(一)双子の天才
水内遊星(みずうちゆうせい)は絶望していた。オリンピック競泳メダリストとして称賛と名声を一身に集めていたのは過去の話。引退後ともに事業を起こした友人には借金を押し付けられて逃げられ、妻は水内に見切りをつけて離婚、半年後に実業家と再婚した。子供がいなかったのは幸か不幸か。両親はすでに他界し、親戚には煙たがれ、もう頼る者も信じられる者も水内にはいなかった。返済の期日が迫っているものの、当然返す当ては何もない。このまま生きていて何の意味があるのか。人と関わるのが億劫で仕方なかった。 水内はロープを天井から下げ、その先に輪っかを作った。ここに首を突っ込んでぶら下がれば三十七年と数か月の人生が終わる。水内は脚立の上に立った。ロープの輪っかに頭を入れる。後は脚立を蹴とばすだけだ。水内は目を閉じた。 様々な思い出が脳裏をよぎる。幼稚園から通ったスイミングスクール、先生に褒められて喜んだあの日。学生記録を塗り替え、初めてメディアに取り上げられた日。そして世界選手権やオリンピックなど晴れの舞台で活躍した日々。美しい妻を手に入れ、前途有望な事業に着手――。誰もが羨む人生のはずだった。だが、それは束の間の夢でしかなかった。 もう一度目を開ける。脚立の位置をしっかり確認し、足を放そうとした。 「お待ちください。水内遊星様ですね?」 突然の声に驚き振り向くと、見知らぬ男が穏やかな笑みを浮かべて部屋の入口に立っている。黒い髪に黒い瞳だが、日本人ではないのは明らかだ。若いような年老いているような、不思議な男だった。今の水内に用があるのは借金取りだけのはずだ。 「金ならありませんよ。あればこんなことしてません」 水内は男を一瞥し、首吊りを決行しようとした。男は微笑みを浮かべたまま流暢な日本語で言う。 「ああ、死のうとされてるんですね。お邪魔して申し訳ありません」 「……そう思うなら帰っていただけますか? 見られてるとやりにくい」 水内の迷惑げな様子を無視して、男は表情を変えずに続ける。 「首吊りで起こる実際の人体の変化のデータもなかなか興味深いのですが、あいにく生きた水内様を連れてくるよう言いつかっています」 「生きている俺をどうしたって金は出ませんよ。それとも強制労働でもさせようっていうんですか?」 「それがお望みですか?」 ――こいつ、ふざけてるのか? 水内はだんだん腹が立ってきた。 「俺の望みは静かに死ぬことだ。邪魔しないでほしい」 きつめに言い放ったが、男が引き上げる様子はない。 「メダリストがもったいないですね。その才能を生かせばいいではないですか」 「過去の栄光だ。俺はもう引退した。指導者には向いてない」 引退直後にはそういう誘いもあったが、水内は水泳自体から解放されたかった。それに、名選手が必ずしも名コーチになるとは限らない。 「水内様の遺伝子を受け継ぐ者がほしくないですか?」 「子供はいない。妻とは離婚したし、借金だらけでそんな余裕もない。第一、もうこの世界で生きていたくないんだ」 水内の本音だった。何もかも疲れた。永遠に眠ってしまいたい。 「では、別世界にご案内いたしましょう。水内様の体と人生をくださいませんか?」 男の言葉を水内は訝しんだ。 「……同性愛の趣味はない」 笑顔が張り付いているような男に、水内はこう吐き捨てた。男は不快感すら表さなかった。 「そのような意味ではありません。ミラー博士の研究にご協力いただきたいのです」 「協力?」 まだ趣旨がわからない。 「申し遅れました。私、ナッド・ミラー博士の研究所で助手をしております、サム・バトラーと申します。ミラー博士は遺伝子の研究をしておりまして、水内様のような才能ある方の遺伝子がどうなっているのか、ぜひデータを頂きたいと」 サムは丁寧に訪問の意図を伝えた。 このサムとの出会いが、水内の人生を方向転換させた。
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