃよかった。ご苦労様」 「……それだけですか?」 「それだけって?」 恋奈君は何が不満なのだろう? 「バレンタインデーに恋の思い出を消したいってよっぽどですよ? 優花さんの再出発をもっと応援してあげてもいいじゃないですか」 「応援って……」 女性って、なんでこう論理が飛躍するんだ? 「先生って『処置』はすごいけど、恋とか女心とかホントわかってないですよね。よくこんな商売やろうと思いましたね」 恋奈君は時々愛莉と同じようなことを言う。 「……恋奈君こそ、よくこんな商売手伝おうと思ったね」 そう返すと、どういうわけか恋奈君の顔が赤くなった。 「べ、別に先生のためってわけじゃ……あ、応接室片付けなきゃ」 急に話を切り上げられ、僕は困惑した。
※2016年1月に執筆。
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