紫音を助けた女性は森宮遥(もりみやはるか)という弁護士だった。遥は泣いている紫音を立ち上がらせ、スーツの上着を脱いで紫音に羽織らせた。 「ここにいても危ないし、送りますよ」 紫音をかばうように寄り添い、保科邸に連れて行ってくれた。出迎えたみどりは紫音の様子に驚いた。遥はみどりに事情を話し、 「できれば警察に被害届を出された方がいいと思います。また同じようなことが起こってもいけませんし。彼らの顔の特徴とか、ご連絡くだされば証言しますから」 と言った。そして『森宮総合法律事務所 弁護士 森宮遥』と書かれた名刺を渡したのだ。みどりは娘を助けてくれた遥に何度も頭を下げた。遥は「同じ女性として見過ごせなかっただけです」と過剰な謝意に恐縮気味だった。 銀之助が帰宅したのは夜十時を過ぎていた。碧斗は婚約者の一條紗雪(いちじょうさゆき)とのデートで遅くなるとのことだった。紅葉が夜遅くまで遊び歩くのはいつものことだ。紫音はあまり食事に手を付けず、シャワーを浴びて部屋に閉じこもっている。 「いい人が通りかかってくれてよかったな。暗くなってからの女の子の一人歩きはやはりよくない」 みどりから話を聞いた銀之助は顔をしかめた。 「どうしても遅くに帰らなくちゃいけないなら、タクシーを使わせることにしよう。みどり、紫音にいつもタクシー代を持たせておけ」 銀之助がみどりに言った。みどりが頷く。 「被害届はどうします?」 「その弁護士の言うことももっともだが、警察であれこれ聞かれるだろう? 紫音もショックだったろうし、嫌なことを思い出させるのもかわいそうだ」 銀之助が答えた。 「そうですね。とりあえず、明日は休ませましょうか?」 「そのほうがいいだろう。お前もそばについててやれ」 夫婦仲は悪くないし、銀之助もみどりも子供たちを思う気持ちは強い。みどりは紫音の様子を見に行き、銀之助は一日の疲れを癒すべく浴室に向かった。
紅葉はいつものように仲間たちと居酒屋で飲んでいた。だが、今夜はあまり酔えない。麗奈から言われたことが心に引っかかっていた。 (お互い楽しんだのに、俺だけ五十万払うって不公平じゃないか?) そんな思いが湧いてくる。一緒にいる奴らはうわべだけの付き合いで、深刻な悩みを相談できるような間柄ではない。紅葉はため息をついた。 「おいおい、紅葉がそんな顔するなんて珍しいな」 「イケメンは何をやっても様になる。全く羨ましい」 「また女と揉めたのか? 一人くらい俺に譲ってくれよ」 仲間たちは紅葉を茶化した。 「俺が悩んじゃおかしいか?」 紅葉は睨んだ。 「いくら脳みそが軽くても人間だからな。そういう時もあるさ」 「誰が脳みそ軽いって?」 ムッとしつつも自分でも自覚している紅葉。なんだか力が抜けてしまった。 「まあまあ。悩んでも何も考えなくても、時間は同じように流れていくんだ。どうせなら明るく楽しく行こうや」 「お前、たまにはいいこと言うな」 「たまには、じゃなくていつもだって」 仲間たちのやりとりに紅葉の心も和んでいく。 (とりあえず今夜は飲んで、明日父さんに話してお願いするか) 紅葉はそう結論を出し、飲み直そうとジョッキを注文した。
この日を境に穏やかな日常が歪み始めるのだが、保科家の人々はまだ誰もそのことに気付いていなかった。
|
|