大学三年の秋に祖母が亡くなった。当時私は広島で一人暮らしをしていた。入院する前から危ないかもしれないと言われていたので覚悟はしていたが、やはりショックだった。父から電話連絡を受けるとすぐに飛行機の時間を調べ、友人に講義の欠席を連絡して荷物をまとめた。飛行機の中で、バスの中で、帰省のたびに目にするいつもの光景が、ひどく色褪せて見えた。 祖母は化粧を施され、いつもより若くきれいだった。だが、顔に手を触れるととても冷たかった。どうして起きないのか、私の名前を呼んでくれないのか、認めたくない現実がそこにあった。私が帰省すると誰よりも喜んでくれていたのに。 葬儀のことはよく覚えていない。だが、火葬場で煙突から立ち上る煙を見ながら、「人間の終わりってあっけないんだな」と思ったことは覚えている。 祖母にとって私は自分の手元で育った初めての孫だった。私にとっても祖母は一番最初の遊び相手であり、就園前は最も長い時間を一緒に過ごす人だった。夜も母ではなく祖母と同じ部屋で眠った。お化けが怖くても、祖母が隣にいることで安心して眠れた。実家を離れるまで、私は祖母の部屋で就寝していた。私が中学で仲間と衝突して部活を辞めた時、何も言わずお茶とお菓子を用意してくれた祖母。大学進学のために私が家を離れる時、一番最後まで手を振ってくれたのも祖母だった。 「美紅ちゃんの花嫁姿を見んとね」 そう口癖のように言っていたのに……。まだ彼氏も紹介してないよ? おばあちゃん、早すぎるよ。 広島に戻る前、祖母の遺品の整理を手伝った。 「これ、いつも喜んでたよ」 母が見せてくれたのは、クッキー缶にきちんと整理されたハガキの束だった。私が広島から祖母に出したものだと察しがついた。電話もしていたが、祖母はもう耳が遠くて会話にならないことが多かった。広島で元気にやっていることを知らせようと、十日に一度ほど他愛もないことをハガキに書いてはポストに投函していた。それを大事にとっていてくれたのだ。日付順に並べられ、几帳面な祖母の性格が表れているように感じた。 広島のアパートに戻り、私は散らかった棚を整理し始めた。奥に一枚のハガキがあるのをみつけ、引っ張り出した。 『元気ですか。いつも手紙ありがとうございます。帰つてくるのヲ楽しみにしてますヨ』 お世辞にも達筆とは言えない。促音の「つ」が大きかったり、誤字もある。だが、昔習った文字を懸命に思い出しながら祖母が書いてくれたものだ。実家で一緒に暮らしている時は祖母が字を書くところを見たことがなかったので、受け取った時、正直驚いた。祖母からもらった手紙はこのハガキだけだ。私はハガキフォルダーを買って祖母からのハガキを入れた。 あれから何年経っただろうか。私がお嫁に行く気配は未だない。 「美紅ちゃんは片付けが下手やっでね」 祖母の嘆きが聞こえてきそうだ。だが、あのハガキフォルダーだけはいつも目につく所に置いてある。
※2013年4月に執筆。
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