まもなく暮れ六つという頃。弓月藩江戸屋敷の居室でそよは一通の文に目を通していた。読み終えるとそよは無造作に文を畳み、びりびりと裂いた。 「よろしいのですか? ご実家からでは?」 侍女のたづが遠慮がちに尋ねる。 「構いません。先日の文と同じ事しか書いてありませんから」 そよは答えた。 「これは捨てておきなさい」 「かしこまりました」 たづは破れた文を受け取って下がった。 (殿のお子を早く……) 文の内容を思い出し、そよはため息を吐いた。父がせっついてくる気持ちはわかる。微禄のしがない下級藩士が、娘が藩主澤伊重盛の寵を受けたおかげで大きく出世したのだ。子を産むことで側室としてのそよの立場も安定し、実家竹村家も安泰。父は竹村家に跡取りの養子を迎えた。一度は身籠りながらも流れてしまい、重盛の心がそよから離れないうちに、と父は焦っているのだ。 重盛のそよへの寵愛は殊更深い。そよは重盛の正室蓮姫に仕えるために十三で国元を離れて江戸に来た。十五の時に重盛に見初められ、褥に呼ばれた。 (五年で帰るはずだったのに) 側室となって早三年。貧乏藩士の娘から藩主の寵姫に成り上がったそよを羨む者も多いが、そよ自身はその事を喜んではいなかった。 「浮かぬ顔をしておるな」 突然重盛が部屋に入ってきた。そよは慌てて居住まいを正したが、重盛はそれを優しく制した。 「何か気に病むことでもあるのか?」 「そうではございません。少し故郷が懐かしくなっただけです」 「ここの暮らしが不満か?」 「そのようなことは……。ただ、ちょうど八幡様のお祭りの時期だと思いまして。いろいろ昔を思い出すうちに、もう子供には戻れないのだと妙に寂しくなっただけでございます」 そよは本当の胸の内を巧みに隠した。 「祭りか。楽しい思い出があろう」 「はい。山車が大きくてきらびやかで。風車やおはじきを買ってもらうのも楽しみでした。帰る道すがら、蛍が飛んでいたのを覚えております」 「そうか。無邪気な子供の頃が恋しくなったか」 重盛はそよの言葉をそのまま信じた。
実家にいた頃、そよは毎年のように竹村家の向隣りに住む佐野弥三郎という三つ上の少年に連れられて八幡の祭りに行っていた。佐野家も竹村家と同じく下級藩士の家柄で、弥三郎は長男だった。両家はそれなりの付き合いをしていた。江戸に発つ前、そよは弥三郎と話した。 「本当は、江戸になど行きたくないのです」 「何故だ?」 「……弥三郎様と会えなくなってしまうから」 顔を赤くしながらのそよの言葉に、弥三郎は目を見開いた。そして少し俯いてから顔を上げ、おもむろに口を開いた。 「……私もそよがいなくなるのは寂しい。そよにはそばにいてほしい」 「弥三郎様……」 二人は互いに思い合っていることを知った。 「でも、もうお給金を前借りしてしまったのです。返そうにも当てが……」 「そうなのか。うちで払うことができたらいいのだが」 佐野家も裕福というわけではない。弥三郎の元服が遅れている一因もそこにある。金の都合はできそうになかった。 「ご奉公は五年のお約束です。ですから、五年だけ奉公して帰ってきます」 そよが言うと、弥三郎は頷いた。 「ですから、帰ったら私を……弥三郎様のお嫁さんにしてくださいますか?」 震える声でそよは問いかけた。 「ああ、もちろんだ。五年の間に私も一人前の男になっておこう」 弥三郎は微笑んで答えた。――そよは弥三郎の面影を胸に、江戸で過ごしてきたのだ。
文を破り捨てた翌日の夜、重盛は蛍籠を持ってそよの元を訪れた。重盛は麦わらで編んだ小さな籠を三つ蚊帳に吊るさせた。行灯を消すと、籠の中の蛍たちがぽうっ、ぽうっと柔らかな光を放つ。 「どうだ? 少しはそなたも気が紛れるか?」 重盛がそよに尋ねた。 「はい、とても心が和みます。私のためにありがとうございます、殿」 「気に入ったか。よかった」 重盛がそよを抱きすくめる。籠の隙間から蛍が一匹抜け出した。一つだけ宙を舞う蛍火をそよは目で追う。 (私も逃げ出せたなら……) そよの胸をかすめる思い。何者にも縛られず、本当に好いた相手と愛の光を交わし、添い遂げる。そんな生き方ができたならば……。 だが、もう手遅れであることもそよはわかっていた。今や自分は「おそよの方」と呼ばれる身だ。他の男に嫁ぐなど、よほど特別な藩命でも出されない限りあり得ない。それに、弥三郎ももう二十一。とっくに元服して妻を迎えているはずだ。 「おそよ、泣いておるのか?」 「……殿が、あんまりお優しいから……」 そよははにかんでみせた。本心は深く埋めねばならない。両親と幼い義弟のために。自分は籠にとらわれたまま虚しく光ることしかできないのだ。そよは体の力を抜き、重盛の為すがままに任せた。
※2014年7月に執筆。
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