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作品名:時空のはざまより 作者:光石七

第8回   桜の約束【テーマ:名古屋】
 数か月だけだが、名古屋で暮らしたことがある。名古屋駅、ナナちゃん人形、栄の地下街、コメダ珈琲店、小倉トースト……。多少なりともあちこち出かけ様々な風景を見たが、真っ先に思い浮かぶのは鶴舞公園の桜だ。それも、植えられて数年ほどであろう、私と背丈が変わらない細い桜の木だ。
 私が名古屋に住んだ理由。それは、勤めていた会社が支社を立ち上げるに当たって、本社から派遣するリストに名前が入ったからだった。何故目立たない私が選ばれたのか、本当の理由はわからない。だが、少なからず信用され期待されていると思い、私は奮起した。大げさだが、名古屋に骨を埋める覚悟だった。名古屋ではとにかく必死だった。期待に応えようと、自分で自分にノルマを課した。今思えば身の程知らず、目標を高く掲げすぎていた。できない自分に苛立ち、だんだん卑屈になり、自信を無くしていった。
 休日、気分転換がしたくて、行ったことのない鶴舞公園まで自転車を走らせた。なんだか緑が恋しかったし、疾走する爽快さを感じたかったのかもしれない。自転車を降りて園内を散策した。噴水塔や奏楽堂、名古屋市公会堂などを見物しつつ、点在する池や花壇に植えられた花を愛でた。奥のほうにあったのが台座跡(愛知県出身の戦前の総理大臣、加藤高明氏の像を撤去した跡)で、小さな桜の木がたくさんあった。その中の一本に、何故かひどく心惹かれた。まだ桜のシーズンには少し早かったものの、いくつか蕾があった。こんなに細くて折れそうなのに、肌寒い中頑張って蕾をつけている姿に、涙が溢れてきた。抱きしめたい衝動に駆られた。――君が頑張っているなら、私も頑張ろう。そう思った。私がそこに佇んでいたのは、三十分ほどだったのではないだろうか。涙を流しながら桜に触れている私は、傍から見れば奇妙で滑稽だっただろう。でも、そんなことはどうでもよかった。私は自分の気持ちを全部桜にぶちまけた。そして最後に桜と約束した。また来年も君に会いに来る、と。その時はどっちが成長しているか競争しよう、と。私は心の中で桜の木と指切りをした。
 しかし、私は約束を守れなかった。結局ストレスから体を壊し、名古屋を離れることになったからだ。人間関係に問題があったわけではなく、自分で自分の首を絞めた結果だった。療養を言い渡されたが、戦力外通知のように感じ、非常にこたえた。私の後任はすぐに後輩が引き継ぎ、自分が期待されていたわけではなかったのだと、みじめな気持ちになった。
 今は回復したし、自意識過剰で生真面目に完璧主義に走ったのが良くなかったとわかっている。しかし、名古屋にはまだ行っていない。あの桜の木にどんな顔で会ったらいいのかわからない。きっとあの木は背が伸びて幹も太くなっているだろう。あの頃よりたくさんの蕾をつけ、花を咲かせているだろう。
 今年もあの季節は過ぎてしまった。だが、生きているうちに必ず会いに行こうと思っている。あの時、桜に慰めと勇気をもらったのは事実だ。あの桜の木は私の涙を知っている。約束を先延ばしした分、胸を張って会いたい。だから、もう少しだけ待っていてほしい。すっかり葉桜になった近所の木に名古屋の桜の木を重ね、私は呟いている。




※2013年5月に執筆。


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