(一)歪みの序章
桜泉女学院高等部普通科一年A組の教室。その日の授業が終わり、保科紫音(ほしなしおん)は友人の千鶴や美波から声をかけられた。 「紫音、カラオケ行かない?」 「えっ、このまま?」 紫音は聞き返した。 「バカね。制服で行くわけないでしょ」 「でも……」 淑女の育成を校訓に掲げるだけあり、一応校則では外出時は制服着用、保護者の同伴なしでのカラオケや外食は禁止となっている。ゲームセンターへの出入りも禁止だ。もっとも高等部ともなると大抵の生徒は守っていない。気の小さい紫音は「先生にみつかったらどうしよう」とびくびくしてしまう。 「紫音は臆病過ぎ。私服で堂々としてればバレないって」 「うちの校則が古すぎんのよ。今時メイクもカラオケもダメなんて、あり得ないし」 美波の意見ももっともだと紫音は思う。だが、校則は校則だ。 「校則は守ったほうが……」 「へえ、友情より校則のほうが大事なんだ」 そう言われると弱い。結局紫音はいつも友人たちに引きずられてしまうのだった。 「じゃあ、一旦帰って着替えてから、『カラ壱』に集合ね」 そう約束させられて紫音は家に帰った。
同じ頃。紫音の父、保科銀之助は、株式会社ズィルバーンの社長室で企画書に目を通していた。近年ペットビジネスが注目されているが、ペットブームが叫ばれるよりもずっと早くその将来性を見据え起業した者たちがいた。銀之助もその一人だ。創業当時はワンルームマンションでドッグフードを研究する小さな有限会社だったが、今や各種ペット用品はもちろん、ペットホテル、ペットサロン、ペット葬祭まで手掛けるグループ企業に成長した。 「社長、五十嵐先生がお見えです」 秘書の鷹野恭一の声に、銀之助は顔を上げた。五十嵐昇はズィルバーンの顧問弁護士で、長い付き合いだ。今日は契約書の条文をチェックしてもらうために呼んだ。 「お通ししてくれ。それから碧斗(あおと)も呼んで来い」 銀之助はそう答えた。長男の碧斗は二十八歳。真面目な優等生を地で行くタイプで、課長というポストを任せている。すでに銀行頭取の令嬢との婚約も調い、来年春に式を挙げる予定だ。いずれ社長の椅子を譲るつもりでいる。 「保科社長、お久しぶりです」 五十嵐が社長室に入ってきた。 「先生、お忙しいところすみません。どうぞこちらへ」 銀之助は五十嵐を応接セットのほうへ案内した。 「息子が同席してもよろしいですか?」 「次期社長としての勉強ですか。優秀な息子さんで羨ましい限りです」 「先生のご子息もご立派じゃないですか。今研修医とか?」 「実際に人の命を助ける仕事がしたいと、弁護士は見向きもしませんでしたよ」 五十嵐は苦笑した。銀之助は机の上の契約書を手に取って、自分も応接ソファに座った。 「実はトリマーの専門学校を作ろうかと検討しているのですが」 「ほう、学校法人を立ち上げますか?」 「そこらへんも含めて具体的なビジョンが煮詰まったら、また先生にご相談させてください」 「ええ、いつでもどうぞ」 ドアをノックする音がした。 「失礼します」 碧斗が入ってきた。長身で童顔、一見ヒョロッとした印象を与えるが、学生時代サッカーで鍛えた体は意外に筋肉質だ。 「社長、お呼びでしょうか?」 社内では碧斗は父を肩書きで呼ぶ。 「Q百貨店との契約の件だ。特殊な契約だから、五十嵐先生にも条文を見てもらおうと思ってな。お前も今後のために同席してほしい」 「わかりました」 碧斗も席に着いた。三人で契約書を囲んで話し始めた。
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