セイラはベッドの上で目を覚ました。グレイヴィル伯爵とハンナが心配そうにのぞきこんでいる。 「……ルチア様は……?」 「ご無事だ。お前のことを案じていらっしゃった」 三日間も意識がなく、生死の境をさまよっていたらしい。撃たれた傷に加え、肺炎を起こしていた。 「まだ熱がある。今は何も考えずにゆっくり休みなさい」 伯爵は優しくそう言うと、部屋から出ていった。 セイラが危機を脱すると、見舞い客がグレイヴィル家に訪ねてきた。ルーファスとルチア、護衛の仲間たち、レッドフォード侯爵夫妻、パウル、セイラに好意を抱いている令嬢――。セイラが眠っている時は、見舞いの品を置いて帰った。しかし、トーマは一向に姿を見せなかった。 医師は二日に一度は経過を診に来てくれた。銃創は残るが、きちんとリハビリをすれば元のように動けるようになる、とのことだった。護衛に復帰するのはまだ先のようだ。 「あんな思いは二度とごめんだ。ルチア様もいいとおっしゃっているし、もう護衛は引退しよう?」 伯爵はそう言ったが、セイラは迷っていた。
そんなある日、ミランダが見舞いに来た。いきさつを知っている屋敷の者たちは快く思わなかったが、どうしてもセイラに直接謝りたいと言うので、渋々部屋に通した。 「ミランダ嬢」 セイラは驚いて身を起こした。 「ごめんなさいね、こんな目にあわせて」 「これはミランダ嬢のせいではありません。自分の務めを果たしただけです」 「……トーマとのこと、謝りに来たの」 ミランダの言葉に、セイラは顔をこわばらせた。 「……もう済んだことですから」 「本当のことを話すわね」 ミランダはセイラに近づいた。 「トーマが私のところに来た日ね……。私たち、本当は何もなかったの」 「……え?」 「昔関係があったのは本当よ。でも、五年ぶりに私が誘惑しても、彼は乗らなかった。セイラさんを愛してるからって。あんまり悔しかったから、一服盛って眠らせてお芝居したのよ。寝ている間に私を抱いたと思えば、あとは言いなりになると思ってた。……でも駄目だった」 ミランダは寂しげな顔をした。 「失礼よね、こんないい女を前に何もしないなんて。セイラさんに手を出していないなら、我慢も限界のはずなのに」 セイラは顔を赤らめた。 「……羨ましいわ、あんなに思われて。本当にセイラさんのことを大切に思ってるのね。賊のことを聞いた時も、真っ先に飛び出していったらしいし」 「え、何の話ですか?」 「聞いてないの? 倒れてるあなたを最初にみつけて介抱したのは、トーマだそうよ」 初めて聞く話にセイラは戸惑った。 「近くの水車小屋にあなたを避難させて、体を拭いて温めていたそうよ。応援が来たら後は託したらしいけれど。救護隊にいる従兄から聞いたのよ」 「トーマが私を……」 呆然とするセイラに、ミランダは優しい笑顔を向けた。 「私のことは許さなくてもいいけど、トーマは許してあげて? あなたのためなら、きっと彼は何でもするわ」 「……私のほうこそ、彼に謝らなくては。正直に話してくださって、ありがとうございます」 ミランダは苦笑した。 「恋人を盗ろうとした女にお礼なんて必要ないわよ。……本当は一生黙ってるつもりだったんだけど、あなたたちが命がけだから恥ずかしくなっちゃった」 「誰でもそうだと思いますよ」 「……でも、トーマも馬鹿よね。いくら薬が効いてたとはいえ、よく考えればわかりそうなものなのに」 「何がわかるんですか?」 セイラは至極真面目に質問する。 「……セイラさんにはまだわからないかもね」 不思議そうな顔をするセイラ。ミランダは話題を変えた。 「そうそう、フォション中尉と親しくなったって聞いたけど。彼はやめたほうがいいわよ」 「なぜですか?」 「彼は一見紳士だけれど、実は女癖がすごいのよ。親切を装って狙った女の子に近づくの。私の友人も引っかかったのよ。従妹のプレゼントを選んでほしい、なんて言われて」 「私も言われましたけど」 「彼に年頃の従妹なんていないわよ。みんな年が離れてる。おばさんか、小さい子しかいないそうよ」 セイラは目を丸くした。 「獲物を手に入れるためには手段を選ばない。そのくせ、一度手にするとあっさり捨てる。女の敵ね。みんなうわべに惑わされているのよ」 「……どことなく粗暴な印象は受けましたけれど……」 「その直感は正しいわ。深入りしないことね」 「ご忠告、感謝します」 伝えるべきことを伝え、ミランダはセイラの部屋を出ようとした。セイラが呼び止める。 「あの、ミランダ嬢」 「何かしら?」 「……これからは、いい友人になれるでしょうか?」 ミランダはセイラの顔をまじまじとみつめた。 「本当にあなたって……」 「歩けるようになったら、絵を観に行ってもいいですか?」 「……それは歓迎するわ」 ミランダは笑顔で部屋を出ていった。
トーマはグレイヴィル家に行かなかった。もちろんセイラの様子は気になる。あの時冷たい体を抱きしめながら、セイラの命が尽きてしまわないよう必死に祈った。自分の命と引き換えでもいい。一生そばにいられなくてもかまわない。だから――。心底そう願った。彼女が意識を取り戻したと聞き、トーマは神に感謝した。 だが、見舞いに行くわけにはいかなかった。グレイヴィル家の者は皆トーマをセイラに会わせようとしないだろうし、彼女自身が会いたくないかもしれない。トーマも強いて会うことにこだわらなくなった。セイラと永遠の別れをすることに比べれば、同じ地上で生きているだけでもありがたい。そんな心境だったのだ。 宮廷でミランダと会った。 「お見舞いに行かないの?」 「……二度と会わないって言っただろ?」 「不可抗力は仕方ないじゃない。もう誘惑なんてしないわよ」 ミランダは平然としていた。 「お前とは関わりたくない」 「それでもいいけど。ねえ、本当に会いにいかないの?」 ミランダは再度問いかける。 「会う資格がない。あいつが無事ならそれでいい」 「つまらない意地を張らないで」 「意地なんかじゃない。本当にそう思うんだ」 トーマは静かに答えた。 「……妙に悟っちゃった顔ね」 「どう思われてもかまわない。俺は俺の意志で動く。これ以上お前と話すのはごめんだ」 トーマは去って行った。 「……せっかく真実を教えて、仲直りさせてあげようと思ったのに。世話が焼けるわね」 ミランダは二人のための策を思案し始めた。
ミランダの見舞いの二日後、フォション中尉がセイラを訪ねてきた。花束と見舞いの品を持参している。 「もっと早く来たかったのですが、体に障るといけないと思って」 いつも通りの紳士的な笑顔だ。 「ありがとうございます。おかげさまでだいぶよくなりました」 「顔色が良くて安心しました。また、いい店を探しておきますよ」 「従妹のご令嬢はどうされてますか?」 セイラは中尉に尋ねた。 「ああ、エマですか。元気みたいですよ。あの髪飾りも使ってくれてるようです」 「存在しない方が、どうやって髪を結うのですか?」 セイラに不意を突かれ、中尉は一瞬慌てた。 「そんな……。ちゃんとエマはいますよ。誰から聞いたんですか?」 「年配のご婦人か、小さい女の子では? 年頃の方はいらっしゃらないとか」 中尉の顔が歪んだ。 「……どこからか、私の情報が漏れたようですね」 「親切な友人がいまして。――わざわざ嘘をつかなくてもいいじゃないですか。嘘で築いた関係に何の価値があるのですか? 仲良くなりたいなら、素直にそうおっしゃればいいだけです。そんなにご自分に自信がないのですか?」 「……あなたにはわからない」 「中尉は人を騙しているつもりで、一番ご自分を騙していらっしゃるのでは? 人を傷つけているつもりで自分を傷つけているような気がします。本当の中尉はいい方だと思うんです」 「……どこまでもお人よしですね」 中尉が失笑した。 「そうでもありません。私も自分を偽ってましたから」 セイラが笑顔になった。 「親切には感謝します。……父が、中尉はとても有望だと言ってました。いい素質を持ってると。父を失望させないよう、お願いします」 「グレイヴィル伯爵が……?」 「父は人を見る目がありますから。自信を持ってください」 フォション中尉はセイラと握手を交わし、帰って行った。
休憩に入って間もないのに、トーマはルーファスに呼ばれた。 「急いでグレイヴィル伯爵邸に向かえ。これは命令だ」 「……ご命令でも従えません。理由はご存じのはずです」 「セイラが危篤でもか?」 トーマは驚いて顔を上げた。 「さっき容体が急変したとの知らせがあった。グレイヴィル伯爵も帰宅したらしい」 「――失礼します」 扉を破るかのように出ていくトーマを見送り、ルーファスは微笑みを浮かべた。
トーマは何も目に入らなかった。クロードや屋敷の者たちがトーマを制止しようとした気がするが、かまっていられなかった。セイラの部屋の扉を開けて中に飛び込んだ。 「……トーマ?」 ベッドで体を起こしていたセイラが、びっくりした顔でトーマをみつめる。 「どうしてここへ? 仕事はどうしたのですか?」 トーマは息切れと驚きでしゃべることができない。 「そんなに慌てて……。一体何があったんですか?」 「……何がって……。お前が……危篤……だっ……て……いうから……」 「この通り元気ですよ? リハビリを始めるのはもう少し先ですが」 トーマは床に座り込んだ。 「大丈夫ですか?」 「……また……騙された……」 クロードやハンナたちが部屋に入ってきて、トーマを追い出そうとした。 「待ってください。話がしたいんです」 セイラに言われ、使用人たちは引き下がった。 「水でも飲みますか?」 セイラが傍らの小さなテーブルでコップに水を注いだ。トーマにそれを差し出す。左肩が動かせないため、全て右手での作業だった。 「……左が使えないのか。痛むか?」 「それほどでは。弾がかすっただけですから、治りは早いそうです」 トーマは立ち上がってコップを受け取った。水を飲むとだいぶ落ち着いた。 「……足は?」 「当分動かさないほうがいいと。でも大丈夫ですよ」 「そうか、よかった」 トーマはコップをテーブルに戻した。 「あの……。助けてくださってありがとうございました」 「礼を言われる筋合いはないぞ」 トーマはセイラの言葉をはねつけた。 「賊のことを聞いて、真っ先に駆けつけて介抱してくださったそうですね」 「なんで知ってるんだ?」 「ミランダ嬢から聞きました」 「ミランダから?」 ミランダがセイラを見舞ったことが信じられなかった。 「救護隊に親戚がいるそうです。私、何も知らなくて……。トーマはいつも私のことを思って私を助けてくれるのに。冷たくしてしまって、すみませんでした」 「謝るのは俺のほうだ。お前を裏切るような真似をして……」 お互いに謝る。 「トーマは裏切っていませんよ」 「いや、薬のせいとはいえミランダと……」 「何もなかったそうですよ」 「え?」 「ミランダ嬢が正直に話してくださいました。トーマはミランダ嬢に何もしてません」 トーマは一瞬理解できなかった。 「……何もなかった?」 「はい、そうおっしゃってました。相手にされなかったことが悔しくて、薬で眠らせて嘘をついたと」 「……」 「自分のことは許さなくてもいいから、トーマは許してあげてほしい、と言われました」 「ミランダがそんなことを……」 一体何のために悩んできたのか。そんな思いがトーマの胸をよぎる。だが、若気の至りは事実だ。 「……今回はミランダの狂言だったかもしれないけれど。昔、好奇心からミランダの誘いに乗ったのは本当だ」 セイラの顔が少し険しくなった。 「……やっぱり許せないよな」 「許せません……って言ったらどうしますか?」 セイラの表情が緩んだ。 「……本当は、とっくに許していたんです。意地を張っていただけで。私、鈍いですよね。自分の気持ちもわからないなんて」 「許してくれるのか?」 「許す、許さないの問題じゃないんです。私はトーマが大好きで……いつも一緒にいたいんです」 トーマはセイラを抱きしめた。 「痛いです、肩が……」 「ごめん」 慌てて腕をほどき、かわりにセイラの手をとった。 「……このまま死ぬかもしれないと思った時……。最後にどうしても会いたいと思ったのがトーマでした」 「俺は……お前がこのまま目を覚まさないんじゃないかって、生きた心地がしなかった。お前が生きてくれさえすれば、そばにいられなくてもいいと思った」 「それでは駄目です」 「どうして?」 「前に約束したじゃないですか。それに……好きだから……そばにいてください」 トーマはセイラの頬に手を当て、唇を重ねた。 「……初めて『好き』って言ったな」 「……フォション中尉に言ったことが、そのまま自分に返ってきました」 「フォション中尉?」 ――せっかくの口づけの後なのに。トーマは少し機嫌が悪くなった。 「トーマは正しいことを言っていました。中尉は嘘をついてたんです。疑ってすみませんでした」 「わかればいいんだ」 トーマは機嫌を直した。 「この間、中尉がお見舞いに来たんです。ミランダ嬢に中尉のことを聞いていたから、その時に問い詰めて。……私、人と仲良くなりたいなら嘘をつかずに素直にそう言えって、偉そうに中尉にお説教して。でも、私も同じでした。トーマに対して素直になれませんでした」 「……俺も最初から全部正直に話していればよかったんだよな」 「お互い、嘘や隠し事はなしにしましょう」 「そうだな」 セイラの提案にトーマも頷いた。そして、いつものセイラをからかう顔になった。 「じゃあ、さっそく俺に対する気持ちを素直に言ってくれ」 「……さっき言ったじゃないですか」 「もう一度聞きたい」 「そう何度も言えません」 馴染みのセイラの困った顔だ。 「素直に言えたらいいものをやるよ」 「いいもの?」 「何なら先払いするか?」 セイラが答える暇もなく、トーマはもう一度セイラの唇をふさいだ。 「……今度こそ約束を守る。ずっとそばにいるから」 部屋の入口から咳払いが聞こえた。振り返ると、グレイヴィル伯爵が立っていた。 「どういうことか、説明してもらってもいいかな?」 トーマは青ざめ、セイラは顔を赤らめた。
翌日、トーマはルーファスに抗議した。 「また騙したんですか?」 「私は言われた通りに伝えただけだ。しかし、昨日の慌てぶりは見ものだったな」 「……やっぱり楽しんでましたね」 ルーファスは笑った。 「よりを戻せたのだろう? よかったじゃないか。私はミランダに協力しただけだ」 「ミランダ?」 「ああ。お前がセイラに会いに行こうとしないから、私から後押ししてくれと。台詞もミランダが用意してくれた。うまくいったと伝えておいたぞ」 なぜミランダがそんなことをしたのか。トーマは不思議に思った。
ミランダの姿を見かけると、トーマはさっそく問い詰めた。 「お前、どうして……」 「せっかく人が本当のことを話そうとしたのに、聞いてくれないんだもの」 「もっと早く言えばいいだろ」 「言うつもりはなかったの。ただ、セイラさんがあんなことになって、さすがにね……。誰かさんも必死の形相で助けに行ったようだし」 ミランダは静かに微笑んだ。 「もう離れては駄目よ」 「言われなくてもそのつもりだ。……っていうか、お前が割り込んだのが元凶だろうが」 「過ぎたことは水に流してよ。おかげで前より親密になれたでしょ?」 「……まあな」 グレイヴィル伯爵を説得するのに骨は折れたが、結局はセイラの気持ちを尊重してくれた。接近禁止令も解かれ、屋敷への出入りも認められた。 「お前が俺たちの仲を取り持つとは思わなかった」 「友達の恋の応援をしてはいけないかしら?」 「友達?」 「ええ。セイラさんが私を友達だって」 トーマは目を丸くした。 「あいつ……」 「本当にどこまで人がいいんだか……。大切にしてあげなさいよ」 「言われなくても」 トーマはすがすがしい気持ちでミランダと別れた。
トーマは毎日のようにセイラを見舞った。 「護衛の仕事はどうするんだ?」 「まだ迷ってるんです。お父様は辞めたらいいと言うんですけど……」 「親としてはそうだろうな」 「トーマはどう思います?」 「危険なことはしてほしくないけど……。お前がどうしても続けたいと言うなら、反対はしない」 セイラは判断がつきかねている様子だった。 「まあ、とりあえず歩けるようにならなくちゃな」 「そうですね」 やがてセイラのリハビリが始まった。トーマも時間があれば手助けしてやる。左肩の傷は先に完治し、杖をついて外出できるようになった。
そろそろ杖も手放そうとしていたある日、トーマが珍しく正装でグレイヴィル家にやってきた。 「どうしたんですか、その格好? 晩餐会でもあるのですか?」 セイラは不思議そうに尋ねた。トーマはセイラの前にひざまずいた。 「一生そばにいて一生守ると誓います。セイラ・グレイヴィル嬢、俺と結婚してください」 その場にいたグレイヴィル伯爵も使用人たちも驚いた。セイラは突然の求婚に言葉を発することも動くこともできない。 「俺がお前の居場所になる。お前も俺の居場所になってほしい」 セイラは目を潤ませながら、静かに差し伸べられた手をとった。
――数年後。 「お父様! またユリアにおもちゃを買いましたね?」 セイラがグレイヴィル伯爵を問い詰める。 「……だって、あのつぶらな瞳で『おじいちゃま』ってせがまれるとさ…」 「お父様は孫を甘やかしすぎです!」 「セイラ様、あんまり興奮されてはお腹の赤ちゃんに障ります」 メイドのハンナがセイラをなだめる。トーマが帰ってきた。 「トーマ君、いいところに。セイラが怖いんだよ」 「義父上、また何か買ったんですか?」 トーマはセイラの頬に唇を寄せた。 「お父様、お帰りなさい」 娘のユリアが駆け寄ってきた。 「ただいま。いい子にしてたか?」 抱き上げて頬ずりをする。 「トーマ君ならわかるよね? 女の子ってかわいくて仕方ないだろう?」 「そうですね。でも極度に甘やかさないよう、気を付けてます」 「私は愛情を注いでるだけなのに」 「何でも与えればいいってものではありません!」 セイラがぴしゃりと言う。 「……セイラが鬼嫁になるとは思わなかった」 「誰が鬼ですか?」 「こんなかわいい鬼なら、俺は構いませんけど」 トーマはユリアを下ろし、セイラの肩を抱いた。 「……相変わらず夫婦仲はいいみたいだね。おかげで私の味方はクロードだけだ」 「義父上夫妻がお手本ですよ?」 トーマはグレイヴィル家の婿養子になった。トーマ自身がグレイヴィル家を継ぎたいと希望したのだ。伯爵に学ぶことはたくさんあったし、きっとこれからもそうだ。トーマは伯爵を尊敬していた。愛する妻のためにそれまでの全てを捨て、セイラを愛し育てた伯爵のため、トーマは何かしてあげたかった。 セイラが護衛に復帰することはなかった。その必要がなかったから……。 「ユリアもおじいちゃまの味方よ?」 「ありがとう。今度はうさぎさんがいいかな?」 「お父様!」 「まあまあ、落ち着けよ」 いつもの光景を使用人たちが微笑ましく見守る。
寝室で夫婦二人だけになった時、セイラは愚痴をこぼした。 「お父様には本当に困ります。あれではユリアがわがままな子に育ってしまいます」 「孫は特別っていうからな。お前がそんなに甘えるタイプじゃなかったから、余計にねだられるのがうれしいんだろう」 「私のせいですか?」 「そうは言ってない」 「この子も甘やかすんでしょうか?」 セイラがお腹に手を当てる。 「気持ちはそうだろうな。――お前、親になる自信がないって言ってたわりには、見事な母親ぶりだぞ?」 トーマが笑う。 「私はお母様のようにはなれません」 「セイラはセイラらしくあればいいんだ。俺が好きなのは、そのままのお前だから」 セイラの頬が少し赤く染まった。 「……私もそのままのトーマが好きです」 お互いの目をみつめて微笑み合う。 「そういえば、ルーファス様がおっしゃったんだが……。アレン様がユリアに一目惚れしたらしい」 「ええっ?」 アレンはルーファスとイヴェールの息子だ。 「冗談交じりに、許嫁として定めていいかと聞かれた。ゆくゆくは王妃だし、俺にセイラを譲ったから娘くらい差し出せ、と」 「ルーファス様も口が悪いですね」 セイラが笑った。 「兄貴のところのテディもユリアにぞっこんみたいだし……。今からこれじゃ、年頃になったらどうなるか……」 トーマはため息をついた。 「パウルさんとミランダさん、うまくいってるようですね。意外な組み合わせでしたけれど、幸せそうでよかったです」 「ルチア様ももうすぐご結婚されるしな」 「結婚式には出席したいんですけれど」 「その子次第だろ?」 二人でセイラのお腹をみつめる。 「今度は男だといいな」 「どちらでも構いません。元気に生まれてくれれば」 「俺が構うんだ。誰かの嫁にやるのは、ユリアだけで十分だ」 「今から心配してどうするんですか」 「父親っていうのは、そういうものなんだ」 セイラが苦笑する。 「お父様もそうだったんでしょうか?」 「お前、気付かなかったのか? 今なら俺も義父上の気持ちがわかる。ユリアに恋人ができたら、俺もいびるな」 「お父様にいびられてたんですか?」 「お前の見てないところでな。でも、やっぱり義父上は立派な人だと思う。とてもかなわない」 「トーマはトーマでいいんですよ。さっきそう言ったじゃないですか」 トーマはセイラをそっと抱きしめた。 「……俺たちらしく、進めばいいか」 「そうですよ」 温かい時間が流れる。
トーマはセイラに言っていないことがあった。 結婚式を挙げた翌日、トーマは義父となったグレイヴィル伯爵にグレイヴィル家の伝統やしきたりを尋ねた。次期当主として知っておかなくてはならないことだ。 「そんなものないよ」 伯爵はあっさりそう言った。 「でも、何かあるはずです。これだけは守れ、ということが」 「古い慣習は全部私が壊してしまったからね」 確かに、使用人を同じテーブルに着かせたり、貴族が重んじるはずの地位と名声を捨てて田舎に移ったり、セイラに男子のような教育を施したり、伯爵の行動は伝統とはかけ離れていた。 「私の真似をしてもいいし、君がしたいようにすればいい」 「そう言われても……」 トーマは困ってしまった。 「ああ、ひとつだけ君に要望があるな。これを我が家の伝統にするか」 「……そんな軽いノリで決めていいんですか?」 「軽くはないさ。私も一生をかけて守ろうとしている誓いだ」 伯爵は微笑んだ。 「『妻を真実の愛で愛し、慈しむこと。家族も同様に愛すること』。……どうだい?」 「はくしゃ……義父上らしいですね。いい伝統だと思います」 トーマも微笑んだ。 「守れたかどうか決めるのは自分じゃない。セイラやこれからできる家族だ。受け継がれていくよう、お互い頑張ろう」 「はい」 トーマは事あるごとにこのやりとりを思い出す。グレイヴィル家の新しい伝統はまだ始まったばかりだ。 幸せそうなセイラの寝顔を見ながら、トーマは自分も眠りに落ちた。
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