三か月経つとセイラも宮廷に溶け込み、彼女を奇異の目で見る人もほとんどいなくなった。大きな事件はなかったが、婦人にちょっかいを出していた男爵の腕をねじり上げたり、宮廷の警備体制の穴をみつけて改善案を提案したり、セイラは地道に実績と信頼を積み上げつつあった。 「すっかり慣れたようだな」 廊下でルーファス王子と会った。 「ルーファス様、お出かけですか?」 「ああ、少し街までな。市長と面会だ」 トーマの他に四人の供を従えている。 「お気を付けて。……あ、少しお待ちください。クラバットが曲がっていらっしゃいます。失礼いたします」 セイラがクラバットを解いて結び直す。 「こいつらはボタンが取れていても気が付かないぞ。女性だから細かいところまで気が利くのだろうか?」 「女性が皆そうかは存じませんが、母が父にしていたことを真似ただけです。……これで大丈夫です」 「ありがとう。街で恥をかかずに済んだ。――そうだ、いいことを思いついたぞ」 ルーファスは目を輝かせた。 「今度ルチアと食事会を開こう。お前たち側近も全員参加だ。無礼講にして、自由に語り合おう。普段顔を合わせていても知らないことが多いし、いい交流の機会になるだろう。どうだ?」 「素晴らしいお考えだと思います」 セイラは頷いた。 「ルチアには私から話そう。きっと賛成してくれるはずだ」 ルーファスは上機嫌で街に出かけた。
――ルーファス様がおかしい。ルチアとの昼食会が好評に終わってひと月ほど経った頃、トーマはルーファスの様子が気になっていた。公務の時間を勘違いしたり、報告を聞いてなかったり、心ここにあらず、といった感じなのだ。今までそこまで干渉したことはなかったのに、トーマの休憩時間や休日の様子を詳しく聞きたがる。しかし、自由の少ないルーファスのため、あえて理由を尋ねることはしなかった。 ある日、次の公務までルーファスの自室で控えていると、セイラが入ってきた。 「レッドフォード大尉がこちらだとうかがったので。資料を渡すよう頼まれて、持ってきました」 ルーファスが手に持っていた書類を落とした。 「大丈夫ですか、ルーファス様?」 「だ、大丈夫だ。急に来たから少し驚いただけだ」 「驚かせて申し訳ありません」 セイラが用事を済ませて退出しようとすると、ルーファスが呼び止めた。 「セイラ」 「何でしょうか?」 「いや、その……。最近ルチアはどうだ? わがままを言って困らせていないか?」 「大丈夫です。わがままといってもかわいらしいものですから」 「そうか」 「では、失礼いたします」 「もう戻るのか?」 「まだ何かご用でしょうか?」 不思議そうにセイラが尋ねる。 「別に、用というほどのことではないんだが……。つまり……だな、なんと言うか……」 顔を赤らめて言葉に詰まるルーファスに、トーマはやっと理解した。 (なるほど、そういうことか) 幼い頃から宮廷の女性たちを見てきたルーファスには、セイラのようなタイプは初めてに違いない。初めこそ毛嫌いしていたが、接してみれば素直で爽やかだし、天然でかわいらしい部分もあり、女性としての魅力もないことはない。 (伯爵にからかわれた時の顔なんか、いちころだろうな) セイラはルーファスの思いに気付いている様子はない。色恋沙汰には少々疎いようだ。最近彼女を好色な目で見る者が出てきている。そういう輩からもちゃんと彼女をガードしてやったほうがいいだろう。 (俺は保護者か?) 自分で考えてトーマは苦笑する。だが、それも悪くない。少々面倒が増えるが……。必死に言葉を探すルーファスと不思議そうなセイラを見ながら、トーマは二人を温かく見守ろうと決めた。
それから二か月ほど過ぎたある日。ルチアはセイラに頼みがあると切り出した。 「今度新しい大使を迎えての晩餐会があるでしょう?」 「はい。ルチア様もご出席とうかがっています」 「その時ね、セイラに女装して出席してほしいの」 「女装……ですか。もともと女ですけれど」 セイラは苦笑する。 「とにかく、ちゃんとドレスを着てほしいの。あなたの女性らしい格好を見てみたいわ。嫌かしら?」 「別にかまいません。ルチア様のご希望ですし。……頼みとはそれだけでしょうか?」 「今のところね。じゃあ、約束ね。そうそう、当日まで誰にも言わないで。楽しみにしてるわ」 ルチアがいたずらっぽく笑った本当の理由を、セイラはまだ知らなかった。
ルーファスが鼻歌を歌いながら書類に目を通している。 「ルーファス様、最近うれしそうですね。何かいいことでもあったのですか?」 トーマがルーファスに話しかけた。 「まあな」 ルーファスが照れたように答える。 「もうすぐ新大使のための晩餐会だろう?」 「はい。でも、楽しみになさるような催しは何もなかったと思いますが」 「その席で……私はセイラに自分の思いを伝えようと思う」 ――そう来たか。セイラ絡みのことだろうと察しはついていたが、王子という立場上、行動に出るのはなかなか難しいだろうと考えていた。 「私なりに真面目に考えたつもりだ。お前のことだから、とっくに私の思いに気付いていただろう?」 「はい、何となくは」 「こんなに心惹かれるとは思わなかった。宮廷のどの女とも違う。誰よりもきれいでまっすぐだ。お前から普段の話を聞くと、愛らしい表情が心に浮かんで恋しくなる。もう彼女のことしか考えられない。できれば妻にしたい」 そこまで思いが募っていたのかとトーマは驚いた。 「品格も教養も申し分ないし、父上もセイラのことを気に入っておられる。私の意思を尊重してくださるはずだ。ただ……セイラは私をどう思っているだろうか?」 「ルーファス様のお気持ちにはまだ気付いていないと思います。嫌ってはいないと思いますが、異性としては……見ていなさそうですね。結構鈍いというか、天然なところがありますから」 「トーマ、私に協力してくれるか? なんとか彼女に好意を持ってもらいたい」 真剣なルーファスの姿にトーマは苦笑する。 「気持ちを強制することはできませんが……。人の誠意を無視するような奴ではないと思います。誠実に気持ちを伝えれば、ちゃんと応えてくれるのでは? 最初からルーファス様と同じような気持ちを持つことは難しいとしても、時間をかければそれなりに」 「そう思うか?」 「はい。だからといって、責任は持ちかねますが」 「……とにかく晩餐会で気持ちを伝える。きっとトーマも驚くぞ」 「俺に打ち明けたのに、何に驚くのですか?」 「内緒だ」 ルーファスははにかんだ。 「念のため確認しておくが、まさかお前も、ということはないだろうな?」 「まさか。あいつは友人で妹のようなものですよ。どちらかというと弟に近いような……」 「ならばいい」 ――相当惚れ込んだな。トーマは今までにないルーファスの姿に少し感動を覚えた。
晩餐会当日。セイラがドレス姿で現れたことに人々は驚いた。きちんと化粧もし、髪も結い上げている。露出を抑えたデザインのドレスだったが、かえって彼女に似合っていた。普段の少年のような姿を見慣れているだけに、女らしい美しさは新鮮だった。誰もが彼女の姿に驚嘆し、魅了された。トーマも初めて見る彼女のドレス姿に目を見張り、先日のルーファスの言葉はこれだったのかと納得した。 「みんなあなたに見惚れているわよ」 ルチアが含み笑いをしながらセイラに語りかける。 「物珍しいだけでしょう。私はご命令に従っただけですから」 「珍しいだけじゃないわ。私から見ても本当にきれいだもの」 「ありがとうございます。ルチア様こそ、今日は新しいドレスですね。よくお似合いです」 やがて、ワルツの音楽が流れ始める。この機会にセイラと踊ってみたいと男たちが近づいたが、真っ先にセイラの前に進み出た者がいた。ルーファスだった。彼は恭しくセイラに手を差し伸べた。 「セイラ・グレイヴィル嬢、私と踊ってほしい」 「光栄です」 セイラは承諾し、ルーファスの手を取った。踊りながら、ルーファスはじっとセイラをみつめる。もともと美しいと思っていたが、こうして女性らしい装いをすると一際だ。しかし、見た目以上に――。曲が終わっても、ルーファスは手を放そうとしない。次の曲も一緒に踊り始める。 「ルーファス様、他の方とは踊られないのですか?」 ステップを踏みながらセイラが尋ねる。 「今夜はお前とだけ踊りたい。こんなにきれいだとは思わなかった」 「お上手ですね。そんなにこの格好が珍しいですか? 中身は変わりませんよ」 「その中身が美しいのだ、誰よりも」 「ルーファス様でもそのようなことをおっしゃるんですね」 セイラがくすくす笑う。 「ルチア様の気晴らしにお付き合いしているだけです。私の女装が見たいとおっしゃたので」 「頼んだのは私だ」 「え?」 「お前と踊りたくて私がルチアに頼んだ」 「どういうことですか?」 「そのままの意味だ」 「そのままって、あの……?」 困惑したままセイラはルーファスと踊った。曲が終わり、挨拶をして別れようとした時、不意にルーファスはセイラを抱きしめ口づけをした。見ていた者たちがざわめく。さすがにトーマも驚いた。 「私はセイラが好きだ」 「あの……。何のご冗談ですか?」 セイラはさらに戸惑った。 「冗談ではなく本気だ。ダンスだけでなく、人生においても私のパートナーになってくれないか?」 ルーファスの言葉に、セイラは目を丸くする。 「驚かせたことは謝る。だが、私は本当にお前に惹かれている。ここまで人を愛しいと思ったは初めてだ。まっすぐで素直で……。お前は心がきれいで、それが外見にも表れている。ぜひ私の隣にいてほしい」 「……申し訳ありませんが、お断りいたします。ルーファス様にはもっとふさわしい方がいらっしゃいます」 「お前以上にふさわしい者などいない。それ以前に、私がお前を望んでいるのだ」 「いいえ、いけません。ルーファス様は私をよくご存じではありません」 「確かに知らないことも多い。だが、これから知っていきたいと思う」 「申し訳ありません。私は敬愛以上の気持ちをルーファス様に持つことはできません」 「なぜすぐに結論を出す?」 「申し訳ありません。……失礼いたします」 セイラは広間を出て行った。
ルーファスに頼まれてセイラを追いかけたトーマは、中庭に彼女の姿をみつけた。 「どこに行ったかと思った」 「ご心配をおかけしてすみません。少し夜風に当たりたくて」 なんだかセイラが弱々しく頼りなく感じられる。 「さっきのことだけどさ……」 どう切り出したものか。すると彼女のほうがきりっとした表情で言い出した。 「ルーファス様は将来国王になられるお方です。戯れでもあのようなことは慎むべきです」 「戯れであんなことをされる方じゃない。いきなりで驚いたかもしれないが、ルーファス様のお気持ちは本物だ。真剣に考えてみてくれないか」 「でしたらなおさらです。ルーファス様が選ばれる女性は未来の王妃様ですから、もっと家柄も人柄もふさわしい方がいらっしゃるはずです」 「……もしかして、自分が養女だということを気にしてるのか?」 「それもあります」 セイラは表情を変えない。 「でも……。王室自体もずっと直系で続いてきたわけではないし、国王陛下もルーファス様も血筋に強いこだわりはないと思う。ルーファス様はお前の中身に惹かれたんだ」 「私を買い被っていらっしゃいます。私はそんなにいい子ではありません」 「いや、誰がみてもいい子だと思うが」 「大尉も私を誤解されています」 「誤解? 今まで付き合ってきて、それなりにお前のことはわかったつもりだけど。これでも人を見る目はあるつもりだ」 「いい部分しかみてないんですよ。本当の私は醜いんです。自分で嫌になるくらい」 「お前こそ、自分のことがわかってないんじゃないのか? お前を嫌う奴なんていないと思うぞ」 ルーファスとセイラ、どちらにも親しく接しているトーマは、それぞれの良さを間近で感じている。兄や妹のようで、それぞれ幸せになってほしいと思う。二人が惹かれあって結ばれるなら、自分にとっても喜びのはずだ。気持ちを押し付けることはできないが、一体セイラは何にこだわっているのか。 「誰か好きな奴がいるのか?」 「いいえ、いません」 「ルーファス様が嫌いなのか?」 「いいえ、尊敬しています。でも……」 「すぐ答えを出さなくてもいいから、せめて考えて差し上げてくれ」 「考えても結論は同じです」 グレイヴィル伯爵はセイラは心が未成熟だと言っていたが、それが何か関係しているのだろうか。なぜこうもかたくななのだろう。 「たとえ今はそこまで思ってなくても、ゆっくり育んでいく愛もあるだろう? お前が自分で欠点だと思っていることも、ルーファス様ならちゃんと受け止めてくださる。お前、深刻にとらえすぎているんじゃないのか?」 「そういうことではないんです。私は……どんな男性ともそのような関係を結ぶつもりはありません」 「誰とも、か? どうして?」 「怖いからです。大尉のように友人として接してくださるのは大丈夫なんですけど。――これを見てください」 セイラが後ろを向いてドレスの襟ぐりをずらし、左肩を露わにした。急に肌を見せられトーマは狼狽したが、すぐに紋章のような焼印に気付いた。 「それは……」 「父に引き取られる前、ある貴族につけられた烙印です。もう顔も覚えていませんが……。殴られたり、蹴られたり、鞭で打たれたり……。裸にされておぞましいこともされました。だから私は、男性にそういう対象として見られることが怖いんです。意識したくないんです」 ドレスを元に戻し、セイラが前を向く。 「それに私は汚いんです、体も心も。ひどいことをされても、普段はその貴族の前では笑ってみせたんです。少しでも機嫌を取るために。本当は憎くて仕方がないのに。他の子がだんな様に呼ばれると、自分じゃなかったことを喜んで。自分の身を守ることが第一で、人の不幸を喜んだり、本心を隠したり……。最低ですよ」 セイラの顔に自虐的な笑みが浮かんだ。 「結局折檻に耐え切れなくなって逃げ出して、父に拾われて……。両親には本当に感謝しています。実の子以上に愛情を注いでもらって。でも、しみついた癖はなかなか抜けないんです。本当の気持ちを隠して、誰にでもへらへらしているのが私です。皆さん、それをいいように解釈しているだけですよ。きれいだなんてとんでもない」 トーマは何と言ったらいいのかわからない。 「こんな話をしてすみません。大尉やルーファス様が誠実ですから、私も誠実に答えさせていただきました。――もう、広間に戻ってください。大尉に憧れているご令嬢方がお待ちですよ。私ももう少し涼んだら行きますから」 彼女はいつもの笑顔に戻っていた。トーマはしばらく立ち尽くしていたが、言われた通り広間に引き返すしかなかった。
「それはセイラの責任ではないではないか!」 ルーファスの声が部屋に響いた。言葉通りセイラは広間に戻ってきたが、すぐに屋敷に帰ってしまった。晩餐会が終わった後、ルーファスはトーマを自室に呼んだ。企てに加担したルチアも同席を申し出、ともに中庭でのやりとりの報告を聞いていた。 「悪いのはその貴族だ。セイラが恥じることはない」 「セイラがそんな目にあってたなんて……。いつも笑っているから……」 ルチアは涙ぐんでいる。 「俺も初めて聞いて、何も言えなくなって……。俺たちが思う以上に、心の傷が大きいのだと思います」 ルーファスは頷き、こう言った。 「ならば私がその傷を癒そう。もう傷つかずに済むよう、守ってやりたい」 「お兄様、ぜひそうしてあげて。セイラがかわいそうだわ。私も協力するから」 ルチアも賛同する。 「簡単ではないと思いますが……」 トーマが危惧する。 「そんなことは承知している。だがセイラにも幸せになる権利はある。それを私が与えられるなら、これほどうれしいことはない」
翌日、いつものように宮廷に現れたセイラに、ルーファスはこう宣言した。 「トーマから話は聞いた。お前は恥じるようなことは何もしていない。私がお前の傷を癒す。時間がかかっても、必ず本当の愛で包み込んでやる。絶対にあきらめない」 その言葉通り、ルーファスは時間をみつけてはセイラに会いに来て、話しかけたり遊びに誘ったりするようになった。セイラは誘いを全て断り、必要最低限の会話だけをして仕事に戻ろうとする。ほとんど根競べだった。トーマもハラハラしながら成り行きを見守っていた。 屋敷に帰っても、パウルとそのことを話す。 「セイラちゃんにはよかったかもな。あの子、無防備なところがあるから。ルーファス様の思い人なら、そう簡単に手を出す奴はいないだろう」 「まあな。兄貴みたいな奴らからは守られるな。でも、どうなるんだ? あいつはルーファス様から逃げ回ってばかりだし……。ルーファス様が気の毒だ」 トーマはどうしたものか、とため息をついた。ルーファスの味方と思われているのか、セイラはトーマまで避けている。 「お前はルーファス様の思いが通じないほうがいいんじゃないのか?」 「なんでだよ?」 「別に……。まあ、外野があれこれ言ってもどうしようもないんじゃないか。結局は本人たちの問題だからな」 「そうなんだけどさ。なんかもどかしいというか……」 トーマはセイラの態度を歯がゆく思った。 ルーファスはあきらめる気配がない。ある日、外国の有名な役者が街で公演すると知り、さっそくセイラを誘った。 「今度、一緒に芝居を観に行かないか?」 「それはご命令ですか? ご命令でしたら従いますが、心は無いものと思ってください」 顔は笑っていても、セイラの言葉は辛辣だった。 「命令ではない、お願いだ」 「でしたら、お断りします」 背を向けて立ち去ろうとするセイラに、ルーファスは叫んだ。 「いい加減にしてくれ!」 「ルーファス様こそ、いい加減にあきらめてはいかがです? 私はルーファス様が思い描いておられるような女ではありません。もっといい方がいらっしゃいますよ」 「あきらめられるくらいなら、最初から気持ちを伝えたりしない」 セイラはため息をついた。 「私のことをよくご存知でないのに……」 「お前は私がお前のことをよく知らないという。その通りだ。だが、何も教えてくれないままあきらめろというのか? 本当にあきらめるべき人間かどうか、知る機会も与えてくれないのか? それはフェアではない」 セイラはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。 「――正論ですね。わかりました。お付き合いします」 「……本当か?」 「はい。お芝居にご一緒させていただきます。いつでしょうか?」 ルーファスはまだ信じられない様子で、日時を伝えた。 「当日は迎えをやる。できれば女性らしく装ってほしい」 「わかりました。お芝居、楽しみにしています」 こうして、ルーファスとセイラの交際が始まった。
「本当にかわいらしい。知れば知るほど好きになる、そんな感じだ」 ルーファスは満面の笑みでトーマに報告してくる。少ない余暇を利用して、デートを楽しんでいるようだ。ルチアがセイラの勤務をルーファスに合わせるよう手配してくれている。昨日は五回目のデートだった。 「昨日なんか、急に抱きついてくるから驚いたぞ。どうしたのかと思ったら、クモがいたんだ。昔から苦手なのだそうだ。男顔負けの働きをするくせに、やはり女の子だな」 トーマはルーファスの話を聞きながら、どこか素直に喜べないものを感じていた。 「時間があれば遠出をしたいのだが。私が幼少時を過ごした別荘とか、セイラに見せてやりたい」 「ルーファス様、そろそろ会議のお時間です」 「最近つれないな。どうした? 自分のことのように喜んでくれていたではないか」 「公務をおろそかにされては困るだけです」 「別に気を抜いているつもりはないぞ。むしろ張りが出ているくらいだ」 「とにかく移動しましょう」 なぜ冷たい言い方になってしまうのか、トーマは自分でも理由がわからなかった。 セイラとは休憩時間に話す。ルーファスとの交際が始まってからは、互いの屋敷に遊びに行くことはなくなっていた。 「まだよくわからないんです、自分の気持ちが。ルーファス様は誠実で、とても優しくしてくださいます。でも私は……それに見合うように応えることができないんです」 悩むセイラに胸が締めつけられるものを感じながら、トーマは努めて平静を装う。 「焦らなくてもいいんじゃないか? 自分の気持ちに素直に従えばいいと思うぞ」 「そうでしょうか?」 ――そんな目で見ないでくれ。 「ああ、ルーファス様もわかってくださっている。ゆっくりでいいんだ」 「そうですか……」 ――だからそんな顔をするなって。トーマの心を察したのか、セイラはいつもの笑顔を取り戻した。 「大尉も大変ですね。ルーファス様には協力するよう頼まれ、私からは愚痴を聞かされて」 「話を聞くぐらいかまわないさ。人の心をどうこうすることはできないからな」 「大尉は本当に最高の友人です。こんな話、他の人にはできません」 ――友人? 確かにそうだが、何か引っかかる。しかし、それが何かはわからない。
次のデートは近くの湖だった。街やイベントよりも自然の中でゆっくりしたいというセイラの要望に沿ったらしい。 「白鳥を見て子どものようにはしゃいでいた。とても無邪気で愛らしかった。自然の中のほうが素が出るみたいだな。花を摘んで髪にさしてやったら、照れたように顔を赤くして……。あまりにかわいらしかったから、思わず口づけてしまった。でも、嫌がってはいなかったから進歩だな」 ルーファスの報告に、トーマは心が焼けつきそうになるのを感じた。そして、自分の中のもやもやしたものの正体を悟り、愕然とした。 (妹だと思っていたのに……) いつのまにか彼女の存在が大きくなっていた。しかし、どうすることもできない。彼女はルーファスの思い人であり、彼女もそれを受け入れつつある。今までのように、友人や兄として接する以外ないのだ。ルーファスとセイラ、双方の話を聞きながら、トーマは苦悩するようになった。
そんなある日、セイラが久しぶりにレッドフォード家を訪ねてきた。 「こんにちは。大尉はお部屋ですか?」 剣と手土産のワインを携えている。手合わせを願うつもりらしい。 「それが……」 「どうしたんですか、侯爵夫人?」 ため息をつく侯爵夫人にセイラが尋ねた。 「あの子、昨日から部屋に引きこもってお酒ばかり飲んでるのよ。最近休みの日はずっとこうなの。誰が何を言っても聞いてくれなくて」 「大尉らしくないですね。私も近頃元気がないようなので、これを差し入れようと思ったのですが……。やめたほうがいいですね」 「セイラさんからも注意してくれないかしら? あなたの言うことなら聞くかもしれないわ」 「そうですね。話してみます」 セイラはトーマの部屋に向かった。 「大尉、いらっしゃいますか? 入りますよ」 扉を開けると、部屋の中には空き瓶が散乱し、トーマが床に座り込んでグラスに酒を注いでいた。 「――何の用だ?」 「そんな飲み方はよくないですよ。侯爵夫人も皆さんも心配していらっしゃいます」 「余計なお世話だ」 グラスをあおり、また酒を注ぐ。 「いけません」 セイラは酒瓶を取り上げた。 「何をするんだ」 「大尉らしくないです。何かあったんですか?」 「お前には関係ない。返せ」 ――人の気も知らないで。無性に腹が立ち、セイラの手首をつかんだ。 「関係あります。友人じゃないですか」 「友人、ね。お前全然わかってない」 「わからないから理由を聞いてるんです」 ――お前が聞くな。手首をつかむ手に力が入る。 「すみません、痛いので放していただけますか」 言われて手を放した。跡が赤くついている。セイラは酒瓶をテーブルに置いた。 「私じゃお力になれないかもしれませんけど、何か悩みでもあるなら話してください。誰かに話すだけでも気が楽になりますよ」 ――本当に楽になりたいよ。この苦しい気持ちをどうしたら……。心配そうにみつめるセイラの瞳に吸い込まれそうになる。 「いつも話を聞いてもらうばかりなので、たまには大尉の話も聞かせてください。お付き合いしますよ」 優しい表情。まるで天使のようだ。その微笑みが今は自分だけに向けられている。これは現実だろうか。おもむろにトーマは立ち上がった。 「少し落ち着きましたか? ちゃんと椅子に座ってください。……大尉?」 うなじに手を回して唇を重ねた。そのままソファに倒れ込む。 「え? ……ちょ、ちょっと……」 「好きだ」 「は? 誰と間違えてるんですか? ……大尉!」 首筋に唇を這わせ、強く吸う。 「好きだ、セイラ」 「え……?」 セイラは一瞬頭が真っ白になったが、ブラウスの合わせ目から手が胸元に入ってくるのを感じ、慌てて平手と蹴りを喰らわせた。トーマが我に返る。 「……俺、今……」 ボタンが取れてブラウスが肌蹴、下着と胸のふくらみがのぞいている。セイラは無言でトーマをにらんでいたが、ブラウスを合わせて部屋を飛び出した。 (とんでもないことを……) すっかり酔いは醒めてしまった。もう酒を飲む気にもなれなかった。
「私はあの子の友達になってほしいとお願いしたけれど、手を出していいと言った覚えはないよ」 「……はい」 メイドのハンナが帰宅したセイラの首に赤い跡をみつけ、訳を聞いてグレイヴィル伯爵に報告したのだ。トーマは伯爵に呼び出された。 「まあ、気持ちはわからなくもないが。君に同情する部分もある。でも……君はあの子が昔どんな目にあったか知っていたのではないのかな?」 「……はい」 「それなのに、か。酔っていたとはいえ、最低な形で気持ちをぶつけてしまった。君を買い被っていた私にも責任があるが、今後付き合いは遠慮してほしいかな」 「……ごもっともです」 柔和な表情と口調だが、愛娘を傷つけた者への憤りがひしひしと伝わり、トーマは口ごもった。 「残念だけど、屋敷にももう来ないでほしい」 「……はい。あの、本人に一言、謝りたいのですが」 「あの子がいいと言えばね」 伯爵はハンナを呼び、セイラにことづてを頼んだ。しばらくすると、セイラが客間に入ってきた。顔が少し青ざめている。 「本当に悪かった。あんなこと、言うつもりも傷つけるつもりもなかったんだ。ずっと気持ちを抑えて消えるのを待つつもりだった。謝って済むことではないが、お前がいいように罰してくれ」 トーマは率直に謝罪した。セイラはじっとトーマをみつめていたが、静かに言った。 「何もなかったことにします。私も忘れますから、大尉も忘れてください。でも、仕事以外のことで会ったり話したりするのはご遠慮願います」 「……わかった」 トーマは了承し、グレイヴィル伯爵邸を辞した。 翌日、トーマは自らルーファスに自分の罪を告白した。ルーファスは激怒し、トーマを最低だと罵った。殴ろうとしたが、トーマが弁解も抵抗もしなかったため、拳を収めた。トーマは辞任を申し出たが、ルーファスは良しとしなかった。補佐を安心して任せられる者が他にいないのである。しかし、この二人の関係も仕事上だけのよそよそしいものに変わってしまった。
「どうせなら、最後までいってから正気に戻ればよかったのに」 事情を知ったパウルは、変なところで嘆く。 「できるか、そんなこと」 「セイラちゃん、うちに来なくなっちゃうんだろ? 母上も残念だろうな。誰かさんのおかげで……」 「悪いと思ってるよ」 念願の娘ができたと喜んでいただけに、母の悲しみは大きいだろう。 「僕だけでも交流続けてくれないかな」 「兄貴が一番避けるべき相手だろ」 「しかし、あの子も鈍いな。お前の顔を見れば一目瞭然なのに。まあ、お前も自分の気持ちを自覚するのが遅かったし、酒の力を借りなければ伝えることもできなかったからな」 「……弁解する気はない。もう酒もやめる」 せめて酒を飲んでいなければ、こんなことにはならなかったはずだ。 「お前が禁酒? できるのかよ」 「俺なりのけじめだ」 もう仕事以外での関わりは持たないと約束した。自分で蒔いた種だが、寂しくて仕方ない。酒に逃げたい思いもあるが、酒の怖さが今回ほど身に染みたことはない。仕事に没頭する決意をトーマは固めたのだった。
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