(二)適当のツケ
三日後、みどりは紫音を連れて森宮総合法律事務所を訪ねた。雑居ビルの四階で、小さいが清潔感がある。事務の女性が応接室に案内してくれた。 「先日はありがとうございました。これ、つまらないものですがどうぞ」 みどりは遥に菓子折りを差し出した。 「わざわざそんな……。当然のことをしただけですから」 遥は断ったが、みどりが強く勧めたため受け取った。 「主人も感謝していました。直接お礼に伺いたいと言っていたのですが、仕事が忙しくて」 「本当にお気遣いなく。娘さんのご無事が何よりじゃないですか」 「先生のおかげです。本当にありがとうございました」 みどりと一緒に紫音も頭を下げた。遥は腰を下ろすよう促した。 「気持ちは落ち着きましたか?」 遥は紫音に尋ねた。 「はい、大丈夫です」 紫音は小声で答えた。遥は頷き、みどりのほうを向いた。 「被害届のほうはどうなさいました? 私がお手伝いすることはなかったでしょうか?」 「せっかく助言も頂いたのですが、主人と相談して出さないことにしました。やはりいろいろ聞かれると……」 「お気持ちはわかります。だから私も『できれば』と言ったんです」 遥の表情は柔らかい。 「本当にすみません」 「謝ることはないですよ」 事務員がお茶を運んできた。 「何か困ったことがあれば、いつでもご相談ください。そういう仕事ですし。相談だけならお金も要りませんから。宿題を代わりに片付けてほしい、というのはお引き受けできませんけど」 茶目っ気の混じった遥の言葉に、紫音も口元が緩んでしまった。 「やっぱり笑ったほうがかわいいですよ。笑顔でいれば、ハッピーなことが寄ってくるんです。笑顔が難しくて誰にも相談できない時は連絡してください。力になりますよ」 遥は紫音に笑いかけた。眼鏡の下は優しいまなざしだ。 「若いけど、優しくていい先生ね」 事務所を出て、みどりは紫音にそう言った。紫音もそう思った。頼りになるお姉さんという感じだ。 「紅葉も五十嵐先生とちゃんと話せたかしら……」 「紅葉お兄さんがどうしたの?」 みどりの独り言に紫音が反応した。 「紫音は心配しなくていいの。――そうだ、久しぶりに二人でお茶しようか? 近くにケーキが美味しいお店があるのよね」 ケーキの誘惑に、紫音の小さな疑問はかき消された。
紅葉は五十嵐の弁護士事務所に向かっていた。麗奈の妊娠と慰謝料のことを父に話すと、案の定こっぴどく叱られた。 「遊んでばかりいるからだ! 少しは自分の行動に責任を持て!」 「……反省してるよ。それで、お金のことだけど……」 銀之助は紅葉をじろっと睨んだ。 「出してはやる。だが、五十万は高すぎないか? そもそも中絶に慰謝料は要るのか? 五十嵐先生に相談してからだ」 「じゃあ、お願いします……」 そそくさとその場を離れようとした紅葉に、銀之助は怒鳴った。 「いい加減自覚しろ! 自分で蒔いた種だ、お前が自分で相談してこい!」 かくして紅葉は五十嵐の元を訪ねることになったのだった。 (そりゃ俺も悪かったけどさ……。品行方正な兄さんと比べられても困るって) 銀之助の説教の締めくくりはいつも同じだ。 「碧斗を見習え! お前みたいなことは今まで一度もないぞ」 出来の良すぎる兄を持つと弟は災難だと紅葉は思う。 (でも、兄さんも男だろ? 女でトラブったことって本当にないのか?) 浮いた話は聞かないし、婚約者の紗雪ともうまくいっているようだ。頭の固い一條家の親も碧斗の誠実な人柄に惚れ込んだと聞いている。 (現代の聖人君子ってか?) そんなことを考えるうちに、目的地に着いた。銀之助があらかじめ連絡しておいたので、すぐに会って話せるはずだ。 「ごめんください」 ドアを開けた。誰もいないし返事もない。事務員が出迎えてくれるはずなのだが。紅葉は中に入った。やはりしんとしている。一番奥が五十嵐の部屋だ。紅葉は奥の部屋をノックした。 「五十嵐先生、いらっしゃいますか? 保科の息子です」 返事がないのでドアノブを回した。ドアの隙間から靴が見えた。視界が開けるにつれ、目を見開いたまま倒れている五十嵐の姿が明らかになった。絨毯や壁に少し血が飛び散っている。血の付いた重そうな置物も転がっていた。 「え……?」 紅葉は状況を理解できなかった。やがて五十嵐が死んでいるのだということに気付き、慌てて逃げ出した。
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