紗雪の父、一條実義(いちじょうさねよし)から銀之助が突然の電話を受けたのは、一週間後の夜だった。電話に出た銀之助は平謝りに謝り、「碧斗の一時的な気の迷いでしょうから、話をして改めて伺います」と一條に告げた。さっそく帰宅した碧斗を部屋に呼んだ。 「何のつもりだ、今更婚約を解消したいなどと。勝手に一條家に断りに行ったのか」 怒りを目に湛えて、低い声で碧斗を問い詰める。 「報告が遅れてすみません。でも、一番迷惑をかけるのがあちらの家なので、早めに話に行ったんです」 碧斗は淡々と答える。 「親にひと言の相談もなしに……。他に好きな女がいるだと? ふざけるな! 紗雪さんのどこが不満なんだ。『なの銀』の頭取の娘で、見た目も性格もかわいらしいじゃないか。今時珍しいくらい、たおやかで素敵なお嬢さんだ。しかもお前を好いている。それを、お前の気まぐれで婚約破棄か?」 だんだん感情が高ぶってくる銀之助。対する碧斗は冷静だった。 「確かに紗雪さんは素晴らしい女性です。でも、僕が生涯を共にしたい人じゃない。愛することができないのに結婚したら、それこそ失礼です。僕は影原美咲さんという女性を愛しています。彼女と結婚して、彼女を一生守りたい」 はっきり述べた碧斗に、銀之助は目を吊り上げた。 「お前一人の問題じゃないんだ。ズィルバーンの発展に『なの銀』の協力は不可欠だ。お前と紗雪さんが結婚することで、より絆を強める意味もあるんだぞ」 「そんな古臭い考えに縛られたくありません。父さんも『お前が気乗りしないなら無理しなくていい』と言ってたじゃないですか」 「それは婚約前の話だ! 婚約しておいて今更白紙に戻せとは、わがままにも程がある!」 銀之助が語気を強めた。 「わがままは承知しています。紗雪さんには申し訳ないと思ってます。あちらのご家族にも、父さんにも……。でも、僕は後悔する人生を送りたくない。本当に大切な人を、愛する人を、自分を騙して捨てるなんてできない。僕の人生です。迷惑をかけて申し訳ありませんが、僕の思うようにさせてください」 碧斗は父に頭を下げた。碧斗の覚悟を知り、銀之助はたじろいだ。 碧斗が親に歯向かうことなど今までなかった。成績優秀でスポーツマン、真面目で従順な自慢の息子だった。もう少しやんちゃでもいいのだが、と歯痒く思うこともあった。それがこんな形で……。 「……その女性はどんな人なんだ? お前がそこまで想うのなら、それなりの女なんだろうな」 銀之助は少し気を静めて碧斗に尋ねた。 「影原美咲さんという、三十歳の女性です。経理のパートをしながら、美月ちゃんという四歳の女の子を育てています」 それを聞いて、銀之助は再び憤った。 「年上の子持ちか! 何故そんな女と」 「彼女のせいじゃありません。結婚するはずだった男性が、入籍直前に事故で亡くなったんです。すでに美月ちゃんがお腹にいた美咲さんは、一人で生んで育ててるんです」 「お前、その子の父親になるつもりか? ままごとじゃないんだ、子育てはただでさえ大変だぞ。何を好き好んで、そんな苦労をする必要がある?」 銀之助は反対だった。実の子でもない子供を息子が育てるなど、とんでもない。他の男もいるだろうに、何故よりによってわが子なのか。 「お前はその女に騙されてるんじゃないか? お前に財産があると知って、わざと近づいたんだ。お前は優しいから、情にほだされて……。そうだ、そうに決まってる」 銀之助は美咲を悪い女だと思い込んだ。いや、そう思い込みたかったのだ。
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