さらにその頃。保科家の次男、紅葉(くれは)はR大キャンパスで一人の女性から寝耳に水の話を聞かされていた。 「ねえ、できちゃったみたいなんだけど」 「はあ?」 紅葉は間の抜けた声で答えた。女性受けする甘いマスクだが、軽薄であまり物事を深く考えるタイプではない。 「だから、紅葉の子供ができたみたい」 「麗奈、もうお前とは終わっただろ?」 私立の大学に入学したものの紅葉は学生の本分に勤しむつもりなど全くなく、ひたすら遊んでいた。一応四回生なのだが、留年は間違いない。恋人も次々に替え、麗奈とも二か月前に別れたはずだった。 「確かに別れたけど、昨日簡易検査をしたら……」 麗奈が口をとがらせた。 「本当に俺の子?」 紅葉は訝しんだ。 「あんた以外いないわよ。失礼ね」 麗奈は眉を吊り上げた。 「お前、まさか産むなんて言わないよな?」 今まで別れ話がこじれたことはあっても、相手を妊娠させたことはない。紅葉は子供に縛られるのはまだ嫌だった。もちろん結婚も考えていない。 「堕せっていうの?」 麗奈が気色ばむ。 「当然だ。金なら払う」 手術代に多少上乗せしてやればいいと紅葉は考えた。金さえ出せば何とかなる。麗奈は紅葉を呆れ顔で睨んだ。 「そう言うと思ってたけど……。じゃあ、慰謝料も含めて五十万払ってよ」 「五十万!?」 さすがに紅葉だけで払える額ではない。 「ズィルバーンの社長の息子なら安いもんでしょ」 「親が金持ってるからって、俺も持ってるわけじゃない」 「親に出してもらえばいいでしょ。お父様は会社に傷を付けたくはないはずよ。あんたのようなボンクラ息子を持って、気の毒ね」 麗奈の言葉に紅葉は黙ってしまった。確かにその通りだ。碧斗の結婚も控えているし、トラブルは避けたいだろう。そもそも自分だけで用意できる金額ではない。両親からきつく叱られることを考えると紅葉は逃げたくなった。 「早めに処置したいから手術代は立て替えておくわ。ちゃんと一括で払ってよね」 麗奈はそう言って紅葉から離れ、去って行った。
保科邸は郊外の一等地に建っている。豪邸というほどではないが、いい暮らしをしていることは外見からもわかる。紫音が帰宅した時、母みどりはまだカルチャースクールから帰っていなかった。 「田頭さん、美波たちと遊んでくるね」 私服に着替えた紫音は田頭智佐子にそう伝えた。智佐子は住み込みの家政婦で六十代と思われるが、誰も正確な年齢を知らない。紫音が物心つく頃にはすでに保科家にいた。体の不調を訴えることもほとんどなく、元気に甲斐甲斐しく働いてくれている。 「わかりました。紫音さん、気を付けて」 智佐子はにこやかに紫音を送り出した。
三人の子供の母で銀之助の妻である保科みどりは、趣味の水彩画教室からの帰りだった。銀之助より十歳下の五十歳だが、実年齢よりも若く見える。もともと絵を描くことが好きだったが、今通っている大きな理由は若手の男性講師が魅力的だからだ。もっとも彼とどうこうなりたいわけではなく、自分の絵を手直しする仕草やわずかに交わす言葉が小さな喜びになるという程度だ。家のことは智佐子がほとんどやってくれるし、子供たちも大きくなり手を離れたため、みどりは趣味に打ち込むことができる。しかし、妻として母としてなるべく家族の帰宅を出迎えたいと考え、いつも夕方には家に帰るみどりだった。
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