『バー・レイム』に一人の男が入ってきた。黙ってカウンターの隅の席に腰掛ける。 (見慣れない顔だな) マスターはその男に注意を向けた。もちろん新規の客が来ても不思議ではないが、その男が纏う空気は明らかに異質だった。気高さと慈愛、厳格さと温厚さ、相反するものが絶妙に共存している。近寄り難いような、近づきたいような、そんな気持ちにさせられる男だ。 「何になさいますか?」 「適当に見繕ってくれ。思い切り酔いたい気分だ」 男の要求に応え、マスターはロックをテーブルに置いた。男は一気に飲み干す。マスターは空のグラスを受け取り、次の酒を用意した。 (相当ストレスがたまってるな) 男の顔は曇っている。悩みや苦しみを抱えている者は多いし、憂さ晴らしに酒を求めるなんて珍しくもないが、マスターは独特の雰囲気を醸し出している男が妙に気になった。男は二杯目もグイッと飲み干す。 「お客さん、何か嫌なことでもあったんですか?」 三杯目を差し出しながら、マスターは男に声を掛けた。 「わかる?」 男がふっと笑う。 「仕事柄、いろいろな人を見てますからね。よかったら話してみませんか? 誰かに聞いてもらうだけでもすっきりしますよ。もちろん、私は聞いたことを誰かに喋ったりしません」 マスターがそう言うと、男の顔がほころんだ。 「うれしいね。私の気持ちを聞いてくれる奴なんてほとんどいないからね」 「幸い他のお客さんもいませんし、お付き合いしますよ」 男は再びグラスを空にした。マスターから四杯目を受け取ると、男は話し出した。 「本当にね、嫌になるんだよ。年中無休で奉仕してるようなもんだし」 (仕事の愚痴か) マスターはふむふむと頷く。 「なのに、私の存在を無視する奴も多いんだよ。誰のおかげで無事暮らせてると思ってるのか……。そのくせ、困った時だけ頼ってくるんだ。『助けてください』、『なんとかしてください』って」 「いますね、そういう連中」 マスターは相槌を打った。 「なのに、結果が悪いと私のせいにするんだ。やってらんないよ」 男は仏頂面でグラスをあおった。マスターは五杯目を用意する。 「自己中心的な奴らですね。お客さんが頑張ってるのに……。でも、お客さんのことを認めてくれる人もいるんじゃないですか?」 「いるにはいるよ。だけど、私を本当に理解してくれているとは言えない。自分の都合のいいように解釈して、解釈が違う者同士で争ったりする。私はそんなこと望んでないのに」 「大変ですね」 共感しているような口ぶりでそう言ったが、マスターは少し困惑し始めていた。この人は一体どんな仕事をしているのだろう? ただの管理職というわけではなさそうだ。男はまたグラスを空け、次の杯を求めた。 「私がこう言った、ああ言った、そう吹聴して回って結局金儲けが目的だったり。私の名を悪用するなんて、ひどすぎる」 (かなり高い地位にいる人なのか?) わかったようでわからない。マスターの心はもやもやしている。 「なんでこうなったんだろうなあ……。私はただ幸せな楽園を造りたかったんだ。どうして争いや犯罪、悲劇が蔓延するようになったのか……。美しいはずのこの星まで破壊して。私も改善するために努力してるんだ。必死に働きかけてる。でも、みんな私の意図とは違う行動をしたり、そもそも私の存在を信じてなかったり、罵ったり、憎んだり……。あの二人が私に背いたのが全ての始まりだな」 空のグラスを受け取ったマスターは、慌てて七杯目の準備にかかった。 「ああ、でも結局私が悪いのか。人間なんか造らなきゃ、こんなことにはならなかったんだから」 「……はい?」 マスターは動きを止めて男を見た。 「神なんて損な役回りだよ。時々本気で思っちゃうね。こいつらは失敗作だ、造るんじゃなかった。いっそ滅ぼそうかって」 自分の理解を越えた言葉に、マスターは口をパクパクさせることしかできない。 「だけど、そんなことしても後味悪いからね。人間には特別豊かな思考と感情、霊性を与えてしまったから。他の動植物と同程度なら躊躇しなくてすむんだけど。――あ、もう一杯もらえるかな?」 マスターは震える手でグラスを差し出した。男――神は美味そうに飲み干す。 「ふー、酒は良いねえ。話を聞いてくれてありがとう。ちょっと元気が出たよ。ま、信じて頑張るしかないね。これ、お勘定」 神は新札を多めに置いて出て行った。 (……何だったんだ、今の客。本当に神? なんでうちの店に飲みに来るんだよ?) 頭が混乱しながらも、マスターはしっかり新札を売り上げ金に加えた。 とりあえず、明日も世界は続くらしい。
※2013年8月に執筆。
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