サチヨの指が毛並みをかき分け、肌を心地よく刺激する。アタシはサチヨの膝で眠りかけていた。 「あ、誰か来た。モモ、ごめんね」 サチヨはアタシをソファに移すと、玄関へ向かった。……寝よ。体を丸める。 「まあ、ヒロ君。いらっしゃい」 「ばあ!」 「ヒロ、先にじいにナンマンダァ」 ……聞き覚え……ある……声……ZZZ 「にゃんにゃん!」 間近での大声にビクッとした。……げ! 不覚、悪魔の襲来に気付かなかった。慌てて逃げようとしたけど、尻尾を掴まれた。悪魔が背中に覆い被さってくる。やめて、前足だけ持って引っ張り上げないで! 重力で体が下がり、後ろ足が床に擦れる。 「にゃんにゃん、だっこ」 「だっこしたの。ヒロ君すごい」 く、苦し……。 「ヒロ君、葡萄食べる?」 「うん」 「じゃ、おてて洗おうか。ヒロ君とママとばあ、誰が一番上手かな?」 ……何とか解放された。三人が洗面所に行った隙にサチヨの寝室に移動し、ベッドの下に潜り込む。しばらく隠れてよ……。 悪魔――ヒロは月に一、二度やってくる。初めて会ったのは二年前、アタシがサチヨと暮らし始めて少し経った頃。あの頃は乳臭い、寝転がってるだけの生物だったのに。あっという間に這うようになり、歩くようになり、今では奇声を上げてアタシを追い回す。毟らんばかりに毛を握るわ、尻尾を引っ張るわ、力任せに抱き締めてくるわ……。 「ヒロは動物好きだね」 母親のマホは笑って見てるだけ。サチヨもヒロを叱らず、アタシをヒロに差し出すことさえある。ヒロがいる間、アタシは憂鬱だ。……まあ、遅くても夕方には帰るはず。あと数時間、なんとかやり過ごせればいいけど。 ヒロがアタシを探し始めたようだ。声と足音が近い。みつかりませんように……。 「にゃんにゃん、ない」 「いないねえ。お出かけしたのかも。――ヒロ君、積み木しようか」 足音が遠ざかる。……よかった、今回サチヨはアタシを売らなかった。後は遊ばせてバイバイ、だろう。姿を見せなければ大丈夫そうだ。……ホッとしたら眠気が。ベッドに上がり、前足で布団を踏み踏みする。おやすみ……なさ……ZZZ
お腹が空いて目が覚めた。外は暗いし、もう悪魔たちは帰っただろう。伸びをしてベッドから降りた。廊下を通って居間に足を踏み入れる。 「にゃんにゃん、いた!」 ……なんで!? 前掛けを着けた悪魔が嬉々として近寄ってくる。アタシはダッシュで逃げた。 「ヒロ、まだごはん残ってる」 マホが連れ戻したのか追ってはこなかったけど、夕食まで居残るなんて。さすがに食べたら帰る……よね? でも、空腹は我慢できない。悪魔に気付かれないよう食べるには……。そっと台所に回り、居間の様子を覗く。食べ終えたヒロはテレビに夢中だ。今のうちに……。 「マホ、本当に帰らないの?」 「だってタンカ切って出てきちゃったし……。泊まったら迷惑?」 えっ、泊まる気? 「迷惑じゃないけどね。変な意地張らないで早く仲直りしたら?」 マホは夫婦喧嘩の勢いでヒロを連れて家出してきたのか……って、エサ皿空っぽ! 「あらモモ、ごはん? ――ヒロ君、にゃんにゃんがごはん欲しいって」 ヒイィッ……! 逃げようにもサチヨに押さえつけられて動けない。結局ヒロのちょっかいを受けながら食事する羽目に……。 しばらく玩具にされてたけど、ヒロの動きが鈍ってきた。 「眠い?」 マホがヒロを抱き上げる。アタシは逃げ出した。サチヨが客間に布団を敷き始める。ホントに泊まるの? ……まあ、寝てる間は大人しいか。 だけど、ヒロはぐずっているようで泣き声が止まない。 「夜は割とすぐ寝るんだけど……」 「環境が違うからかもね。ヒロ君がうちに泊まるの、生まれた時以来でしょ?」 「というより……多分、毎晩パパの頭触りながら寝てるから……」 「ママじゃダメなの?」 「あの癖っ毛がいいみたいで」 「困ったわね」 ……別にヒロの機嫌の良し悪しなんて知ったこっちゃない。けど、さっさと寝てくれないと安心して家の中をうろつけない。アタシは襖の隙間から客間に入った。 「ニャー」 マホの腕の中からヒロがこっちを見た。 「にゃんにゃん……」 泣き顔のまま手を伸ばしてくる。マホがアタシの前で屈んだ。ヒロがアタシを闇雲に撫で回す――
「ヨウ君の髪とモモの毛って似てるのかしら? あんなにぐずってたのに」 ヒロの寝顔を見ながらサチヨが言う。 「おかげで助かったわ。これから泊まる時はお願いね、モモ」 マホ、冗談やめて。今夜だけよ。ヒロがうるさくて寝てられなかったから……それだけ。
翌朝、マホの夫が迎えに来て二人は帰っていった。やっと平穏が……。悪魔の滞在は一時間で十分。それくらいは……我慢してやるわよ。
翌年ヒロの妹が生まれ、兄妹から追い回されるようになることを、モモはまだ知らない。
※2015年10月に執筆。
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