脚が折れた馬は安楽死させられる――。左腕が元通りになることは無いと知った時、そんなことを思い出した。
世界的なバイオリニストの父とその教え子の母。二人の間に生まれた私は、物心つく前に既にバイオリンを握っていた。子供の頃から数々のコンクールで入賞し、サラブレッドともてはやされた。しかし、世界の壁は厚かった。目指すは世界一のバイオリニスト。ずっと親に言われてきたし、私自身もそれを夢見ていた。遊びなどそっちのけで、ひたすら練習に打ち込んだ。バイオリンのこと以外はほとんど考えなかった。ようやく大舞台に立つチャンスが巡ってきた、その矢先の事故だった。 左腕の複雑骨折と神経損傷。手術を受けリハビリをしたが、肘は少ししか曲がらず、指はゆっくり曲げ伸ばしするのがやっとで思うように動かない。 「これ以上の回復は難しいでしょう」 医師の最終宣告は私の心を打ち砕いた。バイオリンのためだけに生きてきたというのに……。バイオリンを弾けなくなるなら、命が助かっても意味が無い。走れなくなって殺される競走馬が羨ましかった。
「琴音、気分転換にちょっと出かけてみない?」 おせっかい焼きの紗那が私を強引に車に乗せた。 「たまには外の空気を吸ったほうがいいって」 「どこ行くのよ?」 「着いてからのお楽しみ」 車は街を離れ、山道に入っていく。木々に囲まれたくねくねした上り坂をしばらく行くと、開けた場所に出た。 「着いたよ」 「……美墨高原牧場?」 手作り感満載の看板に苦笑いしてしまう。 「結構穴場なんだよ。ここのアイス、滅茶苦茶美味しいの」 「アイスのためだけにわざわざ?」 「アイスも食べるけど、琴音のアニマルセラピーがメインだよ。動物とのふれあいって癒し効果があるんだってね」 「別にこんな遠出しなくても……」 「だって琴音、犬恐怖症で猫アレルギーじゃん。羊とか馬とかなら大丈夫だと思って。あ、牛や豚もいるよ」 「それで腕が治るっていうの?」 紗那の優しさだとわかっていても、きつい言葉を吐いてしまう。 「治ったらすごいね。新聞やテレビに取り上げられるかも。まあ、私はまず琴音のハート、メンタルを元気にしたいんだけどね」 紗那は笑って受け止める。 「とりあえず行こ? せっかく来たんだし」 右腕を引っ張られた。 平日だというのに、意外と人がいる。自分が差し出したエサを羊が食べる様に奇声を上げて喜ぶ子供。悩みなんて無いんだろう。 「私たちもエサあげようよ。あ、もうすぐ子豚のレースが始まるって」 紗那は楽しそうだ。仕方なく付き合った。 アイスを買ってベンチで食べる。 「これ、病みつきになるよね。帰りにまとめ買いしようっと」 紗那は至福の表情だ。 「一人で何個食べる気? 今年こそ痩せるんじゃなかったっけ?」 「言わないでよ。この味には勝てないってば」 確かに美味しいアイスだ。濃厚なのにしつこくなくて、上品な甘さ。一口食べたらすぐ次を口に入れたくなる。……そういえば、こんな風に味を楽しむなんて久しぶりだ。 食べ終わって少し休んでいると、三人組のおじさんが近くを通った。 「ファンタスチカ、元気やろか?」 「元気やからここにおるんちゃう?」 「せやけど、あの走りはもう見れん。三冠も夢じゃなかったのに、故障で引退とはなあ……」 声が大きくて会話が丸聞こえだ。 「そうそう、昔競馬に出てた馬もいるんだよね。ここのオーナーが大ファンだった馬を引き取ったんだって。あの人たちもファンかもね」 「ふうん……」 引退した競走馬。走ることを止めた馬はその後どう生きるのだろう? 「……見てみようかな」 「行ってみる?」 おじさんたちの後を追った。 その馬は凛と佇んでいた。しかし歩くと左の後ろ脚が少しおかしい。 「やっぱりあの怪我を引きずっとるんやな」 おじさんの一人が呟く。 「え、脚を怪我したら殺されるんじゃないんですか?」 おじさんは私の質問に呆れながらも答えてくれた。 「姉ちゃん、それは予後不良ちゅうて最悪の場合や。でも、ファンタスチカもその可能性はあった。なんせケアに金がかかる。引退した馬はほとんど殺処分や。種馬になったり乗馬クラブや養老牧場なんかに引き取られるのはほんの一握り。ファンタスチカは運がよかったんやで」 「しっかし、気品と貫録は変わっとらんわ」 「せやな」 びっこを引きながらも凛々しさを失わない馬。以前のように走れずとも、その瞳には失望も悲しみも宿っていない。 「琴音……?」 紗那の声に、頬を熱いものが伝っていることに気付いた。
※2014年1月〜2月に執筆。
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