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作品名:THE PLACE 作者:光石七

第7回   第7章 思い出の場所
 ルーファスが婚約した。国王に勧められての見合いだったが、ルーファスも相手を気に入ったのだ。国務大臣を務めるサリネ公爵の令嬢だった。イヴェール・サリネ嬢。容姿から優しさと温かさが感じられ、未来の王妃にふさわしい懐の深さと芯の強さがあった。結婚式は一年後だが、誰もが祝福し、その日を待ちわびていた。
「お前、惜しいことをした、とか思っていないだろうな?」
 控えの間でトーマがセイラに尋ねる。
「私は王妃の器ではありませんから。……あ、でも王属図書館の本は読んでみたかったかもしれません。王族以外立ち入り禁止ですから」
「本に釣られるか?」
「ご心配なく。レッドフォード家の書斎も立派ですよ」
「お前は本の所有数で相手を選ぶのか? 俺の魅力ってそこだけか?」
「他にありますか?」
 セイラがいたずらっぽく笑う。
「……からかってるな」
「いつものお返しです」
 二人でくすくす笑いあう。
 一人の令嬢が控えの間に入ってきた。セイラ以外の女性がここに来るのは珍しい。皆がその令嬢に注目した。令嬢は人目を気にすることなく、まっすぐトーマのほうに歩いてくる。そしていきなり抱きついた。
「トーマ、久しぶり。こんなに立派になって。昔は私より小さかったのに」
「……ミランダ?」
 トーマは戸惑っている。周りの男たちがざわついた。
「そうだ、ミランダ嬢だ」
「宮廷の花」
「五年ぶりか?」
 セイラはきょとんとしている。
「大尉、お知り合いですか?」
 セイラに聞かれてトーマは我に返った。令嬢から離れる。
「あ、ああ。幼馴染のミランダ・オルキス嬢だ。オルキス侯爵家とは昔から家族ぐるみで付き合いがあって。ミランダは絵の勉強で外国に行ってたんだ」
「そうですか。初めまして、ミランダ・オルキス嬢。セイラ・グレイヴィルといいます。ルチア様の護衛を務めさせていただいています」
 セイラはにこやかに自己紹介をした。
「ミランダ・オルキスです。外国で絵の勉強をしてたけれど、五年ぶりに国に帰ってきたの。こんな素敵なお友達がトーマにできたなんて知らなかったわ。女性みたいな名前なのは、例の習わしかしら?」
 ミランダの問いに、周りの者が代わりに答えた。
「ミランダ嬢、グレイヴィル少尉は女性だよ。アーサー・グレイヴィル伯爵の養女だ。ただ腕は確かだし、特別に陛下の計らいでルチア様の護衛になったんだ」
「あら、ごめんなさい。失礼なことを言っちゃったわね」
「いいえ、気にしないでください。こんななりですから、初対面の方をよく混乱させてしまうんです」
 セイラは笑顔で受け止めた。
「……あなた、女性らしい格好をしたらかなりの美人じゃないかしら」
「そのままでも結構もててるよ。そこにいるレッドフォード大尉がぞっこんだから、誰も手出ししないだけで」
 また周りの者が答える。
「トーマが?」
 ミランダが驚く。
「そうそう。この二人は宮廷中が認める恋人同士なのさ」
 周りの声に、セイラが少し顔を赤らめた。
「そうだったの……。トーマは面食いなのね」
「ミランダ嬢こそ、おきれいです。大人っぽくて華やかで……。羨ましいです」
 セイラの言葉に、ミランダは微笑んだ。
「ありがとう。素直でかわいらしい方なのね。……セイラさん、と呼んでもいいかしら?」
「はい」
「仲良くしてね、セイラさん」
「こちらこそよろしくお願いします」
 トーマは珍しく黙ったままだ。
「おい、どうしたんだ? 初恋の君との再会で舞い上がってるのか?」
 友人に囃され、トーマは赤くなった。
「違う、そんなんじゃない」
「初恋……?」
 セイラが不思議そうに呟く。
「グレイヴィル少尉、気を付けろよ。ミランダ嬢は、こいつの初恋の相手だから」
「そうなんですか」
「……俺はもう戻る」
 トーマはルーファスの元に行ってしまった。
「どうしたんでしょう?」
「照れてるだけだろう」
 不思議がるセイラに、ミランダが言った。
「私も他に挨拶したい方がいるから、失礼するわね」
「はい。またお会いしましょう」
 ミランダも去り、しばらくしてセイラもルチアの元に向かった。


 その日の夜はグレイヴィル家で食事をすることになっていたが、席に着いてもトーマは上の空だった。
「どうしたんですか、トーマ? 具合が悪いんですか?」
 セイラが心配して尋ねる。
「いつもと違って無口だね。何かあったのかい?」
 グレイヴィル伯爵もトーマの異変に気付いていた。
「……お前、気にしてないのか?」
「何をですか?」
「昼間、ミランダに会っただろ?」
「はい。彼女が何か?」
「……ミランダの奴、急に抱きついただろ?」
「ええ、久しぶりの再会を喜んでましたね。姉と弟みたいでしたよ」
「そ、そうか。……でも、周りの奴らがいろいろ言ってただろ? ……その……初恋がどうとか……」
「ああ……。えっ、本当にそうだったんですか?」
 セイラの言葉にトーマは椅子から落ちそうになった。
「てっきり冗談だと思ってました」
「ふうん、初恋の人に抱きつかれた、か……」
 伯爵の視線にトーマは慌てた。
「いえ、昔の話で。今はセイラだけですよ」
「何を慌ててるんですか」
 セイラは笑った。
「だって……。気にならないのか?」
 トーマは恐る恐る尋ねた。
「まあ、全く気にならないと言えば嘘になりますけど……。でも、誰でも子どものころに憧れた異性っているはずですし、その気持ちが悪いとは言えないと思うんです。私にもそういう人はいますし」
「おや、セイラの初恋はトーマ君だとばかり思ってた。一体誰だい? ……まさかヴィム・ドーシェじゃないだろうね?」
 伯爵が口を挟んだ。
「違いますよ。お父様です」
「……それはちょっと違うんじゃないか?」
「でも、最初に憧れた異性ですよ?」
「初恋とは言わないだろ」
 トーマの反論をよそに、伯爵は満面の笑みを浮かべた。
「そうかそうか。私がセイラの初恋相手か」
「伯爵……」
 親馬鹿にもほどがある。
「ところで、そのミランダ嬢というのは美人なのかい?」
「はい。大人の女性という感じで、華やかで魅力的な方でした。男性たちが惹かれるのもわかります。オルキス侯爵のご令嬢だそうです」
「ああ、オルキス侯爵の。確かにきれいなお嬢さんがいたな。絵が上手だった」
「そうです。その方です」
「その人がトーマ君の初恋相手か。年上だね」
「……だから、昔の話です」
「お父様、少年の日の憧れぐらいいいじゃないですか。あまりいじめてはトーマがかわいそうです」
 セイラの擁護に伯爵も追及の手を緩めた。
「まあ、憧れだけならね」
「お父様こそ、初恋の方はどなたですか?」
「私はマリー一筋だよ。幼馴染で許嫁だったからね」
「お母様だけですか?」
 驚くセイラに伯爵はにこやかに話しかける。
「疑うのかい? 一緒に暮らしてたらわかるだろう?」
「確かにお母様を深く愛していらっしゃいましたけれど……」
 伯爵親子の初恋談義を横目に、トーマは一抹の不安を拭いきれずにいた。


 数日後の夜、レッドフォード家に久しぶりにオルキス侯爵一家が訪問した。
「昨日はセイラさんとご活躍だったわね」
 ミランダがトーマに話しかける。
「見ていたのか」
「その場にいたもの」
 昨日、酒に酔ったある子爵が宮廷で発砲騒ぎを起こしたのだ。ピストルを持ってめちゃくちゃに振り回す。いつ誰に銃口を向けるかわからず、皆避難して遠巻きに見守るしかなかった。セイラがピストルを撃ち落とし、トーマが取り押さえた。ミランダが言う活躍とは、このことだった。
「確かに凄腕ね、彼女。度胸もあるし」
「ああ、大した奴だよ」
「でも素直でかわいらしい。そのギャップに惚れたってところかしら」
「……何が言いたい?」
 トーマの問いにミランダが蠱惑的な笑みを浮かべる。
「トーマも趣味が変わったみたいね。どのくらいの仲なのかしら? セイラさん、あんな顔して案外やり手?」
「あいつはお前とは違う。あいつは純粋で傷つきやすいんだ」
 トーマは気色ばんだ。
「そんなにムキにならないでよ。……その発言から推測すると、まだモノにしてないみたいね」
「お前には関係ないだろ」
「あら、冷たいのね。あのこと、セイラさんに話そうかしら」
「余計なことはしゃべるな」
 トーマがミランダをにらみつけた。
「そんな怖い顔すると、いい男が台無しよ。まあ、ネンネのセイラさんには刺激が強すぎるかもね。清く正しいお付き合いって感じがするもの」
 ミランダが笑った。思わずトーマはミランダの頬をぶった。
「あいつを侮辱するな!」
 皆が振り返った。その視線がトーマの怒りを鎮めた。
「……ぶったりして悪かった。つい手が出てしまって……」
「――そんなに入れ込んでるの?」
 ミランダは痛みより驚きのほうが大きかった。
「ああ。……本当にすまなかった。女に手をあげるなんて男のすることじゃないな」
「本当に悪いと思ってる?」
「だから謝ってるだろ」
「だったら、ちゃんと償ってよ」
「どうしろというんだ?」
 トーマは無茶なことを言われないか心配になった。
「明日の夜、うちに来て。一緒に食事しましょう? 明日は両親もいないし、一人で食べるのは味気なくて。昔みたいに、ゆっくり語り合いながら過ごしたいわ」
「なんだ、そんなことか」
 トーマはほっとした。
「食事くらいなら付き合うさ。仕事が終わってからでいいか?」
「ええ。待ってるわ」
 ミランダの瞳に妖しい光がきらめいたのをトーマは気付かなかった。


 翌日、セイラはトーマを屋敷に誘おうとした。
「見せたいものがあるんです。今夜、空いてますか?」
「悪い、先約がある」
「どなたとですか?」
 トーマは一瞬答えに詰まったが、正直に話すことにした。
「ミランダと夕食の約束をした。昨日うちに来たんだが、俺がつい手をあげてしまって……。お詫びに、昔みたいに食事しながら話そう、ということになったんだ」
「女性に手をあげるなんて、トーマらしくないですね。きちんと謝ったほうがいいですよ」
「ああ。そんなに遅くならなければ、お前のところにも顔を出すから」
「積もる話もあるでしょうし、無理しなくてもいいですよ。私のほうは明日でもかまいませんから」
 物わかりのいいセイラにトーマは感謝した。


 その日の夕方、トーマは五年ぶりにオルキス侯爵邸を訪ねた。
「いらっしゃい。待ってたわ」
 ミランダが笑顔で出迎える。屋敷の中は五年前とさほど変わっていなかった。
「変わらないな。少し絵が増えたくらいか」
「私の絵も混じってるのよ。どれだかわかる?」
「いや、俺は絵のことはわからないから……。セイラは喜びそうだな」
 ミランダの眉がかすかに動いた。
「部屋に来て。最新作を見せてあげる」
 ミランダの部屋も昔とほとんど変わらない。
「もっと画材とか置いてあるかと思った」
「アトリエ用の部屋を別に設けたの。ここには完成したのを少し持ち込んでるくらいね。……ほら、これが先日仕上げた絵よ」
 父親と母親が赤ん坊を囲んでいる絵だった。温かい家庭の空気が伝わってくる。
「ミランダがこんな絵を描くなんて意外だな」
「それはどういう意味? 褒めてるのかしら?」
「褒めてるんだよ。絵がわからない俺でも、なんだか優しい気持ちになる」
「いい感性してるじゃない。それを感じ取れればいいのよ」
 ミランダが微笑んだ。
「さて、夕食まで少し時間があるから……」
「ここで少し話すか?」
「奥に来てよ」
「奥って……。おい」
 トーマを無視してミランダは行ってしまう。仕方なくトーマは追いかけた。
「奥って寝室だろ?」
 何も言わずにミランダは服を脱ぎ始めた。
「何やってるんだよ?」
「昔みたいにゆっくり過ごしたいって言ったでしょ?」
「俺は食事と会話だけのつもりで……。やめろ!」
 トーマは顔を赤くしてミランダを止めようとした。
「何を純情ぶってるの? 知らない仲じゃないでしょ?」
「俺はセイラを裏切るようなことはできない。お前とのことは過去のことだ」
「黙ってればわからないわよ。セイラさんとは清く正しいお付き合いなんでしょ? どこかで発散しなきゃ、もたないわよ」
「そういう問題じゃない。俺が愛してるのはセイラだけだ」
 トーマははっきり言い切った。
「そんなにセイラさんがいいわけ?」
「……何とでも言え。そういうことなら、俺は帰る」
 トーマがくるりと背を向けた。
「このまま帰るなら、セイラさんに言うわよ。あなたと私の本当の関係を」
「言いたきゃ言えよ。今裏切るよりはましだ」
「……言ってくれるわね」
 ミランダは大きくため息をついた。
「わかった。……ごめんなさい、悪かったわ。ちゃんと服を着るから少し待って」
 ミランダは着衣を整えた。
「お願い、食事だけ付き合ってくれる? 今用意させるから、先に食堂に行ってて」


 ミランダが用意させた食事はトーマには懐かしいものだった。
「子どもの頃、これが好きでよく食べてたでしょ?」
「よく覚えてたな」
「しょっちゅう行き来してたもの。でも、こんな大酒飲みになるとは思わなかったわ」
「失礼だな、まだそんなに飲んでない」
 ふくれっ面のトーマを見て、ミランダがくすくすと笑った。
「セイラさんには今日のことは内緒で来たの?」
「いや、正直に言った。お前に詫びるために一緒に食事をするって」
「彼女は何て?」
「それが……きちんと謝って来いって、素直に送り出された」
 ミランダは声を立てて笑った。
「本当にネンネちゃんなのね。あなたが他の女性と……なんて想像もできないのかしら」
「それだけ純真なんだよ。ああ見えて、結構苦労もしてる」
「守ってあげたいってわけ?」
「その通り」
「惚気てくれるわね。羨ましいわ」
 今度はトーマがミランダに問いかける。
「お前は向こうでいい奴に出会わなかったのか?」
「みんな絵のライバルだもの。声をかけてくる男性はいたけれど、本気で付き合うような人はいなかったわ」
「ミランダは理想が高すぎるんじゃないか?」
「何よ」
「昔から、どんなにいい男も最後は捨ててたじゃないか。コリーヌ男爵なんかかわいそうだった」
 幼馴染は会話の種に事欠かない。すっかり話し込み、気が付けばかなり時間が経っていた。
「そろそろ帰る。セイラのところにも寄らなきゃな。今日は楽しかった」
「もう帰るの?」
「さっきからなんか眠くてさ。疲れてるのかな。起きていられる間にセイラに会いたい」
 トーマは大きな欠伸をした。
「休んでいけば? 無理はよくないわよ」
「そういうわけにもいかないだろ」
 椅子から立ち上がり、出口に向かって歩き出そうとした。だが、なぜかまっすぐ歩けない。
「ほら、足元がふらついてるじゃない」
「おかしいな。そんなに飲んでもいないのに……」
 体に力が入らず、まぶたが重くなってくる。
「言うこと聞いて、休んだほうがいいわよ。手を貸すよう、誰か呼んでくるから」
 後ろの言葉はもうトーマには聞き取れなかった。目を閉じて座り込み、床に突っ伏してしまった。
「トーマ、寝ちゃったの?」
 ミランダはトーマが寝入ったのを確認し、使用人を呼んだ。


 グレイヴィル家では、伯爵がセイラと使用人たちと食事をしていた。
「せっかくトーマ君に見せてあげようと思ったのに、残念だね」
「明日でもいいじゃないですか。逃げたりしませんし」
 伯爵が手に入れたのは、外国製の銃だった。透かし彫りや細かい宝飾など美しい細工が施されていた。実用性よりも見た目の美しさを重んじて作られたようだ。珍しいので、さっそくトーマにも見せようとしていたのだ。
「幼馴染ですから、いくらでも話すことはありますよ」
「……セイラは不安にならないのかい?」
「何がですか?」
「ミランダ嬢はトーマ君の初恋の人だろう?」
「それが何か?」
 伯爵はセイラの言葉に苦笑した。
「……普通は会うことに反対したり、何かしら心配したりしそうなものだけどね。トーマ君が自分以外の女性と会うことに抵抗はないのかい?」
「幼馴染、友達ですよ? 親交を深めて問題はないと思いますが」
「セイラは素直すぎるのかな? それとも幼いのか…」
「どういう意味ですか?」
「いや、わからないならいい。……まあ、トーマ君なら大丈夫か」
 セイラは父の言葉の意味が分からず、きょとんとしていた。


 トーマはベッドの上で目が覚めた。隣に誰か寝ていることに気付き、横を向いた。ミランダが笑っている。
「気が付いた?」
「何でお前が……」
「覚えてないの? あんなに激しかったのに」
「え……?」
 トーマは自分が服を着ていないことに気が付いた。ミランダも何も身に着けていないようだ。
「昔は私がリードしてたのに、すっかりたくましくなっちゃって」
 トーマは青くなった。
「お前……一服盛りやがったな?」
「ばれた?」
 ミランダに悪びれた様子はない。
「こんなにいい女が誘ってるのに何もしないなんてあんまりよ。……でも、薬で本性が出たわね。セイラさんだけ、と言いながら結局は、ね」
「薬のせいだ」
「事実は変わらないわよ?」
 トーマは言葉に詰まった。
「今度はちゃんと意識がある状態でどう? 一度も二度も同じじゃない」
「冗談じゃない!」
 慌てて起きて服を探す。床に散乱していた。
「帰るの?」
「当たり前だ」
 トーマは服を着だした。
「だったら、明日も来てよ」
「嫌だ」
「今日のこと、セイラさんにばれてもいいの?」
「それは……」
 ミランダが畳みかける。
「さすがにセイラさんでもショックを受けるはずよ。正直に話しても、許してもらえるかしら? 薬のせいだなんて誰も信じないわよ」
 トーマは答えられなかった。
「私たちだけの秘密にしておいてあげるわ。その代わり、私が来てほしい時は必ず来て」
「……ルーファス様の婚姻の準備で忙しくなる」
 トーマは必死に言い訳を探した。
「とりあえず明日は?」
「夜遅くまで仕事だ」
「明後日は?」
「……忘れた。とにかく帰る!」
 トーマが逃げるように去った扉を、ミランダはずっと眺めていた。


 なぜかトーマはグレイヴィル家に向かっていた。頭が混乱している。会うべきでないのに会いたい。いつもの笑顔に癒されたい。そんな気持ちがあったのかもしれない。
「こんな遅い時間に……。明日の仕事は大丈夫ですか?」
 セイラは自分の迷惑よりもトーマを気遣った。
「……寄るって言ったから……」
「せっかくですから、お見せしましょうか? お父様が手に入れたんです」
 セイラはグレイヴィル伯爵を呼び、例の銃をトーマに見せた。
「凝ってるだろう?」
「はい……」
「この花模様の透かし、すごいですよね」
「ああ……」
「どうしたんですか? 疲れてるのでは?」
「いや……」
 セイラと伯爵は不思議がる。
「もう帰って休んだらいい。女性のおしゃべりに付き合うのも結構大変だからね」
「そうですよ。無理して今日来なくてもよかったんですよ」
 二人の気遣いが胸に刺さる。
「……もしかして、ミランダ嬢に昨日のことを許してもらえなかったんですか?」
「違う」
「だったら、どうして元気がないのですか? トーマが元気がないと、私も悲しいです」
「……何でもない」
 心配そうにみつめるセイラをトーマは思わず抱きしめた。
「……トーマ?」
「本当に……何でもないから……」
 セイラはトーマの背中にそっと手を回した。


 翌日からトーマはセイラを避け始めた。やはり合わせる顔がない。何かと理由をつけて、休憩時間の会話も互いの屋敷の訪問も断った。ミランダとも会わないよう気を付けていたが、彼女を宮廷で見かけることはなかった。
 セイラもさすがに彼の異変を感じ始めた。だが、話そうにもトーマは逃げてしまう。セイラは内緒でレッドフォード家を訪ねることにした。
「セイラちゃん、久しぶり。トーマとけんかでもしたの?」
 パウルが話しかけてくる。
「そういうわけではないのですが……。やっぱり屋敷でも様子がおかしいですか?」
 セイラの問いに侯爵夫人が答えた。
「そうなのよ。話しかけても上の空だったり、部屋に閉じこもったり……。私もセイラさんと何かあったのかしらと思っていたのだけど」
「何も覚えはないんです。訳を聞こうにも、避けられているみたいで……。失礼だとは思ったのですが、不意打ちで訪問させていただきました」
「心配かけてごめんなさいね」
「いいえ。お部屋にいますか?」
「ええ」
 セイラはトーマの部屋の扉を開けた。トーマが驚いた顔でセイラを見る。
「お前……。いきなり失礼だろ?」
「無礼は承知の上です。避けられてるようなので、奇襲をかけました」
「別に避けてない」
「いいえ、避けてます」
 セイラは部屋の中に入った。
「私、何か気に障るようなことしましたか?」
「特にない」
「じゃあ、なんで無視するんですか?」
「無視はしてないだろ。忙しいからゆっくり話せないだけで」
「前は忙しくても話す時間は作ってくれたじゃないですか」
「ルーファス様のこともあるし、お前にだけかまってはいられない。俺だって疲れて休みたい時もあるんだ」
 セイラの目が少し潤んだ。
「……何を一人で抱え込んでるんですか? 悩みや辛いことがあるならちゃんと話してください」
「話すようなことはない」
「でも一人で苦しんでるじゃないですか。私に話せないようなことですか? 私では力になれませんか?」
「……だから、悩みなんかないって」
「いいえ、悩んで苦しんでるように見えます」
「気のせいだ。……本当に疲れてるんだ。帰ってくれないか?」
 セイラは口をぎゅっと結んだ。
「……私でなくてもいいから、誰かに話してくださいね」
 そう言うと、彼女は部屋を出た。
 パウルと侯爵夫人が部屋から出てきたセイラを迎えた。
「トーマは何だって?」
 パウルが尋ねる。
「……話すようなことはない、と。でも、一人で何か悩んでいるようなので、よかったら話を聞いてあげてください。私では力不足みたいですから」
 セイラの目から涙が一滴落ちた。
「相談相手にもなれなくて……。何もできなくてすみません」
「セイラさんが謝ることはないわ」
「そうだよ」
 二人がセイラを慰めた。
「セイラちゃんに心配かけるトーマが悪い。僕が話してみるよ。男同士のほうが話しやすいかもしれないし。後でセイラちゃんに伝えるね」
「いいえ、私に話さなくてもいいです。トーマが元気になってくれれば」
 セイラは屋敷に帰った。


「トーマ君とは話せたかい?」
 グレイヴィル伯爵がセイラに尋ねた。
「いいえ。……私には悩みや苦しみを分かち合うだけの力がないみたいです」
 肩を落とすセイラに伯爵が優しく語りかける。
「そんなことはないよ。たまにはすれ違ったりぶつかったりすることもあるさ。でも、案外些細なことが原因なんだ。きっと後で笑い飛ばせるよ」
「そうでしょうか? あんなトーマは初めてで……」
「セイラまで落ち込んでいたら、トーマ君も元気になれないよ」
「……そうですね」
「いつも通りのセイラでいたらいい。私はいつでもセイラの味方だから」
「ありがとうございます、お父様」
 セイラを自室に見送り、伯爵は微笑んだ。
「だんな様、どうなさいましたか?」
 執事のクロードが伯爵に問いかけた。
「いや、あの子が恋人のために悩むようになったんだなと思うと……」
「確かに感慨深いですね。あの幼かったセイラ様が……」
「心配でもあるんだけど、成長していく姿はうれしいものだね」
「さようでございますね」
 伯爵は頷き、真顔に戻った。
「それにしても、トーマ君はどうしたんだろう? 大したことでなければいいが」


 セイラが帰ってすぐ、パウルはトーマの部屋に行った。
「セイラちゃん泣いてたぞ。お前が何も話さないから、自分じゃ力になれないって」
「……そうか」
「本当にどうしたんだよ? お前がそんなんじゃ、僕がもらうぞ。傷心の女ほど口説きやすいものはないからな」
 パウルの言葉にトーマが振り返った。
「僕にとられるのが嫌なら、しっかりしろよ。何があったのか、ちゃんと話せ」
「……こういうことは、兄貴の得意分野かもな」
「やっぱり女性に聞かれたくない、男同士の話か?」
「……兄貴はトラブルには慣れてるのか?」
「何の話だ?」
 トーマはしばらくためらったが、ミランダとのことを話し始めた。
 聞き終えたパウルは唖然とした。
「まさかお前が……」
「だから薬のせいだ」
「そうは言っても……」
「なあ、兄貴はこういう時どうしてるんだ? やっぱりちゃんと話して謝るのか?」
「僕の場合は……初めからお互い遊びだと割り切っているし、もともと遊び人だってことはみんな知ってるからな。浮気だろうが二股だろうが、そんなもんだと思われてる」
「……だよな」
 トーマはため息をついた。
「お前がセイラちゃん一筋ってことは周知の事実だからな。僕ならともかく、お前が浮気するとは誰も思わない」
「……自分で言うなよ」
「でも……。結局、正直に話して謝るか、一生黙っているか、どちらかしかないんじゃないか? どっちもリスクはあるけど」
「リスク?」
「正直に話して謝っても、許してもらえるとは限らない。黙っていることを選んでも、いつばれるかわからない。どっちにしてもセイラちゃんは傷つくだろうな。こういうことに免疫なさそうだし」
 パウルの言葉に、トーマは頭を抱えた。
「傷つけたくないんだよ」
「今のままでも十分傷ついてると思うぞ? ……まあ、僕としては、ばれる前に正直に話して誠心誠意謝るのがお勧めだな。その前にミランダと話したほうがいいだろうけど」
「……やっぱりそれが結論か」
「わかってるなら、さっさと行動に移せよ。時間が経つほどややこしくなるぞ」
 頭ではわかっていても、勇気が出ない。しかし、それしか道がないのだ。
「……ミランダと話してみる」
 トーマは腹を決めた。


 翌日、控えの間でセイラが本を読んでいると、ミランダがやってきた。
「ミランダ嬢、お久しぶりです。しばらくお見かけしませんでしたね」
「絵を頼まれて、アトリエにこもっていたの。やっと昨日仕上がったわ」
「注文を受けるなんてすごいですね。ぜひ今度描いた絵を見せてください」
 セイラに言われて、ミランダは笑顔になった。
「ええ。――ところで、トーマは? ここにいるかと思ったんだけど」
「私も今日はまだ見てないんです」
「あら、いつも一緒なのかと思ってたわ」
「そういうわけでもないんですよ。……あの、ミランダ嬢は何かご存知ではありませんか?」
「何かしら?」
「あ、すみません。ずっとアトリエにいらしたのに、何のことかわからないですよね」
「とりあえず話してみて」
 ミランダに促され、セイラは語りだした。
「……最近、大尉の様子がおかしいんです。元気がないし、会ってちゃんと話す時間を持ってくれないんです。避けられているような……。訳を聞いても何も答えてくれなくて」
「トーマが?」
「はい。何か悩んでいるようなんですけど。――大尉とは幼馴染ですよね? 昔もこんなことはあったのでしょうか?」
 真剣な顔で聞いてくるセイラに、ミランダは思わず吹き出した。
「あの……何かおかしいでしょうか?」
「……ごめんなさい。でも……おかしくて……」
 ミランダは笑いをこらえるのに必死だ。
「……普通……恋人の様子が変だときたら……。考えるのはひとつでしょ」
「どういうことですか?」
「……本当にわからないの?」
「わからないからお尋ねしています」
 セイラは少し苛立った。
「まさか……本当に?」
「ですから、何でしょうか? ご存知なら教えてください」
 ミランダはおかしいのを通り越して呆れてしまった。
「ここまで天然とは思わなかったわ」
「すみません。でも、本当にわからないんです」
「……知らないほうがいいと思うわ」
「どうしてですか?」
「あなたみたいな人には、想像もできないことよ。知ったらきっと傷つくわ」
 セイラは食い下がる。
「いいえ、教えてください。少しでも理由がわかれば、力になれることが見えてくるかもしれません」
「あなたって本当に……」
 ミランダは大きくため息をついた。
「そこまで言うなら、教えてあげるけれど。後悔したり恨んだりしないでね」
「そんなことはしません」
「その前に、ひとつ確認したいの。トーマの様子がおかしくなったのって、彼が私の屋敷に来た後からじゃなかった?」
「そういえば……。その時、何かあったんですか?」
 ミランダはまじまじとセイラをみつめた。
「……やっぱり話すのやめようかしら」
「続けてください。ミランダ嬢を恨んだりしませんから」
 ミランダはしばらく黙っていたが、やがてセイラの耳元に口を近づけた。
「トーマがうちに来た日ね……。彼は私と寝たの」
「……え?」
「とても素敵だったわよ。昔は私が手取り足取り教えていたのに」
 セイラは言葉が出ない。
「また会う約束をするつもりだったのに、絵の依頼が入っちゃって。やっと済んだから、今日会いたくてここに来たの。でも、いないんじゃ仕方ないわね」
 固まっているセイラに、ミランダは笑いかける。
「あなたが話せというから話したのよ。じゃ、またね」
 ミランダが出て行っても、セイラは固まったままだった。


 嘘から出たまことなのか、トーマは忙しい一日を過ごしていた。やっと仕事を終え帰ろうとした時、トーマはセイラの姿を認めた。
「……心配かけてすまない。明日ちゃんと話すから、少し待ってくれるか?」
 先にミランダと話すつもりだった。
「あの……。本当なんですか?」
 トーマはいつもにないセイラの様子に気付いた。
「何が?」
「昼間、ミランダ嬢に会いました」
 ミランダと聞いて、トーマはびくりとした。
「嘘ですよね? ミランダ嬢と、だなんて……」
 トーマは口を開けない。
「昔も彼女と寝てたなんて……。小さな子どもの頃の話ですよね?」
 沈黙するトーマの顔を見て、セイラは力なく笑った。
「……本当なんですか。隠さず話してくれたらよかったのに……」
 そのままセイラは立ち去ってしまった。


 グレイヴィル伯爵はレッドフォード家を訪ねた。セイラは帰るなり部屋に閉じこもってしまった。声をかけても何の返事もない。メイドのハンナに様子を見に行かせても、ただ泣くばかりで何も話さないという。トーマと何かあったのだろうと、彼と話をするために訪問したのだった。まだトーマは帰宅していないらしい。
 待たせてもらっていると、パウルが帰ってきた。伯爵の姿を見て驚く。
「トーマ君に話があってね」
 パウルは嫌な予感がした。
「そうだ、女の子の扱いに慣れてる君ならわかるかな」
「何がですか?」
 伯爵に話しかけられ、パウルは答えるしかなかった。
「女の子が泣いていたら、君はどうする?」
「まず理由を聞きますね」
「理由を聞いても何も言わないんだ」
「……セイラちゃん、泣いてるんですか?」
 パウルは墓穴を掘ったと思ったが、伯爵は意に介さなかった。
「そうなんだよ。妻がいればいろいろ相談に乗ってあげられたと思うのだが……。父親というのは非力だよ」
「はあ……」
 まだ伯爵にはばれていないらしい。
「親があまり干渉するものではないとはわかっているんだが……。今まであんな姿は見たことがないんだ。最近トーマ君のことを心配していたし、彼と話せば何かわかるかと思ってね」
「……そうですね」
「トーマ君は、君には何か言ってなかったかい?」
「い、いいえ」
「そうか……。まさかトーマ君に限って浮気ってこともないだろうしね……」
 パウルは心臓が止まりそうになった。こわばったパウルに伯爵は訝しげな目を向ける。
「どうしたんだい? ……まさか……」
「いえ、何でもありません。僕はこれで」
 自室に引き上げようとするパウルを伯爵が引き止めた。
「待ちたまえ。知っていることを話してくれるかな?」
 優しい顔と口調に恐怖を感じ、パウルは仕方なく話し出した。
 途方に暮れていたトーマが屋敷に戻ったのは、夜遅くのことだった。グレイヴィル伯爵の姿に彼は驚愕した。
「疲れているところ申し訳ないけど、君の口から直接聞かせてもらえるかい? さっきパウル君から大体のことは聞いたんだけどね」
 トーマは逃げる術がなかった。


「だから早めに対処しろと言ったのに」
 伯爵が帰った後、パウルはトーマの部屋に来た。
「今日ミランダと話すつもりだったんだ。まさかミランダがセイラに話すなんて……」
「それにしても、グレイヴィル伯爵って怖いな。怒鳴られるよりよほど凄みがある。セイラちゃんに手出ししなくてよかったよ」
「おい」
 伯爵はトーマにセイラへの接近禁止令を出した。
「泣かせたら承知しない、って最初に言ったはずだけど? 八つ裂きにしてやってもいいけど、捕まったらセイラのそばにいられないからね。あ、証拠が残らないよう崖から突き落せばいいのか。それとも毒殺がいいかな?」
 にこにこしたまま恐ろしいことを口にした。
「ま、トーマの気持ちを知ってて遠慮したんだけどな」
「……兄貴の辞書に『遠慮』という言葉があったのか?」
「失礼な。僕はいつも弟を思いやる優しい兄だろ? ……で、これからどうする?」
 パウルの言葉にトーマは黙ってしまった。
「言っとくけど、僕を恨むなよ。自業自得だからな」
「……わかってる」
「結局は誠意しかないだろうな。ミランダと話をつけて、ひたすら謝るしかないんじゃないか?」
「……だな」
 時間を戻すことはできない。ぐずぐずしていた自分が悪いのだ。
「兄貴、ありがとな」
「礼なんか言うなって。気色悪い」
 珍しく照れているパウルに、トーマは少し心が軽くなった。


 翌日、トーマはさっそくミランダに会いに行った。宮廷で目を腫らしたセイラを見かけたが、話すのは後だ。ミランダは笑顔でトーマを迎えた。
「トーマから来てくれるなんて、うれしいわ」
「今日で最後だ」
 トーマの言葉にミランダはたじろいだ。
「昨日、セイラに話しただろ?」
「ええ。彼女が知りたいって言ったから」
「夜グレイヴィル伯爵が来て、お叱りを受けた。セイラに近づくなと」
「あら、大変ねえ。慰めてあげましょうか?」
 ミランダは妖しく微笑む。
「お前に慰めてもらおうとは思わない。お前には二度と会わない。それだけ言いに来た」
 ミランダはじっとトーマをみつめた。
「もうどんな脅しも無駄だぞ? 全部ばれてるんだからな」
「……どうするつもりなの?」
「ひたすら許しを請う。それしかない」
「……原始的な方法ね」
 ミランダはため息をついた。
「許してくれなかったら?」
「許してくれるまで謝る」
 トーマは即答する。
「……一生許してもらえないかもしれないわよ?」
「それなら一生謝り続けるだけだ」
「他にも女はいるのに?」
 ミランダは呆れたように言った。
「俺にとって女はあいつだけだ。昔お前の誘いに乗ったのはただの好奇心だ」
「言い切れるの?」
「自分で確信してるからな。あいつが現れてから、他の女に目が向いたことはない」
 断言したトーマに、ミランダは少し悲しそうな顔をした。
「……トーマとなら、あの絵の家族のような関係を築けるかと思ったのに」
「悪いが、他の奴を当たってくれ。ただし兄貴はやめとけよ。わかってると思うけど」
「パウルは好みじゃないわ。向こうもそうみたいだけどね」
 確かにパウルとミランダは昔から折り合いが悪い。
「とにかく、俺はもうミランダとは会わない」
「……わかったわ。うまくいくよう祈ってる」
 ミランダは寂しげに微笑んだ。


 ミランダと話をつけた後、トーマはグレイヴィル家に向かった。
「決してお通ししないよう、言いつかっております」
 伯爵は屋敷中に厳令を敷いたらしい。出てきたクロードもとりつく島がなかった。
「汚れた身でセイラ様に近づかれては困ります。お引き取りを」
「汚れた、って……」
 気持ちはわかるが、ひどい言われようだ。
「悪かったと思ってる。ちゃんと謝りたいんだ」
「謝って済む問題ではございません。セイラ様はひたすらあなた様を心配されていらっしゃったのに……」
「だから、きちんと会って話をしたい」
「お引き取りください。どうしてもお会いしたければ、私を殺して行かれてください。私がいなくなっても、他の者が止めると思いますが」
 屋敷の者たちを全員敵に回したようだ。トーマは仕方なく引き下がった。


 翌朝、宮廷でセイラに声をかけた。
「ミランダとは話をつけた。本当にすまなかった。お前が望むことは何でもするから」
 頭を下げたトーマに、セイラは背を向けたままだった。
「でしたら、今後一切話しかけないでいただけますか?」
 足早に立ち去ってしまう。
 それから、いくらトーマが話しかけてもセイラは無視した。さすがに宮廷にも噂が立ち始める。婚約で浮かれていたルーファスもトーマを問い詰めた。
「何が原因でこうなったんだ? お前がセイラに冷たくあしらわれるなんて」
「面目ありません。俺に責任があるので……」
「あのセイラがあんな態度をとるとは、相当だぞ? 私が求愛した時でさえ、一応笑顔は見せてくれていたのに」
 ルーファスはごまかせない。トーマは正直に打ち明けることにした。
「……浮気がばれまして」
「はあ? お前が?」
 ルーファスは仰天した。ミランダとのことを簡潔に話すと、
「……それはさすがに怒るな。卑怯な手を使ったミランダも悪いが。誠意を見せるしかないだろう」
と、トーマにも多少同情を示した。
 ルチアも二人の変化が気になっていた。
「ねえ、トーマとけんかしたの?」
「申し上げるようなことはございません」
 絶対何かあった、とルチアは確信していた。
「嫌いになったのかしら?」
「……そうかもしれませんね」
「……じゃあ、私がトーマをもらってもいい?」
「え?」
「最近、彼の魅力に気が付いたの。セイラがいらないって言うなら、私に頂戴」
 セイラは言葉に困った。父からは許す必要はないと言われた。セイラ自身もトーマと言葉を交わすのは億劫だし胸が痛む。だが、本当のところ、彼をどう思っているのか。セイラは自分でわからなかった。
「……そんな顔するなら、ちゃんと仲直りしなくちゃ」
 ルチアが微笑んでいる。
「……からかったのですか?」
「王族を振ってまで貫いた思いを、水の泡にしてほしくないもの」
「……ご心配をおかけしてすみません。でも、気持ちの整理がつくまで待っていただけますか?」
「セイラって意外に不器用よね。そんなところにお兄様も惹かれたんでしょうけど……。歯がゆいけれど、本人たちがちゃんと納得しなくちゃね」
 恋物語の本を好んで読んでいるルチアは客観的だ。
「私にできることがあれば言ってね」
 セイラはルチアの好意に感謝した。


 その日は午後から雨が降った。セイラは少しでも空模様が怪しい時は傘を用意する。帰る時に濡れる心配はないはずだった。ところが、傘が見当たらないのだ。誰かが持って行ってしまったのだろうか。仕方なく濡れて帰ろうとすると、セイラに傘を差し出した者がいた。
「フォション中尉」
 非常に紳士的だと評判の高い、近衛隊の中尉だった。
「自分は濡れずに女性を雨にさらすなんて、男の面子が立ちませんから」
 にこやかにセイラに傘を渡した。
「でも、中尉が濡れてしまいます」
「私は友人の傘に入れてもらいますから、大丈夫ですよ」
 そう言って中尉は中に引き返した。セイラはありがたく借りることにした。
 翌日、傘を返すために近衛隊の兵舎を訪ねた。
「昨日はありがとうございました。本当に大丈夫でしたか?」
「ええ、ご心配なく。代わりはいくらでもありますから、わざわざ返しに来なくてもよかったんですよ」
 紳士の名に恥じない爽やかな応対だった。
「そんなわけには……。本当に助かりました。何かお礼ができればいいのですが」
「お礼なんていいですよ。あなたが雨に濡れずに済んでよかったです」
 セイラは再度感謝を伝え、持ち場に戻ろうとした。
「あ、待ってください。やっぱりお礼をしてもらおうかな」
 フォション中尉がセイラを引き止めた。
「できる事でしたら、何なりと」
「お昼を付き合っていただけませんか?」
「……え?」
 セイラは少し訝しく思った。
「いえ、変な意味じゃなくて。……実は今週末、従妹の誕生日に招かれているんですが、プレゼントが決まらないんです。候補はあるんですけど、女の子が好みそうな物がわからなくて。昼食がてら、相談に乗ってもらえるとありがたいのですが」
「そういうことでしたら、喜んでお力になります」
 セイラは快く承諾した。
 昼食に付き合い、今度十四歳だという中尉の従妹の話を聞いた。中尉の挙げた候補も吟味し、プラチナの髪飾りをプレゼントに勧めた。
「ありがとうございます。なかなか決めきれずにいたんですが、これですっきりしました」
「お役に立てて、何よりです」
 週明け、控えの間にいたセイラにフォション中尉が話しかけてきた。
「従妹はとても喜んでいました。グレイヴィル少尉のおかげです」
「よかったですね」
「ぜひ、お礼をさせてください。今度は別の店で食事でもいかがですか?」
「いいえ、先日もごちそうになったのに」
「それでは私の気が済みません」
 結局、翌日また昼食を一緒にとったのだった。
 二人の接近をトーマが黙っているはずはない。
「なぜフォション中尉と?」
「従妹のプレゼントの相談に乗っただけですよ」
 セイラは素っ気なかった。
「中尉に好意を持ってるのか?」
「大尉に関係ありますか?」
 やはり素知らぬふりで去ってしまう。トーマは苦々しく思いながらも、どうすることもできなかった。


 数日後の夜。トーマはやりきれない思いを晴らそうと、新しくできた酒場に行った。飲んでも酔えない。いらいらしていると、近くのグループの会話が聞こえてきた。
「首尾はどうだ?」
「まあまあだな。今までにないタイプで、これからどう攻めるか思案中だ」
「お前も悪い奴だよな。狙った獲物に近づくため、わざと傘を盗んだり、存在しない従妹をでっちあげたり」
「紳士的で素敵だって、多くの女性たちを虜にしているくせに」
 笑い声が聞こえる。
「なかなか落ちそうにない子を落とすのが楽しいのさ。特に彼女の場合、ルーファス様やレッドフォード大尉のおかげで今まで手が出せなかったからな。今がチャンスさ。力ずくじゃなく、向こうから飛び込んでくるように仕向ける。手間はかかるが、この快感はクセになるぞ」
「見た目にみんな騙されてるな。フォション中尉の本性を公開してやろうか」
「よせよ」
 また大きな笑い声が上がった。トーマは立ち上がり、会話の主たちのところに行った。そしてフォション中尉を殴りつけた。周りの者たちが必死で止め、何とか乱闘は免れた。


 翌日、フォション中尉の顔を見たセイラは驚いた。
「どうしたんですか、そのあざ……」
「夕べ、ちょっと転んでしまいまして。結構そそっかしいんですよ」
 中尉はいつもの微笑みを浮かべた。
「転んだだけで、そんなところにあざはできないはずです」
 心配そうにみつめるセイラに、中尉は内心ほくそ笑んだ。そこへトーマがやってきた。
「セイラ、そいつから離れろ」
「怪我の心配をしてはいけませんか?」
「そいつは詐欺師だ。嘘をついてお前の気を引こうとしている」
 叫ぶトーマをセイラはにらみつけた。
「嘘つきは大尉のほうでは?」
「レッドフォード大尉、昨夜はどうも」
 中尉は紳士らしく挨拶した。
「……まさか、そのあざは大尉が?」
「彼は酔ってただけですよ」
 セイラははっきり軽蔑のまなざしをトーマに向けた。
「俺の言うことが信じられないのか?」
「どう信じろと?」
「まあまあ。私は何とも思ってませんから、けんかはやめてください」
 中尉がうわべだけの仲裁に入った。セイラはルチアの元へ行ってしまった。


 数日後、セイラはルチアと共に少し遠方の街に出かけた。そこでしか手に入らない珍しいお茶を買いたい、とルチアが言い出したのだ。取り寄せれば済むことだったが、ルチアはついでに街も見物したいと聞かなかった。お忍びということで、馬車の御者とセイラだけがついていくことになった。セイラが一緒なら、と国王も承諾した。一通り街を巡ってルチアは満足し、帰路に着いた。
「雨が降りそうですね」
 空を見上げてセイラが呟いた。
「もう目的は果たしたから構わないわ」
「ご満足のようですね」
「ええ。このお茶でイヴェールさんをもてなしたかったの。街の様子もお話しできるでしょ?」
 ルチアなりに兄嫁を大切に思っているのだ。
「お義姉様になるんですもの。仲良くしたいわ」
「そうですね。きっと大丈夫ですよ」
 セイラは微笑ましく思った。
 馬車はゆっくり進んでいく。ひとつ森を抜ければ、すぐ都だ。ルチアとセイラが話に夢中になっていると、突然馬車が大きく揺れて止まった。セイラが窓からのぞくと、ナイフや斧などを持った数人の男たちが馬車を取り囲んでいる。――賊だ。
 セイラはルチアにじっと隠れているよう言うと、一人馬車を降りた。賊たちの前にひざまずく。
「お願いします、見逃してください。奥様がご病気なんです」
「金目の物を出せ」
「お金はありませんが、これなら……」
 セイラは首にかけていたペンダントを外した。大きめの石がぶら下がっている。
「宝石か?」
 賊たちが近づいた時、セイラはペンダントを地面に叩きつけた。煙幕が視界を遮り、賊たちの喉を刺激する。いざという時のために持っていた目くらましだった。賊たちが煙の向こうでむせている間に、セイラはルチアと御者を馬に乗せた。
「全速力で宮廷に戻ってください」
 馬車を切り離し、馬を出発させた。もう一頭の馬も自由にし、自分も乗ろうとした時、右の太腿に焼けつくような痛みが走った。馬が銃声に驚いて駆け出す。セイラが振り返ると、煙幕がだいぶ薄れ、一人の賊が銃を構えていた。即座にピストルで応戦する。銃を持っていた賊が倒れたが、同時にセイラの左肩を弾がかすめた。仲間の死に恐れをなしたのか、残った賊たちは逃げてしまった。
 セイラは座り込み、ハンカチを割いて太腿にきつく巻いた。応急の止血だ。肩も手当てしたいが、一人では無理だ。強い雨が降ってきた。足の負傷で動くことができない。
(ルチア様は……)
 無事に帰り着いただろうか。それが気がかりだった。
 どれほど時間が経ったのだろう。セイラは地面に横たわっていた。出血と雨が体温を奪っていく。もう手足の感覚もほとんどなかった。今までのことが走馬灯のように次々と思い出される。
 ――死ぬのは怖くない。ルチアの護衛を引き受けた時から危険は承知していた。だが……。
(……最後に……ひと目……)
 セイラは目を閉じた。冷たい雨がセイラの体に降り注いでいた。


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