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作品名:時空のはざまより 作者:光石七

第35回   ある別離【テーマ:勇気】
 とうとうこの日が来てしまった。翔吾はお出かけと知って朝からご機嫌だ。私がのろのろと食器を下げている間に、自分で帽子を引っ張り出して後ろ前に被っている。
「おそと、おそと」
 うれしそうに走り回る翔吾。だんだん帽子がずり落ちていく。
「翔ちゃん、転ぶよ。帽子が反対」
 捕まえて帽子を被せ直してやった。
「ママ、おそと」
「うん、ママがお洋服着替えてからね。アンパンジャーのお靴で行こうね」
 泣きそうになるのをこらえて懸命に笑顔を作る。
「アンパンジャー!」
 翔吾の顔がぱっと輝く。大好きなキャラクターだ。今日の為に買ってあげた靴。
「そう。だから、もうちょっと待っててね」
「うん!」
 にこにこしている翔吾を見ると、胸が締めつけられる。だけど、ずっと見ていたいとも思う。本当は手放したくない。できることなら永遠に手元に置いておきたい。今日のお出かけがどんな意味を持っているのか、翔吾はまだ知らない。
 夫と何度も話し合って決めたこと。経済的に苦しい我が家ではやむを得ない選択だった。これ以外道はない、そう納得したつもりでも、翔吾のちょっとした仕草が、声が、私の決意をぐらつかせる。
 夫は朝食を済ませるとさっさと仕事に行ってしまった。私一人に任せて、ズルい人。いつも通りに振る舞おうと言ったのは私だけど、つい責める気持ちが湧いてくる。
 沈んだ気持ちで服を着替えた。化粧をしたら行かなければならない。そして翔吾を……。紅筆を持つ手が震える。
 『苦しみに耐えることは、死ぬよりも勇気がいる』。確かナポレオンの言葉だった。その通りだと思う。かわいいわが子と別れるのは本当に辛い。
「アンパンジャーのくっく! しょうちゃんのくっく!」
 翔吾が玄関で靴を探している。翔吾に涙を見せるわけにはいかない。覚悟を決めなくては。私は唇をティッシュで軽く押さえ、ポーチをしまった。そして押し入れから新しい翔吾の靴を出した。


 まだ翔吾の声が耳にこびりついている。翔吾の温もりがこの手に残っている。
「ママ! ママー!」
 あの悲痛な叫び。私は勇気を振り絞って、すがる翔吾の手を振り払った。あの悲しそうな目。ごめんね、ごめんね。本当はママも翔ちゃんとずっと一緒にいたいの。翔ちゃんの成長をいつもそばで見守りたいの。ぎゅっと抱きしめて、離したくないの。翔吾の前では見せないと誓った涙がボロボロこぼれ落ちる。
 今朝までは翔吾と過ごしていた部屋。こんなに殺風景だった? あの子がいないだけで、こんなに寒々しく感じるなんて……。
 ひとしきり泣いて、翔吾を引き渡したことを夫にメールで伝えた。
『ご苦労さん』
 返ってきたのはたった一言。彼らしい。私の気持ちをわかっているからこそ簡潔な言葉を選んだのだ。その優しさがありがたくもあり、恨めしくもある。
 翔ちゃん、もう泣き止んだ? ママに置いてけぼりにされて、怒ってる? 大丈夫、みんな優しい人たちだから。きっと翔ちゃんを大事にしてくれるよ。ママがいなくても、元気に遊んで、いっぱい食べて、笑って……。


「翔吾は無事に行ったんだな」
 夜、仕事から帰ってきた夫が頷くように言った。
「私と離れる時は泣いたけど、後は大丈夫だったみたい」
「そりゃ泣くだろ。今までずっと一緒だった母親にいきなり置き去りにされたんだから」
 なじりとも受け取れる言い方に、少し心が傷つく。
「私だって辛かったんだから。翔吾と別れたくなかった。できるなら、そのままそばについていたかった……」
「それじゃ意味無いだろ」
 夫は苦笑いを浮かべた。
「お前も働くってことで、保育園に預けようって決めたんだから」
 そうなのだ。夫の転職で収入が減り、共働きをしなくてはやっていけなくなった。
「だけど、あんなに身を裂かれるような思いをするなんて……」
「あのな、これから毎日だぞ? 嫌でも慣れないと。お前より翔吾のほうが先に保育園に馴染みそうだな」
 おそらくそうだろう。迎えに行った時、少し泣いた後は元気に遊んでいたと先生から聞いた。
「私の翔ちゃんがどんどん私の知らない世界に……」
 考えただけで寂しくなる。
「お前なあ……。そんなんで仕事できるのか? 今日はまだお試しだろ? 保育園で翔吾も友達ができるし、世界が広がるんだ。ちょっとは子離れしろよ」
 夫は呆れたように言う。そんなことわかってる。それでも、私の葛藤はしばらく続くだろう。





※2014年3月に執筆。


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