(三)姉様のピアノと黒一点のお茶会
ユリア姉様がピアノを弾いている。先日の晩餐会でムージアンが披露した新曲だ。姉様は一度聞いただけでその曲をすっかり覚えてしまう。腕前もかなりのもので、八年前に国王陛下が即位した時、祝いの宴で演奏したくらいだ。でも姉様はその一年後、先生について習うのをやめてしまった。それからは自分が好きな時に好きな曲を弾いている。それでも耳のある者が聞けば、その音色の違いがわかる。僕も今聞き惚れている。僕だけでなく、母様もミランダ伯母様も姉様の演奏に耳を傾けていた。 最後の音が消えると、みんなで拍手をした。 「うっとりしちゃったわ。大した才能ね、ユリア」 伯母様が姉様を褒めた。ミランダ伯母様はテディ兄様の母君だ。父様と夫のパウル伯父様とは幼馴染でもある。 「お茶にしましょうか。ハンナさん、お願いします」 母様の声に応えて、ハンナがテーブルに紅茶とお菓子を用意し始めた。母様も手伝う。母様は使用人にも丁寧語だし、彼らの手ばかりを煩わせることを良しとしない。お祖父様に引き取られる前の屋敷で身に付いた習慣らしいが、詳しいことは話したがらない。多分いい思い出がないのだろう。 伯母様とともに、僕も姉様も席に着いた。 「どうせなら、留学して本格的に勉強したら?」 お菓子をつまみながら、伯母様が姉様に言う。伯母様も絵の勉強のため留学した経験がある。今でも意欲的に絵を描いているし、宮廷の貴族から依頼を受けたりもする。わが家にも伯母様の絵を一枚飾ってある。 「そんなつもりはないわ」 姉様が答えた。 「せっかくの腕がもったいないわよ」 「独学だし、伯母様のように人からお金をもらうほどではないもの」 「だから勉強すればいいじゃない。トーマもセイラさんも反対はしないわよ」 「もちろんです。私はユリアの意志を尊重しますから。トーマは寂しがるかもしれませんけど、ユリアの将来のためならわかってくれるはずです」 母様の言葉に、僕はドキリとした。 「僕は反対です。留学なんて、どんな男がいるかわかったもんじゃない」 母様はにこにこ笑っている。 「相変わらず仲がいい姉弟ですね」 伯母様は少し呆れ顔だった。 「……シスコンもここまでくると、何だかね。留学先までついていきそうだわ」 「その通りです。姉様が留学するなら、僕も一緒に行きます」 「私、別に留学しないから」 姉様が素っ気なく答える。 「ユリアは何かしたいことはないんですか?」 母様が尋ねた。 「別に……」 姉様は表情を変えず紅茶を飲んだ。 「私が十六歳の時は、絵の腕を磨くんだってわくわくしてたけどね。セイラさんはルチア様の護衛になったでしょ? 若いのに夢がないなんて虚しくない?」 「私がいいって思ってるんだから、あれこれ言われる筋合いはないわ」 伯母様の言葉にも姉様は心を動かされた様子はなかった。 「じゃあ、テディと結婚してうちに来る?」 「ありえません」 「絶対駄目です!」 姉様と一緒に僕も叫んだ。伯母様は苦笑している。 「焦る必要はありません。ゆっくり自分の居場所をみつけていけばいいんです。私もはっきり将来を考えていたわけではありませんから」 母様は落ち着いていた。 「まあ、セイラさんの場合はトーマの存在が大きいわよね。今も熱愛中でしょ?」 伯母様に言われて、母様が赤くなった。 「……ミランダさんこそ、パウルさんと仲がいいじゃないですか」 「まあね。反りが合わないと思ってた人が、案外ベストパートナーでびっくりしてる」 「そういうものなのかもしれませんね」 「トーマも最初はセイラさんを敵視してたって聞いたわ」 「みたいですね。後で聞きました。私は異端児でしたから、初めから皆さんに受け入れられるとは思っていませんでしたけれど」 「実力と人柄で切り開いたのはすごいと思うわ。トーマも反発から友情、愛情に変わって、ね。――ところで、最近どう? マンネリ化してない?」 「何がですか?」 「決まってるじゃない。夫婦の対話よ」 「話はよくしますが?」 「言葉だけじゃなくて……」 「……?」 「……相変わらず鈍いのね」 伯母様はため息をついたが、母様はきょとんとしている。博識のくせに、たまに見事な天然ぶりを炸裂させてくれるのが母様だ。十二歳の僕のほうが意味を悟って赤面してるんだけど……。隣を見ると、姉様も少し顔が赤い。僕らの様子に気付いた伯母様が話題を変えた。 「今度個展を開くんだけど、来てくれる?」 「本当ですか? 念願がかなったんですね。ぜひ行きたいです」 母様が子供のように喜ぶ。 「ユリアとアルもどう?」 「伯母様の絵は好きだから、私も行くわ」 「姉様が行くなら、僕も行きます」 こうして三人で初日に絵を観に行くことが決まった。母様が紅茶を飲んで伯母様に言った。 「お父様も絵が好きなんですけど、ちょうど領地に行く予定なんです。開催中に行くよう勧めてみますね」 「ありがとう。伯爵は今日もご不在みたいだけど、どうしたの?」 「知人と約束があって出かけてるんです」 「引退されても結構忙しいのね。うちの父もそうだけど」 「普段はアルの勉強を見てくれるので、助かります」 「お祖父様は教え方がうまいんです」 「私も教わったけど、家庭教師よりもわかりやすかったわ」 だんだんお祖父さまの武勇伝の話になり、お茶会は盛り上がった。姉様も笑顔を見せてくれ、僕は見惚れてしまった。 他の奴には見せたくないけれど、やっぱり姉様は笑顔が一番素敵だ。この笑顔を守れる強さがほしいと僕は思う。
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