ジン博士は困惑していた。 「お願いです、薬を分けてください!」 土下座を繰り返す若い男。 「お金は払いますから」 「……あの薬はまだ試作段階だ。そもそも人間用ではない」 「牛や豚が大丈夫なら、人間も大丈夫なはずです」 「しかし……」 「お願いします!」 男は再び頭を床にこすり付ける。ジン博士は思案に暮れた。
リエはパソコンの電源を落とした。 (やっと終わった……) 大きく伸びをする。リエは自宅で翻訳の仕事をしている。今回の小説は専門用語が多く手こずった。 (もうこんな時間?) 外の暗さにようやく気付いた。一人暮らしだし、集中していると時間を忘れてしまう。 カーテンを閉めようとして、手が止まった。 (おばちゃんだ……) 自分の姿がガラスに映っている。小皺にほうれい線、張りと潤いを失った肌。髪には白いものが見え隠れする。 (一年半でこんなに変わるなんて) リエは今二十七歳だ。しかし、遺伝子の異常で二十代半ばから急速に老いる病だった。老化の速度は一年で二十年分と言われている。症例は少なく治療法も無い。病の事は子供の頃から知っていたが、実際に老い始めるとその速さに驚いてしまう。 「一緒に年を、なんて無理なのよ……」 リエの目に涙が滲む。
「君と一緒に年を取りたい。僕と結婚してください」 「……ごめんなさい」 二年前、ガクのプロポーズをリエは断った。 「私、元々そんなつもりなかったから。――いい加減終わりにしたかったのよね。ちょうどいいわ、別れましょ」 リエはガクの元を去った。 ガクとは五年前、ある出版社のパーティーで出会った。リエは雰囲気に馴染めず、会場の隅でため息ばかり吐いていた。 「退屈ですよね。僕もこういうの苦手なんです」 話しかけてきた青年がガクだった。 「よかったら一緒に抜けませんか?」 リエはガクの誘いに乗った。これがきっかけで二人は付き合うようになった。 (おばあちゃんになる前に、少しくらい恋を楽しんでもいいじゃない?) 発症前の小さな思い出作りのつもりだった。しかし、いつしかガクはリエにとってかけがえのない存在になっていた。 (もし病気の事を知ったら……) ガクは離れていくだろうか? ガクを失うのが怖かった。 「ガク、私が今とは違う姿になったらどうする?」 「違う姿って?」 「例えば、化け物みたいに醜くなったら?」 交際を始めて二年になる頃、リエは世間話を装って尋ねた。 「そりゃ、急に変わったら驚くかな。でも、リエはリエだろ? 中身がリエなら構わないよ。慣れるのにちょっと時間がかかるかもしれないけど」 ガクは笑顔で答えた。――そうだ、ガクはそういう人だ。相手の外見や肩書に左右されたりしない。彼なら変わらずそばにいてくれるかもしれない。でも…… (私はすぐおばあちゃんになって死んでいく。ガクを私に縛りつけていいの?) リエの胸に別の不安が生まれる。 (それに、年の差がどんどん広がるのを毎日感じながら暮らすなんて……) 実際は年上であるガクの若さを羨み、妬み、自らの老いを嘆く日々。その苦痛に耐えられるのか? (今のうちに別れなきゃ) そう思いながらもガクを手放せない。結局何も言えないまま、ガクがプロポーズしてくるまで付き合っていた。別れから三か月後、リエの老化が始まった。 (別れて……よかったのよ。ガクのためにも、私のためにも……) リエは頭を振り、カーテンを閉めた。
極力人を避けて生活しているリエだが、宅配便はやむを得ない。リエが玄関のドアを開けると「失礼します」と荷物を抱えた男が入ってきた。 「サインをお願いします」 帽子を深く被った男は荷物を廊下に置き、ペンを差し出した。リエが受け取ろうとした瞬間、男はリエの腕を掴んだ。男が帽子を脱ぐ。 「ガク……!」 ガクは切なげにリエをみつめる。 「嫌、見ないで! 離して!」 「……離さない」 ガクはリエを引き寄せ抱きしめた。 「なんで病気の事を隠してた? 一方的に別れを決めて、勝手に引っ越して、連絡先まで変えて……。こうでもしないと会えないと思った」 「……ミユが全部話したのね」 「僕が無理矢理白状させたんだ。……黙って消えるなんてひどいよ」 「だって……私だけ先に……こんな……」 「言っただろ? 一緒に年を取りたいって」 ガクはリエを解放すると、ポケットから小瓶を取り出し中身を飲んだ。あっという間にガクの髪に白髪が混じり、顔も老けていく。 「嘘……」 「ある研究者にもらった薬だよ。本来は野菜や家畜の成長を速めるためのものなんだけどね」 ガクは小皺のできた顔で微笑んだ。 「これで僕もオジサンだ。リエがばあさんになったら僕もじいさんになるよ。――もう一度プロポーズする。リエ、僕と結婚してください」 二年前と変わらないガクの眼差し。リエはガクにしがみついて嗚咽した。
※2014年10月に執筆。
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