トーマとの一件があってから、ルーファスはセイラの態度が固くなったのを感じていた。 「どうした? 前から見てみたいと言っていたのに、楽しくないのか?」 「あ、すみません。考え事をしていて……」 夕日が美しいことで有名な名勝だった。少し遠いが、なんとか時間をやりくりして連れてきたのだ。それなのに、セイラは浮かない顔をしている。触れようとすると体をこわばらせる。せっかく心がほぐれてきていたのに、とルーファスはトーマを恨めしく思った。 トーマもセイラも仕事上のことでしか会話をしない。一度だけ、トーマが本をセイラに渡したことがあった。 「前、読みたいって言ってたから。久しぶりに書斎を漁ったら出てきた」 「ありがとうございます。すぐに返しますね」 「別に返さなくてもいい。やる」 これだけの会話だった。 なかなか次のデートを切り出せずにいたルーファスだったが、ある日思い切ってセイラを誘った。 「来週、元大使主催の昼食会がある。私のパートナーとして、一緒に出てくれないか? 彼にお前を紹介したい」 「いいのですか? そんな公の場で……」 「昼食会といっても格式ばった正式なものではないし、気楽に参加してほしい」 正式なものではないが、国の主要な面々が参席する。もう一度、セイラに自分の思いと覚悟を伝えようと思ったのだ。セイラは承諾した。
数日後、セイラはルーファスの護衛の一人であるクレール少佐をみかけた。 「クレール少佐、今日はお休みではなかったのですか?」 昨日も彼は遅くまで仕事だった。確か今日は非番だったはずだ。 「それが、ジャンの奴が怪我をして急遽私が出ることになったんだ。トーマに頼みたかったんだが、侯爵の代理で今日から領地のほうに行っている。侯爵も兄上も例の風邪にかかっているそうだ」 最近たちの悪い風邪が流行っている。高い熱が数日続くのが特徴だった。 「一週間は寝込むらしいですからね。レッドフォード侯爵領に行ったのなら、戻ってくるのは早くて明日の午後でしょうか?」 「ノームエとパンタスに寄って帰るということだったから、三日後だな。それまで残っているメンバーで回さないと」 「大変ですね。少佐まで体を壊さないでください」 「ありがとう。我らの女神にそう言われると、元気が出る」 「シルヴィー嬢に叱られますよ」 シルヴィー嬢とは少佐の婚約者だ。 「そうなんだよ。せっかく久しぶりのデートだったのに……。どこかで埋め合わせしないと婚約破棄される」 「仕事ですから、わかってくれますよ。私のほうからも彼女にお話ししましょうか?」 「そうしてくれると助かる。結構おっかないんだよ、彼女」 くすくす笑いながら、セイラは少佐を見送った。三日後といえば、ルーファスと約束した昼食会の日だ。気楽に、とルーファスは言うが、やはりそれなりに気を遣う。 (ハンナさんにドレスを見立ててもらわないと) ルーファスと交際するようになってから、セイラはどこか気疲れを感じていた。
三日後、セイラはルーファスに寄り添って昼食会に赴いた。ルーファスからセイラを紹介された元大使はその美しさを褒め、お似合いですと言った。参席者がテーブルに着いた時、遅れて到着した者があった。 「ベネット伯爵、どうされたのですか?」 元大使が尋ねた。 「遅れて申し訳ない。十分間に合うはずだったのだが、パンタスで銃撃事件があったとかで道が封鎖されていて。遠回りして来た」 「それは物騒な。犯人はつかまったのでしょうか?」 「私が通ろうとした時はまだのようだったが……」 客たちがざわめく。 「死傷者がいなければいいが」 ルーファスも心配している。 「大尉……」 「セイラ?」 「すみません、失礼いたします」 セイラは慌ただしく飛び出していった。
馬に飛び乗り、セイラはパンタスに向かった。ドレスを着替える余裕はない。パンタスに入ると、警官に止められた。 「ここから先は通行禁止です。迂回してください」 「犯人は? 死傷者はいるのでしょうか?」 「詳しいことはまだわかりません。とにかく危険なので、ここから離れてください」 「私は軍人です。中に入れてください」 「そんな嘘を……。お嬢さんはお帰りください」 警官はセイラを信用しない。セイラは馬から降りた。 「本当に軍人なんです。自分のことには責任を持ちますから」 「そう言われても困ります」 「迷惑はかけませんから」 「女性は危険です」 押し問答を繰り返していると、町のほうからトーマが馬に乗ってきた。 「お前……何してるんだ?」 「大尉! ご無事だったんですね」 「……ああ、事件を聞いたのか。さっき犯人が逮捕されたそうだ。一人怪我人がいるが、軽症で命に別状はない。封鎖もじき解かれる……おい?」 セイラは涙を流していた。どうしてなのか、彼女自身もよくわからない。 「心配してくれたのか……」 トーマは馬を降り、セイラの頭に手を置いた。 「俺は大丈夫だから、もう泣くなよ」 「……すみません。……涙が……勝手に……」 しゃくりあげるセイラの頭をトーマは撫で続けた。
昼食会の会場に残っていたのはルーファスだけだった。 「……終わってしまったんですね。申し訳ありませんでした」 セイラは頭を下げた。 「……トーマは無事だったか?」 「はい」 しばらく無言が続く。 「私がどんな思いでお前を誘ったか……。お前にはわからないだろう」 「申し訳ないことをしました。どんなお叱りも受けます」 「では、私の部屋に来い」 無言のまま、ルーファスはセイラを自室に連れて行った。いつもの居間ではなく、奥の寝室に行くよう促される。そこでいきなり抱きしめられ、口づけを受けた。 「ルーファス様……」 ルーファスの目は嫉妬に燃えていた。 「これから私が何をしようと一切抵抗するな。これは命令だ」 「それは……」 「どうした、命令には従うのだろう?」 「……はい」 「服を脱いでベッドに横になれ」 唇をかみしめながら、セイラはベッドに向かった。
屋敷に戻ったトーマは、ルーファスからの呼び出しを受けた。あの後セイラはルーファスとの約束があると言って帰ったが、どうなったのだろうか。ルーファスの自室に行くと、珍しくルーファスが酒に酔っていた。 「戻ったか。パンタスで銃撃があったと聞いて心配したぞ」 「恐れ入ります」 「お前の無事を祝って乾杯だ」 「はあ……」 「まあ、飲め」 グラスを注がれる。 「もう一つ、私のためにも乾杯してくれるか?」 「何でしょうか?」 「とうとうセイラが私にすべてを差し出した。おかげで満腹だ」 「……おめでとうございます」 ――セイラが望んだのか。胸の痛みを感じつつも、これで彼女も幸せになるのだとトーマは自分に言い聞かせた。 「これで私も晴れて最低男の仲間入りというわけだ」 「最低、とは?」 トーマの問いに答えず、ルーファスはグラスをあおった。 「かわいかったぞ。意外に胸もあったしな。きれいで滑らかな肌だった。目を閉じてガタガタ震えているのに、命令だというだけで何も抵抗しなかった」 「――ルーファス様!」 「だから最低だと言っただろう?」 ルーファスは笑っている。 「ついさっきまで、あのベッドにいたんだ」 トーマはルーファスにつかみかかった。 「お前に怒る資格があるのか? お前も同類だろうに」 何も言い返せない。 「まあ、そういうわけだ。お前と祝杯をあげたくてここに呼んだ。もっと詳しく話して聞かせようか?」 「――失礼します」 トーマはルーファスの部屋を出て行った。ルーファスは一人、グラスに酒を注いだ。
翌日、セイラを見かけてもトーマは話しかけられなかった。あまりいつもと変わらないように見える。ルーファスも普段通りだ。連絡係が一通の手紙をルーファスに渡した。ルーファスは一読し、すぐに返事を書いて連絡係に託した。 「何の手紙ですか?」 「セイラからだ。今日都合のいい時間に会いたいというので、二時に会う約束をした」 「……」 「心配するな。お前にはその時間、外に出てもらうから」 「何を心配するのですか?」 「私に言わせたいか?」 「……いえ、結構です」 昨日のことを彼女はどう思っているのだろう。自分を心配して駆けつけてくれたことはうれしかった。だが、その後ルーファスに……。傷ついていないだろうか。そのことが心配だった。 外出から戻ったトーマはセイラに話しかけられた。 「仕事の後、少しお時間いいですか? お話があります」 セイラの顔が赤い。あまり聞きたくない。しかし、彼女が心の傷を打ち明けられるのが自分だけだとしたら、引き受けるしかない。 「少しだけなら。用事がある」 ぶっきらぼうにそう答えた。 「わかりました。では、控えの間で」 彼女は仕事に戻った。
トーマが控えの間に行ったのは、日が暮れてからだった。セイラは先に来て待っていた。 「ここでは話しづらいので、外に出ませんか?」 人が少ない庭に出る。 「こんなところで何の話だ? 仕事のことか?」 「お急ぎのところすみません。でも、どうしても大尉にお話ししなくてはと思ったので」 セイラはどう切り出すか迷っているようだった。 「……わからないんです、どうしてあんなことをしたのか」 「……は?」 「ルーファス様と昼食会に出ていたのに……。パンタスで事件があったと聞いて、大尉の顔が浮かんで、居ても立ってもいられなくなって……。気が付いたら馬に乗ってたんです。大尉の元気なお顔を見て、なぜか涙が止まらなくなって……。あんなこと初めてです」 ルーファスとのことだとばかり思っていたトーマは、あっけにとられた。 「屋敷に戻って考えましたけれど、どうしてもわからないんです。他にもいろんなことがあったはずなのに、大尉のことばかり思い出すんです。思い切ってハンナさんに相談しました。そしたら、『その方のことばかり思うのは、その方が特別な方だからですよ』って言われて……。もう一度考えました。そして、気付いたんです。大尉が私にとって大きな存在だということに」 ――どういうことだ? トーマは混乱した。 「自分から距離を置くようお願いしたのに、前みたいに話せないのが辛くて。今までどれだけ大尉に助けられてきたか、しみじみ感じたんです。……今更、図々しいかもしれませんが、これからも私のそばにいてくださいますか?」 「……えーっと……どういうこと?」 「……だから、私は大尉を……」 セイラは真っ赤になっている。それでもトーマは信じられない。 「……そうですよね。今更、ですよね……。私の言うことなんか、信じてもらえないですよね……」 セイラはうつむいてしまった。 「もう私のことなんか、お嫌いですよね……」 「いや、嫌いじゃないし、むしろ好きだけど。……でも、お前はもう……ルーファス様と……」 「ルーファス様にはちゃんとお話しして、わかっていただきました。大尉と話すよう勧めてくださったのもルーファス様です」 「……だって、昨日パンタスから戻った後、ルーファス様の部屋に行ったんだろ? 今日だって……」 「はい、行きました。行ってきちんとお話ししました」 「ルーファス様はお前を自分のものにした、って……」 「誰が言ったんですか、そんなこと?」 セイラはきょとんとした。 「何もなかったですよ。確かに昨日はルーファス様もお怒りで我を忘れていらっしゃいましたけれど……。途中で正気に戻られましたし、今日きちんと会ってお話しさせていただいたんです」 「でも、ルーファス様はかなり具体的におっしゃてたぞ? 胸があったとか、震えてたとか……」 「……確かに服を脱がされかけましたけれど……」 セイラが再び顔を赤らめる。 「本当に何もなかったんです。ルーファス様は私の気持ちを尊重してくださいました。自分の気持ちを大尉に正直にぶつけてみろ、とおっしゃってくださったんです」 ――騙されたのか。あれはルーファスの腹いせだったのだ。 「あれだけよくしていただいたのに、ルーファス様には本当に申し訳ないんですけれど……。逆に励ましていただいて、感謝しています」 「待て。……話を元に戻そう。つまり、お前が言いたいのは……」 まだ混乱している頭をトーマは必死に整理する。 「俺……今ものすごく自分の都合のいいように解釈してるんだけど……。お前が俺を好きだっていうことか?」 「……はい。そう言っているじゃないですか」 「友人じゃなく? 兄でもなく?」 「はい」 なんだか信じられない。 「俺は聖人君子じゃないから……。抱きしめたいし、口づけもしたい。お前がトラウマに思っているようなこともいずれは……な。その覚悟はあるのか?」 「……大尉が相手なら。ゆっくり……少しずつ進んでくださるなら……大丈夫だと思います」 セイラが小声で答えた。恥ずかしそうにうつむいている。その姿をかわいいと思いながらトーマは言った。 「本当に覚悟があるなら……俺が好きだというなら……。『大尉』じゃなくて名前で呼んでほしい」 セイラは顔を上げた。しばらくトーマをみつめてようやく口を開く。 「……トーマ……」 「もっと大きい声で」 「……トーマ!」 次の瞬間、トーマは力いっぱいセイラを抱きしめた。 「約束する。ずっとそばにいる」 額に唇を当てた。 「愛してる……」 あまりに長く抱きしめられ、セイラはトーマに言った。 「……あの、早く帰らなくてもいいのですか?」 「用事なんかない」 「大尉、嘘をついたんですか?」 「違うだろ、『大尉』じゃなくて」 「……トーマ、嘘はよくないです」 まだ呼び方に慣れずに戸惑うセイラが愛おしくて、ますますトーマは抱きしめる腕に力を込めた。 「苦しいです、トーマ」 そう言われても、なかなか解放する気にはなれなかった。トーマは久しぶりにグレイヴィル家の前まで彼女を送った。
次の日の朝、トーマは早々にルーファスにつかまった。 「昨日はどうだった? 意中の女性を射止めた気分はどうだ?」 「……ルーファス様も人が悪いですよ。あんな嘘をつくなんて」 トーマはルーファスに抗議した。 「嘘はついてないぞ。事実を言っただけだ」 「それにしたって……」 「惚れた女を譲ってやったんだ。あれくらい大目に見ろ」 そう言われると何も言えない。 確かにルーファスは事実を言っていた。パンタスから戻ったセイラに服を脱ぐよう命じたが、彼女は手が震えてなかなかできなかった。業を煮やしてルーファスがベッドに押し倒し、ドレスを脱がし始めた。彼女になぜ抵抗しないのか尋ねると、「ご命令ですから」と答えた。彼は虚しさのあまり「出ていけ」と叫んだのだ。その後酒を飲み、トーマを呼びつけた。翌日、セイラから至急話がしたいとの手紙を受け取った。もう何の話かわかっていたが、会う約束をした。やはり彼女は自分の気持ちに気付き、今までのような付き合いはできないと言った。解放してほしいなら昨日の続きをしろ、と脅したが、彼女は拒んだ。トーマに対して恥ずかしいことはできない、と。それなら昨日のことを既成事実としてトーマに話す、とさらに脅かしたら彼女は困ってしまった。その様子がおかしくて吹き出してしまい、脅したことを詫び、トーマに気持ちを伝えるよう諭したのだった。 (私がどれだけ引き裂かれるような思いをしているか、セイラはわからないだろうな) 気付いてはいた。自分の前よりもトーマと話している時のほうが彼女は生き生きしていることを。それでも認めたくなかった。時間をかければ同じように、いやそれ以上に自分を見てくれると信じた。しかし、無駄だった。彼女はトーマを選んだ。だが、それでいい。異性を意識することさえ避けていた彼女が、自分の意志で選んだのだ。トーマなら信頼できる。彼女が幸せなら相手が自分でなくてもかまわない。ルーファスはそう思っていた。 「しかし、これからが大変だぞ」 ルーファスはトーマを思いやった。 「そうですね。ルーファス様の思い人だったのに、セイラがどう見られるか……」 「それは私が何とかしてやる。私が言いたいのはグレイヴィル伯爵だ」 「叱責は覚悟してます。何せ俺は……強姦未遂犯ですから」 「それがなくても、嫌がらせを受けるぞ」 「は?」 伯爵は人格者だ。確かにトーマにセイラとの付き合いを禁じたが、それは明らかにトーマに落ち度があったからだ。セイラの成長と幸せを願っているし、そんな大人げないことをするとは思えない。 「私は王子だからあからさまには何もされなかったが……。デートの迎えに行った時も快く思っていなかった。いつもの表情と口調だが、殺気を感じるんだ。おそらく彼は娘の恋人を敵視する。それなりの覚悟はしておいたほうがいい」 そう聞いても、トーマは半信半疑だった。
廊下でセイラを見かけ、話しかけたら 「大尉、すみません。急ぎますので」 と冷たくかわされた。その後二度会った時も同様だった。昨日の告白は夢だったのか、と思うほど事務的だった。仕事が終わり、待ち合わせた控えの間から出て、ようやくセイラの表情が緩んだ。 「トーマのことは父に話しましたから。久しぶりに夕食を一緒にしたいとのことでした」 「ああ、そうだな……」 「どうしました?」 「いや、昼間会った時冷たかったから……」 「それは仕事中だったからです」 「そうだけど、前は仕事中でも笑顔だったじゃないか」 「そうですか? 気のせいですよ」 すましているが、微妙に顔が赤い。 「……もしかして、俺と顔を合わせるのが照れ臭かったとか?」 セイラは答えない。 「そうなんだろ? 正直に答えろよ」 「嫌です」 「顔が赤いぞ」 やはりセイラは答えない。 「そうか。じゃあ、今日はもう帰ろうかな」 「え、そんな……」 「なら正直に話せ」 追い詰められて、セイラが渋々白状した。 「……そうですよ。トーマの顔を見たら仕事に集中できなくなりそうで……。わざと『大尉』と呼んで線を引いたんです」 ――かわいい。トーマはセイラの頭をポンポンと叩いた。 「人間素直が一番だよな。そんなに俺のこと思ってくれてるんだ」 「……からかわないでください。恥ずかしい……」 ますます赤くなるセイラが初々しくて、トーマは彼女を抱きしめた。
「いらっしゃい、久しぶりだね。これから家族ぐるみの付き合いも再開しようか」 グレイヴィル伯爵は笑顔でトーマを迎えた。 (水に流してくださったのか?) そう思ったが、セイラが着替えのため自室に消えた後、伯爵はトーマにこう言った。 「セイラに好きな人ができたらしい、とハンナから聞いた時からどきどきしていたけれど、まさか君を連れてくるとはね……」 「すみません。でもセイラのほうから言われたので……」 「言っておくけれど、私はまだ君を許しても認めてもいないからね」 ――やはり。しかし、それは仕方ない。 「はい。これからの俺を見て判断していただければ、と思っています」 正直なトーマの気持ちだった。 「さすがにルーファス様をいびることはできないけれど、君なら大丈夫だからね」 「……は?」 「セイラに手出ししようなんて十年早い。私が認めた男でなければ、あの子を任せることはできない」 「……認めてもらえるよう、頑張ります」 「公私の別はきちんとつけてほしいな。それに、そう簡単に二人きりでいちゃつかせたりしない。あの子の前でおおっぴらにいじめることはしないが、私に断りなく気安く触れないように」 優しい口調と表情が逆に怖い。ルーファスの忠告がだんだんわかってきた。 「もし傷つけたり、泣かせたりしたらどうなるか……。肝に銘じておいてほしい」 「……わかりました」 人格者の伯爵は、娘を溺愛する父親でもあったのだ。 「セイラは遅いな」 「そうですね。いつもはすぐ降りてくるのに」 「ハンナが新しい服を用意したと言っていたが……」 そんなことを話していると、セイラがハンナに連れられて現れた。ワンピースを着ている。化粧もしていないし、髪も下しただけだが、彼女らしい爽やかさを感じさせる。 「ハンナさんが、せっかくトーマと食事をするからって無理やり……」 セイラは恥ずかしそうだったが、ハンナは自信たっぷりに言う。 「セイラ様はおきれいなんですから、もっとおしゃれをするべきです。トーマ様、いかがですか?」 「きれいだ……。よく似合ってる」 「変じゃないですか?」 「とんでもない」 夕食が始まっても、トーマはセイラをみつめていた。伯爵が咳払いする。 「トーマ君? 見惚れるのはわかるけれど、手が動いてないよ」 「すみません。あんまりかわいいので……」 「……そんなこと言わないでください。私まで食べづらくなります」 使用人たちは微笑ましく見守っている。 これがグレイヴィル家の新しい日常の光景になるまで、そう時間はかからなかった。
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