僕がアンナと出会ったのは六つの時だった。鉱物商の父に連れられて訪ねた小島の研究所。そこの責任者レン博士の一人娘がアンナだった。 「実験の途中なのに」 仏頂面で連れて来られた白衣姿の七歳のアンナ。彼女が三歳で化学式を理解し父親の研究を手伝い始めた天才少女で、すでに独自の研究にも着手しつつあったことなど、当時の僕は全く知らなかった。一緒にいても難しい言葉を並べるアンナに僕は戸惑った。 「ユウカイネツって?」 「知らないのか? 来い、実験を見せてやる」 アンナは僕を研究室に引っ張り込んだ。 「氷に塩を入れるとこんなに冷たくなるんだ」 「これくらい常識だ。ライは頭が悪いんだな」 周りは研究に関わる大人ばかりであるうえ島から出たことがないアンナには、普通の子供の感覚がわからなかったようだ。 その後も僕はたびたび父と小島の研究所を訪れた。 「今度は君が僕の家においでよ」 「実験が中途半端になるから、一区切りしたらな」 そう答えるアンナだったが、いつも一区切りつく前に次の疑問が湧いて更なる研究が始まってしまう。 「留守の間は誰かに頼んだら?」 「その間に何か発見があったらどうする? ライの家まで船と鉄道で一日半、すぐ戻れないじゃないか。何より私は自分の目で確かめたいんだ」 「全く……。なんでこんな辺鄙なトコに研究所建てたんだよ?」 「ここの気候はママの療養に最適だったんだ。ママの看病も研究もできるよう、パパがここに決めた。ママは私を産んですぐ死んでしまったけどな」 レン博士は愛する妻が眠る島を離れられなかった。幼いアンナの育児と研究にも追われていた。そして物心ついたアンナは研究に夢中になり、島から出ない生活が続いていたのだ。 「アンナ、今度は何の研究?」 「バクテリアだ。こいつらの能力は農業や医療に活用できる。強力なバクテリアを作り出してゴミを一瞬で処理、というのもアリだな」 「へえ」 十三歳になっても相変わらずぶっきらぼうだったが、アンナのまっすぐな情熱を僕は好ましく思っていた。レン博士は優しく穏やかな人だったし、皆に可愛がられながら、のびのびと好きな研究に没頭するアンナが眩かった。 それから二年後、アンナは大臣の要請で本土の大きな研究所に移ることになった。呼ばれたのはアンナだけで、レン博士は島に残るという。 「バクテリアの研究が認められたんだって?」 「まだ研究途中だけどな。向こうにはもっと充実した設備があるし、とことん研究してやる」 「いよいよこの島から出るんだな。これで僕の家にも……って、アンナは隣町でも研究をほっぽって出かけるなんてできないか。僕が会いに行くよ」 「よくわかってるじゃないか。向こうでまた会おう」 アンナは笑っていた。 だが、僕はなかなかアンナの元を訪ねられなかった。新たな鉱脈の情報があり、父と共に国を離れていたからだ。三年後にようやく再会したが、アンナの顔は憔悴していた。 「アンナ、大丈夫? 無理して僕と会うよりも休んだほうが……」 「いや、ライに会いたかったんだ」 アンナは微笑んだが、やはり元気がない。 「……研究が大変なの?」 寝食を忘れるほど楽しそうに研究に取り組んでいた島での姿とはまるで違う。 「……ライ、私が今どんな研究をしてると思う?」 「バクテリアじゃないの?」 「そうだ。でも、私が望む形じゃない。上の連中……生物兵器にするから強力なバクテリアを早く完成させろと……」 アンナが顔を覆った。 「そんな……」 「毎日せっついてくるんだ。失敗すると責められる。他の研究はさせてもらえないし、もう辞めたい。辞めたいけど……」 「そうしなよ。我慢することないって」 「……ダメなんだ。私がここで研究を続けるという条件で、パパの元に多額の支援金が支払われてる。私が途中で辞めたりしたら契約違反でパパが……」 アンナは泣いていた。僕はどうすることもできなかった。 二か月後、アンナが首を吊って死んだと聞いた。
「ライ君、久しぶりだね」 小島の研究所で白髪が増えたレン博士が迎えてくれた。 「葬儀には来られずすみません。アンナに花を手向けに来ました」 「ありがとう」 アンナの墓は海岸近くに母親の墓と並んで建っている。 「アンナはこの島が一番落ち着くんでしょうね」 「井底之蛙……」 博士が呟いた。戸惑う僕に博士は寂しげに微笑んだ。 「東洋のことわざさ。『井の中の蛙大海を知らず』ってね。広い世界を知らず、見識が狭いことのたとえだ。でも……大海を知ることは蛙にとって必ずしも幸せとは限らない。そもそも蛙は海では生きられないからな。私はアンナのためを思って送り出したが……耐えられない大海なら引き返してよかったのに。金の心配なんかせず、井蛙に戻ればよかったのに……」 博士の目から大粒の涙が落ちる。潮風がそっと吹き抜けた。
※2015年5月に執筆。
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