碧斗は古いアパートの一階の部屋の前に立っていた。「影原」と表札に書いてある。大きく深呼吸して呼び鈴を押した。 「どなたですか?」 女性の声がした。 「……保科です」 しばらく沈黙が流れる。 「あお……と君?」 すると小さな足音がパタパタと近づいてきた。ドアが勢いよく開く。 「あおとお兄ちゃん!」 四歳くらいの女の子が出てきて碧斗に抱きついた。 「美月ちゃん、元気だった?」 碧斗は女の子を抱っこしてやった。三十歳ほどの女性も顔を出した。 「碧斗君、どうして……」 「美咲さんともう一度話したくて。……やっぱり僕は美咲さんが好きです。やり直したい」 美咲は困惑した表情を浮かべた。 「でも、碧斗君は結婚するんでしょ?」 「親の言いなりの、愛のない結婚なんて意味がない。もう自分の気持ちに嘘はつけない。美咲さんが許してくれるなら、僕は……あなたと人生を歩みたい。もちろん、美月ちゃんとも」 碧斗は美咲をまっすぐみつめた。美咲の目に涙が光る。 「とりあえず、入って」 三人は美咲の部屋に入った。
みどりは画材屋で手に入れた新しい絵の具や水彩紙を部屋で広げて、鼻歌を歌っていた。一山展に出品するのだ。それなりの道具で描きたい。 「奥様、楽しそうですね」 智佐子が声をかけた。 「須藤先生が、一山展に出してみないかって。何を描こうか迷うわ」 「一山展って俳優の雪見時雨が前に入選してましたね。すごいじゃないですか」 智佐子が手を叩く。みどりは苦笑した。 「まだ何もしてないわよ。でも、先生に私の腕を認められたってことだから、そこは喜んでいいかしら」 「碧斗さんの結婚式ももうすぐですし、うれしいことが続きますね」 「まずは結婚式よね。紗雪さんもうちに来るし、落ち着いてから一山展の絵は描き始めようかしら。やることが多いって幸せね」 みどりと智佐子は保科家の好事を喜び合った。 銀之助もみどりが一山展に出品すると聞いて喜んでくれた。 「好きこそものの上手なれ、か。素人がいきなり賞を取るようなことはないだろうが、目標ができるのはいいことじゃないか。頑張ってみろ」 「ええ、せっかく須藤先生が推薦してくれたんだもの。できる限りの努力はしなきゃ」 みどりは笑顔で答えた。 「その講師も美大の出だったか? まあ、それなりに見る目はあるのかもな」 「確かU美大を首席で卒業したって聞きました」 「首席がカルチャースクールの講師か? 絵だけで食べていくのは難しいんだろうが……」 「あなた、そんなことを言っては野暮ですよ。ハンサムで優しいし、須藤先生が目当てで通っている奥さんたちもいるんですから」 自分もそうだということを棚に上げて、みどりは言った。 「なんだ、実力より見た目なのか。それだと須藤という講師も当てにならんな」 「須藤先生は実力もありますよ。今に世間に認められる画家になります」 須藤を侮辱されて、思わずみどりは反論してしまった。 「やけにそいつの肩を持つな。気があるのか?」 銀之助が冗談交じりになじった。みどりが浮気などできないことは承知している。 「嫌ですね、いくつ離れてると思うんですか。私は頼りがいのある人がいいんです」 少々顔を赤らめつつ、みどりが酌をした。 「俺みたいな、か?」 「……そういうことにしておいてください」 すねたようなみどりを見て、銀之助は苦笑いを浮かべた。結婚して三十年近くになるが、保科夫妻は仲がいい夫婦と言えるだろう。お互い相手を信頼している。ケンカをしてもすぐに亀裂を修復する。 家族も増えるし、これからも幸せが続くものと二人は信じて疑わなかった。
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