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作品名:時空のはざまより2 作者:光石七

第13回   移ろひやすきは【テーマ:江戸時代】
 染野の手が好きだ。あたしを撫でる優しい手が。染野の声が好きだ。「ふく、おいで」とあたしを呼ぶ温かい声が。染野の匂いが好きだ。染野の胸に抱かれると、伽羅の香りにほんのり甘さが混じって鼻孔をくすぐり、心地良い。染野と会えない時間は寂しいが、染野は客を見送ると真っ先にあたしの元に来て抱き上げてくれる。
「男よりふくのほうがええ。しなやかでやわらこうて。その赤い首輪、よう似合うてる」
 あたしと二人きりの時は廓言葉よりもお国訛りが出る染野。客よりもあたしのほうが染野に近い存在だと、あたしは満足していた。客に惚れさせても客に惚れるな、遊女の心得だそうだ。だが、近頃少し染野の様子が変だ。
「ふく、聞いて。卯兵衛さんたら……」
 卯兵衛は三月(みつき)ほど前からここ平崎屋に来るようになった小間物問屋井津屋の若旦那で、染野を贔屓にしている。染野は今まで客の愚痴をこぼすことはあっても、客のことを楽しそうに話すことはなかった。どうやら染野は卯兵衛に惚れてしまったらしい。卯兵衛も染野にベタ惚れのようで、身請け話まで持ち上がった。
「卯兵衛さん、金子(きんす)の都合がついたって。ここから出られるんよ」
 頬を紅潮させる染野にあたしは背を向けた。
「ふく、すねてるん? 大丈夫、置いてったりせんよ。ふくも一緒に井津屋においでって、卯兵衛さんが」
 あたしも一緒に? ……卯兵衛、なかなかの男じゃないか。
 あたしも染野と共に廓から出る日が待ち遠しくなった。

 染野、なんでこんなことになったんだい? あと三日、あと三日で卯兵衛と一緒になれたのに。……とんだとばっちりだよ、初音の客だろ? 初音を刺して自分も死ぬつもりで来たんだって? なんで初音じゃなくて染野が斬られたんだよ? その男に仇討ちをしたい、呪ってやりたい。だが、染野の血を浴びて我に返った男は己の罪に気付いて自害したらしい。親も妻子もいないときた。これでは末代まで祟ることもできない。
 あたしは卯兵衛に引き取られた。
「染野の匂いがする……」
 あたしを抱きしめ声を殺して泣く卯兵衛。……あんた、染野を本気で好いていたんだね。あたしも染野が好きだった。あんたなら一緒にいてやってもいいよ。染野を好いた者同士、仲良くしようじゃないか。あんたは染野が惚れた男だ。染野の代わりに、あたしがあんたを支えてやるよ……。

 井津屋は繁盛した。「ふくが福を連れてきた」と大旦那も奉公人も大喜びだ。本当にあたしに福を招く力があれば、染野をあんな目に遭わせることは無かったんだが。でも、蔵の鼠を退治したり、店の前で客の着物の裾を咥えて引っ張ったり、怪しげな客を引っ掻いて追い返したり、あたしにできることはした。卯兵衛は商売を広げ、儲けを出しては染野が眠る寺に寄進した。卯兵衛の真心に染野も喜んでいるだろう。染野のために、あたしは卯兵衛を手伝う。

 ……卯兵衛が所帯を持つ? 井津屋の若旦那がいつまでも独り身というわけにはいかない? あたしはてっきり染野一筋に生きるもんだと……。まあ、人間はしがらみが多いからね。世間の手前、妻を迎えるのは仕方ない。卯兵衛、染野のことを忘れないでおくれよ。

 卯兵衛が妻を娶って一年経つ。器量は十人並だが気立てがよく働き者の女房だ。子ができたと喜んだのも束の間、卯兵衛は目に見えて仕事がおざなりになっていき、次第に昼となく夜となく毎日出歩くようになった。卯兵衛、一体どこほっつき歩いてるんだい? しばらく寺の寄進もご無沙汰じゃないかい? あたしはこっそり卯兵衛の後をつけた。……吉原? 卯兵衛は平崎屋の向かいの緋文字屋に入っていく。まさか……。
 卯兵衛は緋文字屋の小糸に熱を上げていた。結局そういう男だったのか。たった二年で染野を忘れて他の女に入れ込んで。こんな男に惚れた染野が哀れだよ。
 あたしは卯兵衛を見損なった。憎くなった。染野が生きて卯兵衛と一緒になっていても、この男は同じことをしたに違いない。
(ふく、卯兵衛さんがね……)
 染野の声が、香りが、温もりが懐かしい。他の女に夢中になっている卯兵衛を、染野はどう思うだろう。命が尽きるその瞬間まで思い続けた男が、自分のことを思い出してもくれないとしたら。
 ……許せない。あたしは卯兵衛が緋文字屋から出てくるのを待った。

「井津屋の若旦那、何かの獣に首を噛まれて死んだんだって?」
「ああ。吉原からの帰りに喉を食いちぎられて倒れてたらしい」
「怖え話だな。大旦那もガクッときてるらしいじゃねえか。おかみさんも腹の子が流れちまって、気の毒になあ」
「まったく、不幸続きだな。井津屋は大丈夫かねえ」
「そういや、若旦那が死んでから井津屋の猫を見かけねえな。あの赤い首輪の」
「若旦那に懐いてたから、後を追ったのかもしれねえな。まさか化け猫にはなってねえだろうよ」




※2015年6月に執筆。


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