ルーファスが婚約した。国王に勧められての見合いだったが、ルーファスも相手を気に入ったのだ。国務大臣を務めるサリネ公爵の令嬢だった。イヴェール・サリネ嬢。容姿から優しさと温かさが感じられ、未来の王妃にふさわしい懐の深さと芯の強さがあった。結婚式は一年後だが、誰もが祝福し、その日を待ちわびていた。 「お前、惜しいことをした、とか思っていないだろうな?」 控えの間でトーマがセイラに尋ねる。 「私は王妃の器ではありませんから。……あ、でも王属図書館の本は読んでみたかったかもしれません。王族以外立ち入り禁止ですから」 「本に釣られるか?」 「ご心配なく。レッドフォード家の書斎も立派ですよ」 「お前は本の所有数で相手を選ぶのか? 俺の魅力ってそこだけか?」 「他にありますか?」 セイラがいたずらっぽく笑う。 「……からかってるな」 「いつものお返しです」 二人でくすくす笑いあう。 一人の令嬢が控えの間に入ってきた。セイラ以外の女性がここに来るのは珍しい。皆がその令嬢に注目した。令嬢は人目を気にすることなく、まっすぐトーマのほうに歩いてくる。そしていきなり抱きついた。 「トーマ、久しぶり。こんなに立派になって。昔は私より小さかったのに」 「……ミランダ?」 トーマは戸惑っている。周りの男たちがざわついた。 「そうだ、ミランダ嬢だ」 「宮廷の花」 「五年ぶりか?」 セイラはきょとんとしている。 「大尉、お知り合いですか?」 セイラに聞かれてトーマは我に返った。令嬢から離れる。 「あ、ああ。幼馴染のミランダ・オルキス嬢だ。オルキス侯爵家とは昔から家族ぐるみで付き合いがあって。ミランダは絵の勉強で外国に行ってたんだ」 「そうですか。初めまして、ミランダ・オルキス嬢。セイラ・グレイヴィルといいます。ルチア様の護衛を務めさせていただいています」 セイラはにこやかに自己紹介をした。 「ミランダ・オルキスです。外国で絵の勉強をしてたけれど、五年ぶりに国に帰ってきたの。こんな素敵なお友達がトーマにできたなんて知らなかったわ。女性みたいな名前なのは、例の習わしかしら?」 ミランダの問いに、周りの者が代わりに答えた。 「ミランダ嬢、グレイヴィル少尉は女性だよ。アーサー・グレイヴィル伯爵の養女だ。ただ腕は確かだし、特別に陛下の計らいでルチア様の護衛になったんだ」 「あら、ごめんなさい。失礼なことを言っちゃったわね」 「いいえ、気にしないでください。こんななりですから、初対面の方をよく混乱させてしまうんです」 セイラは笑顔で受け止めた。 「……あなた、女性らしい格好をしたらかなりの美人じゃないかしら」 「そのままでも結構もててるよ。そこにいるレッドフォード大尉がぞっこんだから、誰も手出ししないだけで」 また周りの者が答える。 「トーマが?」 ミランダが驚く。 「そうそう。この二人は宮廷中が認める恋人同士なのさ」 周りの声に、セイラが少し顔を赤らめた。 「そうだったの……。トーマは面食いなのね」 「ミランダ嬢こそ、おきれいです。大人っぽくて華やかで……。羨ましいです」 セイラの言葉に、ミランダは微笑んだ。 「ありがとう。素直でかわいらしい方なのね。……セイラさん、と呼んでもいいかしら?」 「はい」 「仲良くしてね、セイラさん」 「こちらこそよろしくお願いします」 トーマは珍しく黙ったままだ。 「おい、どうしたんだ? 初恋の君との再会で舞い上がってるのか?」 友人に囃され、トーマは赤くなった。 「違う、そんなんじゃない」 「初恋……?」 セイラが不思議そうに呟く。 「グレイヴィル少尉、気を付けろよ。ミランダ嬢は、こいつの初恋の相手だから」 「そうなんですか」 「……俺はもう戻る」 トーマはルーファスの元に行ってしまった。 「どうしたんでしょう?」 「照れてるだけだろう」 不思議がるセイラに、ミランダが言った。 「私も他に挨拶したい方がいるから、失礼するわね」 「はい。またお会いしましょう」 ミランダも去り、しばらくしてセイラもルチアの元に向かった。
その日の夜はグレイヴィル家で食事をすることになっていたが、席に着いてもトーマは上の空だった。 「どうしたんですか、トーマ? 具合が悪いんですか?」 セイラが心配して尋ねる。 「いつもと違って無口だね。何かあったのかい?」 グレイヴィル伯爵もトーマの異変に気付いていた。 「……お前、気にしてないのか?」 「何をですか?」 「昼間、ミランダに会っただろ?」 「はい。彼女が何か?」 「……ミランダの奴、急に抱きついただろ?」 「ええ、久しぶりの再会を喜んでましたね。姉と弟みたいでしたよ」 「そ、そうか。……でも、周りの奴らがいろいろ言ってただろ? ……その……初恋がどうとか……」 「ああ……。えっ、本当にそうだったんですか?」 セイラの言葉にトーマは椅子から落ちそうになった。 「てっきり冗談だと思ってました」 「ふうん、初恋の人に抱きつかれた、か……」 伯爵の視線にトーマは慌てた。 「いえ、昔の話で。今はセイラだけですよ」 「何を慌ててるんですか」 セイラは笑った。 「だって……。気にならないのか?」 トーマは恐る恐る尋ねた。 「まあ、全く気にならないと言えば嘘になりますけど……。でも、誰でも子どものころに憧れた異性っているはずですし、その気持ちが悪いとは言えないと思うんです。私にもそういう人はいますし」 「おや、セイラの初恋はトーマ君だとばかり思ってた。一体誰だい? ……まさかヴィム・ドーシェじゃないだろうね?」 伯爵が口を挟んだ。 「違いますよ。お父様です」 「……それはちょっと違うんじゃないか?」 「でも、最初に憧れた異性ですよ?」 「初恋とは言わないだろ」 トーマの反論をよそに、伯爵は満面の笑みを浮かべた。 「そうかそうか。私がセイラの初恋相手か」 「伯爵……」 親馬鹿にもほどがある。 「ところで、そのミランダ嬢というのは美人なのかい?」 「はい。大人の女性という感じで、華やかで魅力的な方でした。男性たちが惹かれるのもわかります。オルキス侯爵のご令嬢だそうです」 「ああ、オルキス侯爵の。確かにきれいなお嬢さんがいたな。絵が上手だった」 「そうです。その方です」 「その人がトーマ君の初恋相手か。年上だね」 「……だから、昔の話です」 「お父様、少年の日の憧れぐらいいいじゃないですか。あまりいじめてはトーマがかわいそうです」 セイラの擁護に伯爵も追及の手を緩めた。 「まあ、憧れだけならね」 「お父様こそ、初恋の方はどなたですか?」 「私はマリー一筋だよ。幼馴染で許嫁だったからね」 「お母様だけですか?」 驚くセイラに伯爵はにこやかに話しかける。 「疑うのかい? 一緒に暮らしてたらわかるだろう?」 「確かにお母様を深く愛していらっしゃいましたけれど……」 伯爵親子の初恋談義を横目に、トーマは一抹の不安を拭いきれずにいた。
数日後の夜、レッドフォード家に久しぶりにオルキス侯爵一家が訪問した。 「昨日はセイラさんとご活躍だったわね」 ミランダがトーマに話しかける。 「見ていたのか」 「その場にいたもの」 昨日、酒に酔ったある子爵が宮廷で発砲騒ぎを起こしたのだ。ピストルを持ってめちゃくちゃに振り回す。いつ誰に銃口を向けるかわからず、皆避難して遠巻きに見守るしかなかった。セイラがピストルを撃ち落とし、トーマが取り押さえた。ミランダが言う活躍とは、このことだった。 「確かに凄腕ね、彼女。度胸もあるし」 「ああ、大した奴だよ」 「でも素直でかわいらしい。そのギャップに惚れたってところかしら」 「……何が言いたい?」 トーマの問いにミランダが蠱惑的な笑みを浮かべる。 「トーマも趣味が変わったみたいね。どのくらいの仲なのかしら? セイラさん、あんな顔して案外やり手?」 「あいつはお前とは違う。あいつは純粋で傷つきやすいんだ」 トーマは気色ばんだ。 「そんなにムキにならないでよ。……その発言から推測すると、まだモノにしてないみたいね」 「お前には関係ないだろ」 「あら、冷たいのね。あのこと、セイラさんに話そうかしら」 「余計なことはしゃべるな」 トーマがミランダをにらみつけた。 「そんな怖い顔すると、いい男が台無しよ。まあ、ネンネのセイラさんには刺激が強すぎるかもね。清く正しいお付き合いって感じがするもの」 ミランダが笑った。思わずトーマはミランダの頬をぶった。 「あいつを侮辱するな!」 皆が振り返った。その視線がトーマの怒りを鎮めた。 「……ぶったりして悪かった。つい手が出てしまって……」 「――そんなに入れ込んでるの?」 ミランダは痛みより驚きのほうが大きかった。 「ああ。……本当にすまなかった。女に手をあげるなんて男のすることじゃないな」 「本当に悪いと思ってる?」 「だから謝ってるだろ」 「だったら、ちゃんと償ってよ」 「どうしろというんだ?」 トーマは無茶なことを言われないか心配になった。 「明日の夜、うちに来て。一緒に食事しましょう? 明日は両親もいないし、一人で食べるのは味気なくて。昔みたいに、ゆっくり語り合いながら過ごしたいわ」 「なんだ、そんなことか」 トーマはほっとした。 「食事くらいなら付き合うさ。仕事が終わってからでいいか?」 「ええ。待ってるわ」 ミランダの瞳に妖しい光がきらめいたのをトーマは気付かなかった。
翌日、セイラはトーマを屋敷に誘おうとした。 「見せたいものがあるんです。今夜、空いてますか?」 「悪い、先約がある」 「どなたとですか?」 トーマは一瞬答えに詰まったが、正直に話すことにした。 「ミランダと夕食の約束をした。昨日うちに来たんだが、俺がつい手をあげてしまって……。お詫びに、昔みたいに食事しながら話そう、ということになったんだ」 「女性に手をあげるなんて、トーマらしくないですね。きちんと謝ったほうがいいですよ」 「ああ。そんなに遅くならなければ、お前のところにも顔を出すから」 「積もる話もあるでしょうし、無理しなくてもいいですよ。私のほうは明日でもかまいませんから」 物わかりのいいセイラにトーマは感謝した。
その日の夕方、トーマは五年ぶりにオルキス侯爵邸を訪ねた。 「いらっしゃい。待ってたわ」 ミランダが笑顔で出迎える。屋敷の中は五年前とさほど変わっていなかった。 「変わらないな。少し絵が増えたくらいか」 「私の絵も混じってるのよ。どれだかわかる?」 「いや、俺は絵のことはわからないから……。セイラは喜びそうだな」 ミランダの眉がかすかに動いた。 「部屋に来て。最新作を見せてあげる」 ミランダの部屋も昔とほとんど変わらない。 「もっと画材とか置いてあるかと思った」 「アトリエ用の部屋を別に設けたの。ここには完成したのを少し持ち込んでるくらいね。……ほら、これが先日仕上げた絵よ」 父親と母親が赤ん坊を囲んでいる絵だった。温かい家庭の空気が伝わってくる。 「ミランダがこんな絵を描くなんて意外だな」 「それはどういう意味? 褒めてるのかしら?」 「褒めてるんだよ。絵がわからない俺でも、なんだか優しい気持ちになる」 「いい感性してるじゃない。それを感じ取れればいいのよ」 ミランダが微笑んだ。 「さて、夕食まで少し時間があるから……」 「ここで少し話すか?」 「奥に来てよ」 「奥って……。おい」 トーマを無視してミランダは行ってしまう。仕方なくトーマは追いかけた。 「奥って寝室だろ?」 何も言わずにミランダは服を脱ぎ始めた。 「何やってるんだよ?」 「昔みたいにゆっくり過ごしたいって言ったでしょ?」 「俺は食事と会話だけのつもりで……。やめろ!」 トーマは顔を赤くしてミランダを止めようとした。 「何を純情ぶってるの? 知らない仲じゃないでしょ?」 「俺はセイラを裏切るようなことはできない。お前とのことは過去のことだ」 「黙ってればわからないわよ。セイラさんとは清く正しいお付き合いなんでしょ? どこかで発散しなきゃ、もたないわよ」 「そういう問題じゃない。俺が愛してるのはセイラだけだ」 トーマははっきり言い切った。 「そんなにセイラさんがいいわけ?」 「……何とでも言え。そういうことなら、俺は帰る」 トーマがくるりと背を向けた。 「このまま帰るなら、セイラさんに言うわよ。あなたと私の本当の関係を」 「言いたきゃ言えよ。今裏切るよりはましだ」 「……言ってくれるわね」 ミランダは大きくため息をついた。 「わかった。……ごめんなさい、悪かったわ。ちゃんと服を着るから少し待って」 ミランダは着衣を整えた。 「お願い、食事だけ付き合ってくれる? 今用意させるから、先に食堂に行ってて」
ミランダが用意させた食事はトーマには懐かしいものだった。 「子どもの頃、これが好きでよく食べてたでしょ?」 「よく覚えてたな」 「しょっちゅう行き来してたもの。でも、こんな大酒飲みになるとは思わなかったわ」 「失礼だな、まだそんなに飲んでない」 ふくれっ面のトーマを見て、ミランダがくすくすと笑った。 「セイラさんには今日のことは内緒で来たの?」 「いや、正直に言った。お前に詫びるために一緒に食事をするって」 「彼女は何て?」 「それが……きちんと謝って来いって、素直に送り出された」 ミランダは声を立てて笑った。 「本当にネンネちゃんなのね。あなたが他の女性と……なんて想像もできないのかしら」 「それだけ純真なんだよ。ああ見えて、結構苦労もしてる」 「守ってあげたいってわけ?」 「その通り」 「惚気てくれるわね。羨ましいわ」 今度はトーマがミランダに問いかける。 「お前は向こうでいい奴に出会わなかったのか?」 「みんな絵のライバルだもの。声をかけてくる男性はいたけれど、本気で付き合うような人はいなかったわ」 「ミランダは理想が高すぎるんじゃないか?」 「何よ」 「昔から、どんなにいい男も最後は捨ててたじゃないか。コリーヌ男爵なんかかわいそうだった」 幼馴染は会話の種に事欠かない。すっかり話し込み、気が付けばかなり時間が経っていた。 「そろそろ帰る。セイラのところにも寄らなきゃな。今日は楽しかった」 「もう帰るの?」 「さっきからなんか眠くてさ。疲れてるのかな。起きていられる間にセイラに会いたい」 トーマは大きな欠伸をした。 「休んでいけば? 無理はよくないわよ」 「そういうわけにもいかないだろ」 椅子から立ち上がり、出口に向かって歩き出そうとした。だが、なぜかまっすぐ歩けない。 「ほら、足元がふらついてるじゃない」 「おかしいな。そんなに飲んでもいないのに……」 体に力が入らず、まぶたが重くなってくる。 「言うこと聞いて、休んだほうがいいわよ。手を貸すよう、誰か呼んでくるから」 後ろの言葉はもうトーマには聞き取れなかった。目を閉じて座り込み、床に突っ伏してしまった。 「トーマ、寝ちゃったの?」 ミランダはトーマが寝入ったのを確認し、使用人を呼んだ。
グレイヴィル家では、伯爵がセイラと使用人たちと食事をしていた。 「せっかくトーマ君に見せてあげようと思ったのに、残念だね」 「明日でもいいじゃないですか。逃げたりしませんし」 伯爵が手に入れたのは、外国製の銃だった。透かし彫りや細かい宝飾など美しい細工が施されていた。実用性よりも見た目の美しさを重んじて作られたようだ。珍しいので、さっそくトーマにも見せようとしていたのだ。 「幼馴染ですから、いくらでも話すことはありますよ」 「……セイラは不安にならないのかい?」 「何がですか?」 「ミランダ嬢はトーマ君の初恋の人だろう?」 「それが何か?」 伯爵はセイラの言葉に苦笑した。 「……普通は会うことに反対したり、何かしら心配したりしそうなものだけどね。トーマ君が自分以外の女性と会うことに抵抗はないのかい?」 「幼馴染、友達ですよ? 親交を深めて問題はないと思いますが」 「セイラは素直すぎるのかな? それとも幼いのか…」 「どういう意味ですか?」 「いや、わからないならいい。……まあ、トーマ君なら大丈夫か」 セイラは父の言葉の意味が分からず、きょとんとしていた。
トーマはベッドの上で目が覚めた。隣に誰か寝ていることに気付き、横を向いた。ミランダが笑っている。 「気が付いた?」 「何でお前が……」 「覚えてないの? あんなに激しかったのに」 「え……?」 トーマは自分が服を着ていないことに気が付いた。ミランダも何も身に着けていないようだ。 「昔は私がリードしてたのに、すっかりたくましくなっちゃって」 トーマは青くなった。 「お前……一服盛りやがったな?」 「ばれた?」 ミランダに悪びれた様子はない。 「こんなにいい女が誘ってるのに何もしないなんてあんまりよ。……でも、薬で本性が出たわね。セイラさんだけ、と言いながら結局は、ね」 「薬のせいだ」 「事実は変わらないわよ?」 トーマは言葉に詰まった。 「今度はちゃんと意識がある状態でどう? 一度も二度も同じじゃない」 「冗談じゃない!」 慌てて起きて服を探す。床に散乱していた。 「帰るの?」 「当たり前だ」 トーマは服を着だした。 「だったら、明日も来てよ」 「嫌だ」 「今日のこと、セイラさんにばれてもいいの?」 「それは……」 ミランダが畳みかける。 「さすがにセイラさんでもショックを受けるはずよ。正直に話しても、許してもらえるかしら? 薬のせいだなんて誰も信じないわよ」 トーマは答えられなかった。 「私たちだけの秘密にしておいてあげるわ。その代わり、私が来てほしい時は必ず来て」 「……ルーファス様の婚姻の準備で忙しくなる」 トーマは必死に言い訳を探した。 「とりあえず明日は?」 「夜遅くまで仕事だ」 「明後日は?」 「……忘れた。とにかく帰る!」 トーマが逃げるように去った扉を、ミランダはずっと眺めていた。
なぜかトーマはグレイヴィル家に向かっていた。頭が混乱している。会うべきでないのに会いたい。いつもの笑顔に癒されたい。そんな気持ちがあったのかもしれない。 「こんな遅い時間に……。明日の仕事は大丈夫ですか?」 セイラは自分の迷惑よりもトーマを気遣った。 「……寄るって言ったから……」 「せっかくですから、お見せしましょうか? お父様が手に入れたんです」 セイラはグレイヴィル伯爵を呼び、例の銃をトーマに見せた。 「凝ってるだろう?」 「はい……」 「この花模様の透かし、すごいですよね」 「ああ……」 「どうしたんですか? 疲れてるのでは?」 「いや……」 セイラと伯爵は不思議がる。 「もう帰って休んだらいい。女性のおしゃべりに付き合うのも結構大変だからね」 「そうですよ。無理して今日来なくてもよかったんですよ」 二人の気遣いが胸に刺さる。 「……もしかして、ミランダ嬢に昨日のことを許してもらえなかったんですか?」 「違う」 「だったら、どうして元気がないのですか? トーマが元気がないと、私も悲しいです」 「……何でもない」 心配そうにみつめるセイラをトーマは思わず抱きしめた。 「……トーマ?」 「本当に……何でもないから……」 セイラはトーマの背中にそっと手を回した。
翌日からトーマはセイラを避け始めた。やはり合わせる顔がない。何かと理由をつけて、休憩時間の会話も互いの屋敷の訪問も断った。ミランダとも会わないよう気を付けていたが、彼女を宮廷で見かけることはなかった。 セイラもさすがに彼の異変を感じ始めた。だが、話そうにもトーマは逃げてしまう。セイラは内緒でレッドフォード家を訪ねることにした。 「セイラちゃん、久しぶり。トーマとけんかでもしたの?」 パウルが話しかけてくる。 「そういうわけではないのですが……。やっぱり屋敷でも様子がおかしいですか?」 セイラの問いに侯爵夫人が答えた。 「そうなのよ。話しかけても上の空だったり、部屋に閉じこもったり……。私もセイラさんと何かあったのかしらと思っていたのだけど」 「何も覚えはないんです。訳を聞こうにも、避けられているみたいで……。失礼だとは思ったのですが、不意打ちで訪問させていただきました」 「心配かけてごめんなさいね」 「いいえ。お部屋にいますか?」 「ええ」 セイラはトーマの部屋の扉を開けた。トーマが驚いた顔でセイラを見る。 「お前……。いきなり失礼だろ?」 「無礼は承知の上です。避けられてるようなので、奇襲をかけました」 「別に避けてない」 「いいえ、避けてます」 セイラは部屋の中に入った。 「私、何か気に障るようなことしましたか?」 「特にない」 「じゃあ、なんで無視するんですか?」 「無視はしてないだろ。忙しいからゆっくり話せないだけで」 「前は忙しくても話す時間は作ってくれたじゃないですか」 「ルーファス様のこともあるし、お前にだけかまってはいられない。俺だって疲れて休みたい時もあるんだ」 セイラの目が少し潤んだ。 「……何を一人で抱え込んでるんですか? 悩みや辛いことがあるならちゃんと話してください」 「話すようなことはない」 「でも一人で苦しんでるじゃないですか。私に話せないようなことですか? 私では力になれませんか?」 「……だから、悩みなんかないって」 「いいえ、悩んで苦しんでるように見えます」 「気のせいだ。……本当に疲れてるんだ。帰ってくれないか?」 セイラは口をぎゅっと結んだ。 「……私でなくてもいいから、誰かに話してくださいね」 そう言うと、彼女は部屋を出た。 パウルと侯爵夫人が部屋から出てきたセイラを迎えた。 「トーマは何だって?」 パウルが尋ねる。 「……話すようなことはない、と。でも、一人で何か悩んでいるようなので、よかったら話を聞いてあげてください。私では力不足みたいですから」 セイラの目から涙が一滴落ちた。 「相談相手にもなれなくて……。何もできなくてすみません」 「セイラさんが謝ることはないわ」 「そうだよ」 二人がセイラを慰めた。 「セイラちゃんに心配かけるトーマが悪い。僕が話してみるよ。男同士のほうが話しやすいかもしれないし。後でセイラちゃんに伝えるね」 「いいえ、私に話さなくてもいいです。トーマが元気になってくれれば」 セイラは屋敷に帰った。
「トーマ君とは話せたかい?」 グレイヴィル伯爵がセイラに尋ねた。 「いいえ。……私には悩みや苦しみを分かち合うだけの力がないみたいです」 肩を落とすセイラに伯爵が優しく語りかける。 「そんなことはないよ。たまにはすれ違ったりぶつかったりすることもあるさ。でも、案外些細なことが原因なんだ。きっと後で笑い飛ばせるよ」 「そうでしょうか? あんなトーマは初めてで……」 「セイラまで落ち込んでいたら、トーマ君も元気になれないよ」 「……そうですね」 「いつも通りのセイラでいたらいい。私はいつでもセイラの味方だから」 「ありがとうございます、お父様」 セイラを自室に見送り、伯爵は微笑んだ。 「だんな様、どうなさいましたか?」 執事のクロードが伯爵に問いかけた。 「いや、あの子が恋人のために悩むようになったんだなと思うと……」 「確かに感慨深いですね。あの幼かったセイラ様が……」 「心配でもあるんだけど、成長していく姿はうれしいものだね」 「さようでございますね」 伯爵は頷き、真顔に戻った。 「それにしても、トーマ君はどうしたんだろう? 大したことでなければいいが」
セイラが帰ってすぐ、パウルはトーマの部屋に行った。 「セイラちゃん泣いてたぞ。お前が何も話さないから、自分じゃ力になれないって」 「……そうか」 「本当にどうしたんだよ? お前がそんなんじゃ、僕がもらうぞ。傷心の女ほど口説きやすいものはないからな」 パウルの言葉にトーマが振り返った。 「僕にとられるのが嫌なら、しっかりしろよ。何があったのか、ちゃんと話せ」 「……こういうことは、兄貴の得意分野かもな」 「やっぱり女性に聞かれたくない、男同士の話か?」 「……兄貴はトラブルには慣れてるのか?」 「何の話だ?」 トーマはしばらくためらったが、ミランダとのことを話し始めた。 聞き終えたパウルは唖然とした。 「まさかお前が……」 「だから薬のせいだ」 「そうは言っても……」 「なあ、兄貴はこういう時どうしてるんだ? やっぱりちゃんと話して謝るのか?」 「僕の場合は……初めからお互い遊びだと割り切っているし、もともと遊び人だってことはみんな知ってるからな。浮気だろうが二股だろうが、そんなもんだと思われてる」 「……だよな」 トーマはため息をついた。 「お前がセイラちゃん一筋ってことは周知の事実だからな。僕ならともかく、お前が浮気するとは誰も思わない」 「……自分で言うなよ」 「でも……。結局、正直に話して謝るか、一生黙っているか、どちらかしかないんじゃないか? どっちもリスクはあるけど」 「リスク?」 「正直に話して謝っても、許してもらえるとは限らない。黙っていることを選んでも、いつばれるかわからない。どっちにしてもセイラちゃんは傷つくだろうな。こういうことに免疫なさそうだし」 パウルの言葉に、トーマは頭を抱えた。 「傷つけたくないんだよ」 「今のままでも十分傷ついてると思うぞ? ……まあ、僕としては、ばれる前に正直に話して誠心誠意謝るのがお勧めだな。その前にミランダと話したほうがいいだろうけど」 「……やっぱりそれが結論か」 「わかってるなら、さっさと行動に移せよ。時間が経つほどややこしくなるぞ」 頭ではわかっていても、勇気が出ない。しかし、それしか道がないのだ。 「……ミランダと話してみる」 トーマは腹を決めた。
翌日、控えの間でセイラが本を読んでいると、ミランダがやってきた。 「ミランダ嬢、お久しぶりです。しばらくお見かけしませんでしたね」 「絵を頼まれて、アトリエにこもっていたの。やっと昨日仕上がったわ」 「注文を受けるなんてすごいですね。ぜひ今度描いた絵を見せてください」 セイラに言われて、ミランダは笑顔になった。 「ええ。――ところで、トーマは? ここにいるかと思ったんだけど」 「私も今日はまだ見てないんです」 「あら、いつも一緒なのかと思ってたわ」 「そういうわけでもないんですよ。……あの、ミランダ嬢は何かご存知ではありませんか?」 「何かしら?」 「あ、すみません。ずっとアトリエにいらしたのに、何のことかわからないですよね」 「とりあえず話してみて」 ミランダに促され、セイラは語りだした。 「……最近、大尉の様子がおかしいんです。元気がないし、会ってちゃんと話す時間を持ってくれないんです。避けられているような……。訳を聞いても何も答えてくれなくて」 「トーマが?」 「はい。何か悩んでいるようなんですけど。――大尉とは幼馴染ですよね? 昔もこんなことはあったのでしょうか?」 真剣な顔で聞いてくるセイラに、ミランダは思わず吹き出した。 「あの……何かおかしいでしょうか?」 「……ごめんなさい。でも……おかしくて……」 ミランダは笑いをこらえるのに必死だ。 「……普通……恋人の様子が変だときたら……。考えるのはひとつでしょ」 「どういうことですか?」 「……本当にわからないの?」 「わからないからお尋ねしています」 セイラは少し苛立った。 「まさか……本当に?」 「ですから、何でしょうか? ご存知なら教えてください」 ミランダはおかしいのを通り越して呆れてしまった。 「ここまで天然とは思わなかったわ」 「すみません。でも、本当にわからないんです」 「……知らないほうがいいと思うわ」 「どうしてですか?」 「あなたみたいな人には、想像もできないことよ。知ったらきっと傷つくわ」 セイラは食い下がる。 「いいえ、教えてください。少しでも理由がわかれば、力になれることが見えてくるかもしれません」 「あなたって本当に……」 ミランダは大きくため息をついた。 「そこまで言うなら、教えてあげるけれど。後悔したり恨んだりしないでね」 「そんなことはしません」 「その前に、ひとつ確認したいの。トーマの様子がおかしくなったのって、彼が私の屋敷に来た後からじゃなかった?」 「そういえば……。その時、何かあったんですか?」 ミランダはまじまじとセイラをみつめた。 「……やっぱり話すのやめようかしら」 「続けてください。ミランダ嬢を恨んだりしませんから」 ミランダはしばらく黙っていたが、やがてセイラの耳元に口を近づけた。 「トーマがうちに来た日ね……。彼は私と寝たの」 「……え?」 「とても素敵だったわよ。昔は私が手取り足取り教えていたのに」 セイラは言葉が出ない。 「また会う約束をするつもりだったのに、絵の依頼が入っちゃって。やっと済んだから、今日会いたくてここに来たの。でも、いないんじゃ仕方ないわね」 固まっているセイラに、ミランダは笑いかける。 「あなたが話せというから話したのよ。じゃ、またね」 ミランダが出て行っても、セイラは固まったままだった。
嘘から出たまことなのか、トーマは忙しい一日を過ごしていた。やっと仕事を終え帰ろうとした時、トーマはセイラの姿を認めた。 「……心配かけてすまない。明日ちゃんと話すから、少し待ってくれるか?」 先にミランダと話すつもりだった。 「あの……。本当なんですか?」 トーマはいつもにないセイラの様子に気付いた。 「何が?」 「昼間、ミランダ嬢に会いました」 ミランダと聞いて、トーマはびくりとした。 「嘘ですよね? ミランダ嬢と、だなんて……」 トーマは口を開けない。 「昔も彼女と寝てたなんて……。小さな子どもの頃の話ですよね?」 沈黙するトーマの顔を見て、セイラは力なく笑った。 「……本当なんですか。隠さず話してくれたらよかったのに……」 そのままセイラは立ち去ってしまった。
グレイヴィル伯爵はレッドフォード家を訪ねた。セイラは帰るなり部屋に閉じこもってしまった。声をかけても何の返事もない。メイドのハンナに様子を見に行かせても、ただ泣くばかりで何も話さないという。トーマと何かあったのだろうと、彼と話をするために訪問したのだった。まだトーマは帰宅していないらしい。 待たせてもらっていると、パウルが帰ってきた。伯爵の姿を見て驚く。 「トーマ君に話があってね」 パウルは嫌な予感がした。 「そうだ、女の子の扱いに慣れてる君ならわかるかな」 「何がですか?」 伯爵に話しかけられ、パウルは答えるしかなかった。 「女の子が泣いていたら、君はどうする?」 「まず理由を聞きますね」 「理由を聞いても何も言わないんだ」 「……セイラちゃん、泣いてるんですか?」 パウルは墓穴を掘ったと思ったが、伯爵は意に介さなかった。 「そうなんだよ。妻がいればいろいろ相談に乗ってあげられたと思うのだが……。父親というのは非力だよ」 「はあ……」 まだ伯爵にはばれていないらしい。 「親があまり干渉するものではないとはわかっているんだが……。今まであんな姿は見たことがないんだ。最近トーマ君のことを心配していたし、彼と話せば何かわかるかと思ってね」 「……そうですね」 「トーマ君は、君には何か言ってなかったかい?」 「い、いいえ」 「そうか……。まさかトーマ君に限って浮気ってこともないだろうしね……」 パウルは心臓が止まりそうになった。こわばったパウルに伯爵は訝しげな目を向ける。 「どうしたんだい? ……まさか……」 「いえ、何でもありません。僕はこれで」 自室に引き上げようとするパウルを伯爵が引き止めた。 「待ちたまえ。知っていることを話してくれるかな?」 優しい顔と口調に恐怖を感じ、パウルは仕方なく話し出した。 途方に暮れていたトーマが屋敷に戻ったのは、夜遅くのことだった。グレイヴィル伯爵の姿に彼は驚愕した。 「疲れているところ申し訳ないけど、君の口から直接聞かせてもらえるかい? さっきパウル君から大体のことは聞いたんだけどね」 トーマは逃げる術がなかった。
「だから早めに対処しろと言ったのに」 伯爵が帰った後、パウルはトーマの部屋に来た。 「今日ミランダと話すつもりだったんだ。まさかミランダがセイラに話すなんて……」 「それにしても、グレイヴィル伯爵って怖いな。怒鳴られるよりよほど凄みがある。セイラちゃんに手出ししなくてよかったよ」 「おい」 伯爵はトーマにセイラへの接近禁止令を出した。 「泣かせたら承知しない、って最初に言ったはずだけど? 八つ裂きにしてやってもいいけど、捕まったらセイラのそばにいられないからね。あ、証拠が残らないよう崖から突き落せばいいのか。それとも毒殺がいいかな?」 にこにこしたまま恐ろしいことを口にした。 「ま、トーマの気持ちを知ってて遠慮したんだけどな」 「……兄貴の辞書に『遠慮』という言葉があったのか?」 「失礼な。僕はいつも弟を思いやる優しい兄だろ? ……で、これからどうする?」 パウルの言葉にトーマは黙ってしまった。 「言っとくけど、僕を恨むなよ。自業自得だからな」 「……わかってる」 「結局は誠意しかないだろうな。ミランダと話をつけて、ひたすら謝るしかないんじゃないか?」 「……だな」 時間を戻すことはできない。ぐずぐずしていた自分が悪いのだ。 「兄貴、ありがとな」 「礼なんか言うなって。気色悪い」 珍しく照れているパウルに、トーマは少し心が軽くなった。
翌日、トーマはさっそくミランダに会いに行った。宮廷で目を腫らしたセイラを見かけたが、話すのは後だ。ミランダは笑顔でトーマを迎えた。 「トーマから来てくれるなんて、うれしいわ」 「今日で最後だ」 トーマの言葉にミランダはたじろいだ。 「昨日、セイラに話しただろ?」 「ええ。彼女が知りたいって言ったから」 「夜グレイヴィル伯爵が来て、お叱りを受けた。セイラに近づくなと」 「あら、大変ねえ。慰めてあげましょうか?」 ミランダは妖しく微笑む。 「お前に慰めてもらおうとは思わない。お前には二度と会わない。それだけ言いに来た」 ミランダはじっとトーマをみつめた。 「もうどんな脅しも無駄だぞ? 全部ばれてるんだからな」 「……どうするつもりなの?」 「ひたすら許しを請う。それしかない」 「……原始的な方法ね」 ミランダはため息をついた。 「許してくれなかったら?」 「許してくれるまで謝る」 トーマは即答する。 「……一生許してもらえないかもしれないわよ?」 「それなら一生謝り続けるだけだ」 「他にも女はいるのに?」 ミランダは呆れたように言った。 「俺にとって女はあいつだけだ。昔お前の誘いに乗ったのはただの好奇心だ」 「言い切れるの?」 「自分で確信してるからな。あいつが現れてから、他の女に目が向いたことはない」 断言したトーマに、ミランダは少し悲しそうな顔をした。 「……トーマとなら、あの絵の家族のような関係を築けるかと思ったのに」 「悪いが、他の奴を当たってくれ。ただし兄貴はやめとけよ。わかってると思うけど」 「パウルは好みじゃないわ。向こうもそうみたいだけどね」 確かにパウルとミランダは昔から折り合いが悪い。 「とにかく、俺はもうミランダとは会わない」 「……わかったわ。うまくいくよう祈ってる」 ミランダは寂しげに微笑んだ。
ミランダと話をつけた後、トーマはグレイヴィル家に向かった。 「決してお通ししないよう、言いつかっております」 伯爵は屋敷中に厳令を敷いたらしい。出てきたクロードもとりつく島がなかった。 「汚れた身でセイラ様に近づかれては困ります。お引き取りを」 「汚れた、って……」 気持ちはわかるが、ひどい言われようだ。 「悪かったと思ってる。ちゃんと謝りたいんだ」 「謝って済む問題ではございません。セイラ様はひたすらあなた様を心配されていらっしゃったのに……」 「だから、きちんと会って話をしたい」 「お引き取りください。どうしてもお会いしたければ、私を殺して行かれてください。私がいなくなっても、他の者が止めると思いますが」 屋敷の者たちを全員敵に回したようだ。トーマは仕方なく引き下がった。
翌朝、宮廷でセイラに声をかけた。 「ミランダとは話をつけた。本当にすまなかった。お前が望むことは何でもするから」 頭を下げたトーマに、セイラは背を向けたままだった。 「でしたら、今後一切話しかけないでいただけますか?」 足早に立ち去ってしまう。 それから、いくらトーマが話しかけてもセイラは無視した。さすがに宮廷にも噂が立ち始める。婚約で浮かれていたルーファスもトーマを問い詰めた。 「何が原因でこうなったんだ? お前がセイラに冷たくあしらわれるなんて」 「面目ありません。俺に責任があるので……」 「あのセイラがあんな態度をとるとは、相当だぞ? 私が求愛した時でさえ、一応笑顔は見せてくれていたのに」 ルーファスはごまかせない。トーマは正直に打ち明けることにした。 「……浮気がばれまして」 「はあ? お前が?」 ルーファスは仰天した。ミランダとのことを簡潔に話すと、 「……それはさすがに怒るな。卑怯な手を使ったミランダも悪いが。誠意を見せるしかないだろう」 と、トーマにも多少同情を示した。 ルチアも二人の変化が気になっていた。 「ねえ、トーマとけんかしたの?」 「申し上げるようなことはございません」 絶対何かあった、とルチアは確信していた。 「嫌いになったのかしら?」 「……そうかもしれませんね」 「……じゃあ、私がトーマをもらってもいい?」 「え?」 「最近、彼の魅力に気が付いたの。セイラがいらないって言うなら、私に頂戴」 セイラは言葉に困った。父からは許す必要はないと言われた。セイラ自身もトーマと言葉を交わすのは億劫だし胸が痛む。だが、本当のところ、彼をどう思っているのか。セイラは自分でわからなかった。 「……そんな顔するなら、ちゃんと仲直りしなくちゃ」 ルチアが微笑んでいる。 「……からかったのですか?」 「王族を振ってまで貫いた思いを、水の泡にしてほしくないもの」 「……ご心配をおかけしてすみません。でも、気持ちの整理がつくまで待っていただけますか?」 「セイラって意外に不器用よね。そんなところにお兄様も惹かれたんでしょうけど……。歯がゆいけれど、本人たちがちゃんと納得しなくちゃね」 恋物語の本を好んで読んでいるルチアは客観的だ。 「私にできることがあれば言ってね」 セイラはルチアの好意に感謝した。
その日は午後から雨が降った。セイラは少しでも空模様が怪しい時は傘を用意する。帰る時に濡れる心配はないはずだった。ところが、傘が見当たらないのだ。誰かが持って行ってしまったのだろうか。仕方なく濡れて帰ろうとすると、セイラに傘を差し出した者がいた。 「フォション中尉」 非常に紳士的だと評判の高い、近衛隊の中尉だった。 「自分は濡れずに女性を雨にさらすなんて、男の面子が立ちませんから」 にこやかにセイラに傘を渡した。 「でも、中尉が濡れてしまいます」 「私は友人の傘に入れてもらいますから、大丈夫ですよ」 そう言って中尉は中に引き返した。セイラはありがたく借りることにした。 翌日、傘を返すために近衛隊の兵舎を訪ねた。 「昨日はありがとうございました。本当に大丈夫でしたか?」 「ええ、ご心配なく。代わりはいくらでもありますから、わざわざ返しに来なくてもよかったんですよ」 紳士の名に恥じない爽やかな応対だった。 「そんなわけには……。本当に助かりました。何かお礼ができればいいのですが」 「お礼なんていいですよ。あなたが雨に濡れずに済んでよかったです」 セイラは再度感謝を伝え、持ち場に戻ろうとした。 「あ、待ってください。やっぱりお礼をしてもらおうかな」 フォション中尉がセイラを引き止めた。 「できる事でしたら、何なりと」 「お昼を付き合っていただけませんか?」 「……え?」 セイラは少し訝しく思った。 「いえ、変な意味じゃなくて。……実は今週末、従妹の誕生日に招かれているんですが、プレゼントが決まらないんです。候補はあるんですけど、女の子が好みそうな物がわからなくて。昼食がてら、相談に乗ってもらえるとありがたいのですが」 「そういうことでしたら、喜んでお力になります」 セイラは快く承諾した。 昼食に付き合い、今度十四歳だという中尉の従妹の話を聞いた。中尉の挙げた候補も吟味し、プラチナの髪飾りをプレゼントに勧めた。 「ありがとうございます。なかなか決めきれずにいたんですが、これですっきりしました」 「お役に立てて、何よりです」 週明け、控えの間にいたセイラにフォション中尉が話しかけてきた。 「従妹はとても喜んでいました。グレイヴィル少尉のおかげです」 「よかったですね」 「ぜひ、お礼をさせてください。今度は別の店で食事でもいかがですか?」 「いいえ、先日もごちそうになったのに」 「それでは私の気が済みません」 結局、翌日また昼食を一緒にとったのだった。 二人の接近をトーマが黙っているはずはない。 「なぜフォション中尉と?」 「従妹のプレゼントの相談に乗っただけですよ」 セイラは素っ気なかった。 「中尉に好意を持ってるのか?」 「大尉に関係ありますか?」 やはり素知らぬふりで去ってしまう。トーマは苦々しく思いながらも、どうすることもできなかった。
数日後の夜。トーマはやりきれない思いを晴らそうと、新しくできた酒場に行った。飲んでも酔えない。いらいらしていると、近くのグループの会話が聞こえてきた。 「首尾はどうだ?」 「まあまあだな。今までにないタイプで、これからどう攻めるか思案中だ」 「お前も悪い奴だよな。狙った獲物に近づくため、わざと傘を盗んだり、存在しない従妹をでっちあげたり」 「紳士的で素敵だって、多くの女性たちを虜にしているくせに」 笑い声が聞こえる。 「なかなか落ちそうにない子を落とすのが楽しいのさ。特に彼女の場合、ルーファス様やレッドフォード大尉のおかげで今まで手が出せなかったからな。今がチャンスさ。力ずくじゃなく、向こうから飛び込んでくるように仕向ける。手間はかかるが、この快感はクセになるぞ」 「見た目にみんな騙されてるな。フォション中尉の本性を公開してやろうか」 「よせよ」 また大きな笑い声が上がった。トーマは立ち上がり、会話の主たちのところに行った。そしてフォション中尉を殴りつけた。周りの者たちが必死で止め、何とか乱闘は免れた。
翌日、フォション中尉の顔を見たセイラは驚いた。 「どうしたんですか、そのあざ……」 「夕べ、ちょっと転んでしまいまして。結構そそっかしいんですよ」 中尉はいつもの微笑みを浮かべた。 「転んだだけで、そんなところにあざはできないはずです」 心配そうにみつめるセイラに、中尉は内心ほくそ笑んだ。そこへトーマがやってきた。 「セイラ、そいつから離れろ」 「怪我の心配をしてはいけませんか?」 「そいつは詐欺師だ。嘘をついてお前の気を引こうとしている」 叫ぶトーマをセイラはにらみつけた。 「嘘つきは大尉のほうでは?」 「レッドフォード大尉、昨夜はどうも」 中尉は紳士らしく挨拶した。 「……まさか、そのあざは大尉が?」 「彼は酔ってただけですよ」 セイラははっきり軽蔑のまなざしをトーマに向けた。 「俺の言うことが信じられないのか?」 「どう信じろと?」 「まあまあ。私は何とも思ってませんから、けんかはやめてください」 中尉がうわべだけの仲裁に入った。セイラはルチアの元へ行ってしまった。
数日後、セイラはルチアと共に少し遠方の街に出かけた。そこでしか手に入らない珍しいお茶を買いたい、とルチアが言い出したのだ。取り寄せれば済むことだったが、ルチアはついでに街も見物したいと聞かなかった。お忍びということで、馬車の御者とセイラだけがついていくことになった。セイラが一緒なら、と国王も承諾した。一通り街を巡ってルチアは満足し、帰路に着いた。 「雨が降りそうですね」 空を見上げてセイラが呟いた。 「もう目的は果たしたから構わないわ」 「ご満足のようですね」 「ええ。このお茶でイヴェールさんをもてなしたかったの。街の様子もお話しできるでしょ?」 ルチアなりに兄嫁を大切に思っているのだ。 「お義姉様になるんですもの。仲良くしたいわ」 「そうですね。きっと大丈夫ですよ」 セイラは微笑ましく思った。 馬車はゆっくり進んでいく。ひとつ森を抜ければ、すぐ都だ。ルチアとセイラが話に夢中になっていると、突然馬車が大きく揺れて止まった。セイラが窓からのぞくと、ナイフや斧などを持った数人の男たちが馬車を取り囲んでいる。――賊だ。 セイラはルチアにじっと隠れているよう言うと、一人馬車を降りた。賊たちの前にひざまずく。 「お願いします、見逃してください。奥様がご病気なんです」 「金目の物を出せ」 「お金はありませんが、これなら……」 セイラは首にかけていたペンダントを外した。大きめの石がぶら下がっている。 「宝石か?」 賊たちが近づいた時、セイラはペンダントを地面に叩きつけた。煙幕が視界を遮り、賊たちの喉を刺激する。いざという時のために持っていた目くらましだった。賊たちが煙の向こうでむせている間に、セイラはルチアと御者を馬に乗せた。 「全速力で宮廷に戻ってください」 馬車を切り離し、馬を出発させた。もう一頭の馬も自由にし、自分も乗ろうとした時、右の太腿に焼けつくような痛みが走った。馬が銃声に驚いて駆け出す。セイラが振り返ると、煙幕がだいぶ薄れ、一人の賊が銃を構えていた。即座にピストルで応戦する。銃を持っていた賊が倒れたが、同時にセイラの左肩を弾がかすめた。仲間の死に恐れをなしたのか、残った賊たちは逃げてしまった。 セイラは座り込み、ハンカチを割いて太腿にきつく巻いた。応急の止血だ。肩も手当てしたいが、一人では無理だ。強い雨が降ってきた。足の負傷で動くことができない。 (ルチア様は……) 無事に帰り着いただろうか。それが気がかりだった。 どれほど時間が経ったのだろう。セイラは地面に横たわっていた。出血と雨が体温を奪っていく。もう手足の感覚もほとんどなかった。今までのことが走馬灯のように次々と思い出される。 ――死ぬのは怖くない。ルチアの護衛を引き受けた時から危険は承知していた。だが……。 (……最後に……ひと目……) セイラは目を閉じた。冷たい雨がセイラの体に降り注いでいた。
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