午後の一コマ目の講義が休講になったので、彼は学食のテーブルでレポートを書くことにした。学食のメニューは安くて美味しいので昼時はかなり混雑するが、それ以外の時間は割と空いている。遅めの昼食をとっている者もいるが、友人と雑談をしたり、学習室代わりに利用している学生が多かった。 レポート自体はまだ期限があるしそこまで難しくはなかったが、彼は困っていた。空腹だったのだ。どこをどう間違えたのか、気が付けば財布の中は五十円玉以下の小銭が数枚だけ、預金通帳の残高もわずかだった。光熱費等の引き落としを考えると銀行から金を下ろすことはできない。親からの仕送りは月が変わらないと来ないし、バイト代が入るのも週明けだ。内気な彼には金を貸し借りしたり奢ってほしいと頼めるような友人もいなかった。今日は金曜日。月曜までどうやって生活するか、彼は頭を悩ませていた。 昨夜から何も食べていない。冷蔵庫の中の食材もカップ麺も昨日で尽きた。アパートでは暖房にかかる電気代が心配だし、お茶だけはタダなので学食で勉強することにしたのだが、香ばしい料理のにおいが彼の胃袋を刺激した。 彼は目を閉じて頭を振った。目を開くと、二つ隣のテーブルの上に赤い財布があることに気付いた。誰も座っていない。忘れ物だろうか。彼は立ち上がり、その財布を手に取った。持ち主の手がかりがないかと財布のチャックを開けた。どこかの店の会員証かポイントカードらしい物が一枚入っていたが、署名欄には何も記されていなかった。札入れスペースには万札が五枚、五千円札が一枚、千円札が二枚見えた。小銭は入っていないようだった。 悪魔の囁きが聞こえる。 (千円借りちゃえよ。そうすりゃ三日くらい凌げるだろ。別に盗むわけじゃない。もう金曜の午後なんだし、来週バイト代で返してから落し物として届ければいいじゃないか) 一方では良心が警鐘を鳴らしていた。 (すぐに事務室にでも持っていくべきだ。落とした人が困っているかもしれない。人様の財布に手をつけるなんて、恥ずべきことじゃないか) 彼はあたりを見回した。みんなおしゃべりや勉強に集中している。お腹の虫が鳴った。バイト代が入るまで断食なんて無理だ。彼は赤い財布を握りしめて自分の席に戻り、勉強道具を片付けて外に出た。 彼が向かったのはもう一つの学食だった。日替わり定食を食べて、あとはカップ麺と食パンで凌ごう。そう考えたのだ。バイト代が入ればすぐに千円を財布に戻して事務室に届ければいい。息を弾ませて学食に入った。やはりこちらも空いている。彼は券売機の前に立った。赤い財布から千円札を一枚抜き取り、挿入口に入れる。「日替わり定食」のボタンを押した。 その瞬間彼の姿は消えた。
「マユ、これ見ろよ」 一人の男子学生が恋人に近寄り、自慢げに赤い財布を見せた。 「リョウ君、それどうしたの?」 彼女が尋ねる。 「西館の学食の券売機の近くに落ちてた」 「届けないの?」 「誰のかわからないんだ。いくら入ってると思う?」 彼はにやにやしている。 「人の物を盗っちゃダメでしょ」 彼女は言ったが、内心少し興味があった。 「なんと五万八千円。今月ちょっと苦しいし、すげえラッキー」 「ちょっと、大金じゃない。ネコババするつもり?」 たしなめながらも、彼女の心も揺らいでいる。 「マユと旅行もできるじゃん」 彼の言葉を聞いて、彼女の頬に朱が差した。 「……本当に誰のかわからないの?」 「どっかの会員証っぽいのが入ってるけど、名前が書いてないんだ。俺の知らない店だな。マユは『BROKEN DESIRE』って聞いたことあるか?」 彼は赤い財布からカードを取り出した。彼女がそれを受け取り、じっとみつめた。 「何これ? ロックバンドみたいな名前」 「それかクラブの名前だよな。なんか怪しげな店っぽい」 二人で笑い合った。 「その財布、まるで血の色だね。ちょっと怖いかも」 「言われてみればそうだな。普通の革財布みたいだけど。――で、旅行どうする? さっそく明日行くか?」 「えー、月曜提出のレポートあるんだけど……。でも、リョウ君と過ごしたいな」 彼女は彼にもたれかかった。 「決まりだな。さくらランドとかどうだ?」 「それいい!」 「じゃあ、帰って準備だ。六時に駅集合ってことで」 「了解」 恋人たちは何も知らずに、淡い期待で胸を膨らませて家路を急いだ。
※2013年3月に執筆。
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