一山展に向けて、みどりは普段の水彩画教室とは別に個別指導を受けるようになっていた。個別指導といっても、カルチャースクールの空いている部屋で同じく出品する講師の須藤と一緒に規格サイズの絵を描くだけだ。手直しをしてもらうわけにはいかないが、須藤からアドバイスをもらうことはできる。 「保科さん、気合いが入ってますね」 いつのまにか須藤が席を離れ、みどりの絵を見ていた。 「いい表情が描けてますね。お子さんの小さかった頃ですか?」 「ええ」 みどりは庭で遊ぶ母子を描いていた。あの頃はよかった。自分は世界一幸せな母親だと思い込んでいた。何点か他にも描いたが、納得のいくものに仕上がらなかった。今回はいけると、手応えを感じていた。 「大きなサイズにも慣れましたね。これは保科さんの傑作ですよ」 「ありがとうございます」 自分の絵もある中で生徒のことまで気にかけてくれる須藤に、みどりは感謝していた。だが、それも今日で終わりだろう。最後の仕上げを終え、みどりは絵筆を置いた。 「お疲れ様でした。素晴らしい出来ですよ。僕のほうから応募しておきますので」 「よろしくお願いします」 須藤はしげしげと絵をみつめていた。みどりは片付けを始めた。 「……保科さん、何かありましたか?」 「え……?」 須藤の問いかけにみどりは戸惑った。 「最近あまり元気がないように見えます。絵を描いている時は集中しているけれど、抱えきれない何かをぶつけているようにも思えて……。言いたくなければいいんです。ただ、保科さんは僕の自慢の生徒なので、そういう顔をされるとちょっと気になるというか……」 「私、変な顔をしてました?」 「いえ、きれいで魅力的な顔なんですけど。――あ、僕こそ変なことを言ってすみません」 頭を掻いた須藤がなんだかかわいく思え、みどりは自然と笑みを浮かべた。 「こんなおばさんにお世辞なんかいいですよ。ご心配をかけたようで、すみませんでした」 「お世辞じゃないです。保科さんは若々しくて素敵な女性ですよ。保科さんから見たら、僕のほうこそケツの青いガキみたいでしょう?」 「先生みたいなハンサムな方が何を言ってるんですか。先生に好意を持たない女性はいませんよ」 「そんな、保科さんこそ受講者の男性のほとんどが憧れてますよ」 なんだかやりとりがおかしく感じられて、二人で吹き出してしまった。 「……ありがとうございます。久しぶりに笑いました」 みどりの本音だった。 「保科さんの笑顔に貢献できてよかった。僕でも保科さんのためにできることがあったんですね」 「そんな、先生にはいつもお世話になっているのに……」 「僕にできるのは簡単な絵の手伝いだけですよ。大した才能もないのに、偉そうに人の絵を批評して……」 須藤が寂しげに自分をあざ笑う。 「先生は才能をお持ちです。自信を持ってください」 みどりは須藤を励まそうとした。 「そうでしょうか。描いても描いても、伝わらない絵ばかりで……」 須藤はますます気落ちしていく。生徒の前でこんな姿を見せたことはない。 「見る目がある人はわかるはずです。必ず認められます」 みどりは須藤を元気づけたかった。 「……すみません。保科さんの心配をしていたのに、僕のほうが心配されてしまいました」 須藤がかすかに笑った。その顔にみどりはどきりとした。 「……お互い様ですよ。人間ですもの」 「確かにそうですね。人間だから、誰かにそばにいてほしい時がある」 須藤が真面目な顔つきになった。 「保科さん、しばらくそばにいてくれませんか? もしあなたも誰かにいてほしいなら、今は僕にその役目をください」 須藤の手がみどりの肩に触れた。みどりは胸が締めつけられそうだった。互いの瞳をみつめ合う。やがてどちらからともなく目を閉じ、唇が近づいていった。
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