隣国レヴィスに嫁いで八年。皇太子妃である私の唯一の楽しみは、束の間宮廷を離れての観劇だ。 「デズデモーナが可哀そうですね」 帰りの馬車で侍女のサラが感想を述べる。イアーゴの奸計でオセローは妻デズデモーナの不貞を疑い、嫉妬のあまり彼女を殺めてしまう。 「それだけオセローの愛が深かったのでしょうけど。妻への愛ゆえに……」 サラは口を噤んだ。私の不機嫌を察したのだ。 (デズデモーナは幸せよ) 皇太子殿下が嫉妬に狂って私を殺すなどあり得ない。私を愛しておられないのだから。もともと両国の同盟のための政略結婚。結婚二年目に娘アデルが生まれたが、三歳で死んでしまった。以来、殿下は私の部屋を訪れていない。 (今夜はあの伯爵夫人のところかしら? それとも侯爵夫人? 近頃はリタとかいう娼婦もお気に入りとか) 「あれは気位ばかり高く、可愛げが無くてね」 殿下は卑しい娼婦にまで私のことを吹聴されたのだろうか? あの端正なお顔で……。ぎりっと唇を噛む。 「サラ、イアーゴ役の役者をどう思って?」 私は違う観点からの感想を促した。
(ステラ・ルーザ……) さっき宮廷の女たちが噂していた殿下の新しい相手。ルーザ男爵の娘で、半年前に社交界に出てきたばかりだという。 (十六の小娘を別邸に通わせてるですって?) 結婚前の生娘に手を出されるとは……。だが、騒いではならない。愛人が一人増えただけ。今まで通り、毅然と振る舞うのだ。私はザティアの第二王女でレヴィスの皇太子妃。下々に笑われてはいけない。 ところが、殿下は他の女の元に足を運ばれなくなった。その上、法王庁に私との離婚を申し出たという。 (本気なの? 本気でステラとの結婚を……) 殿下の申し出は却下されたが、皇帝陛下は殿下の勝手な振る舞いに激怒された。厳しく叱責され、ステラを修道院に送ると宣告された。 あの大使館での夜会は、せめてものお情けだったのだろうか。私は皇帝陛下と皇后陛下と共に席に着いていた。遅れて殿下が姿を見せられた。殿下が真っ先にダンスを申し込まれた少女。顔を見るのは初めてだったが、すぐにステラだとわかった。微笑んでワルツを踊り出す二人。時折何か言葉を交わす。 (あんな幸せそうなお顔、私の前ではなさらない) まるでこの世に自分たちしか存在していないかの如く、二人は楽しそうに踊り続ける。 (あんなにお優しい目で私をみつめてくださったことなど無い) 掌に爪が食い込む。いけない、皇太子妃らしく悠然と構えなくては。踊り終えて礼を交わす二人の恍惚にも似た至福の表情。退出される殿下を、ステラは瞳を輝かせたまま見送る。 (この娘は……!) 思わず立ち上がった。 「ゼルダ!」 皇帝陛下のお声を無視して、私はステラの元に向かった。彼女の前に立ち、ひたすら睨みつける。体がわなわなと震え、喉がカラカラに乾く。罵ってやりたいのに、言葉が出てこない。ステラは皇太子妃への礼もせず、憐れむような目で私を見返す。――私はぷいっと顔を背け、踵を返した。 (これ以上ここにいたくない) すぐに馬車を用意させた。
その四日後、北部の別荘で殿下が亡くなった。ステラと共に。「狩猟に行く」と宮殿を発たれた殿下は、密かにステラも別荘に呼び寄せ、彼女を撃って自らもこめかみを撃ち抜かれた。殿下の棺の前で皇后陛下は泣き崩れられ、皇帝陛下も懸命に涙を堪えておられた。私は血の煮えたぎるような思いで棺をみつめた。 (最後まで私に恥をかかせて……) 皇太子である夫が年若い愛人と情死。これ以上の屈辱は無い。ワルツを踊る二人の姿を思い出す。あの時、二人の心はすでに決まっていたのか。 殿下は何通もの遺書を残されており、私宛てのものもあった。
『ゼルダ、君を愛してやれずすまない。 一足先にアデルに会いに行くよ。 君の幸せを祈る』
当たり障りのない文面。いっそ無いほうがましだった。 (私の幸せですって?) 笑わせてくださる。その眉目秀麗な容姿で結婚生活に夢を見させておいて、女遊びに走られたのはどなただったか。アデルのことだけは気にかけて下さったが、アデルが死んで唯一の夫婦の架け橋も消えてしまった。 (私を殺せばよかったのよ) 離婚の許可が下りないのなら妻が死ねばいい。事故にでも見せかけて命を奪えば。私はそんな気すら起こらない妻だったのか。デズデモーナとは雲泥の差だ。彼女は愛する夫の手にかかって死に、夫も後を追うように自殺する。 喪が明けたら私はレヴィスを去る。子供のいない皇太子妃など、皇太子が先立てば何の価値も無い。新たな皇太子は殿下の従弟に決まった。居残っても物笑いの種になるだけだ。 (初めから縁が無かったのよ。最初から別れていたようなものだわ) 私は遺書を暖炉に放り込んだ。何故か炎がぼやけて見える。 「妃殿下」 サラにハンカチを差し出された。
※2014年11月に執筆。
|
|