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作品名:THE PLACE 作者:光石七

第2回   第2章 新しい場所
 控えの間でトーマは時計をみつめていた。
(そろそろ来るだろう)
 セイラがルチアの護衛として宮廷に伺候するようになってから、ひと月が過ぎた。初日にトーマと顔を合わせた時、彼女はこう言った。
「先日はありがとうございました。私は宮廷のことも護衛のこともまだよくわからないので、いろいろ教えてください」
 なんて慇懃無礼な奴だ、とトーマは内心憤った。だが、彼女は本当にいろいろ尋ねてきたのである。
「護衛として最も重要な心構えは何でしょうか?」
「ルチア様に『誰にも内緒で外に出たい』と相談されたら、どうしたらいいでしょうか?」
「外出に同行する際、持っていく物は何ですか?」
 なるほどもっとも、という質問から些細な疑問に至るまで、真剣に聞いてくる。ドジを踏まれたら王族を危険にさらすことになるので、それなりにちゃんと答えてやる。セイラは納得するまで質問を繰り返す。最後は感謝の意を表すことを忘れない。
(裏表があるわけではなさそうだな)
 それに自分の話を熱心に聞いてくれるのは悪い気はしない。数日のうちにセイラに対する印象は変わっていった。質問が一段落すると、彼女は空いた時間に本を読み始めた。武具や戦術についての本だった。
「付け焼刃の知識でも、何かの時に役に立つかもしれませんから」
 さすがにそこまでは勉強してこなかったようだ。しかし、本を読む中で出てくる疑問を聞くと、知性の高さがうかがえた。
 二週間ほど経った頃、彼女は宮廷に忍び込んだ泥棒を捕まえるという手柄を立てた。宮廷に入れるのは選ばれた貴族とその従者、特別な招待客だけだが、従者に成りすまして紛れ込んだらしい。廊下ですれ違ったセイラが呼び止め、問い詰めて自供させた。逃げ出さないよう、いつの間にかこっそり銃を突きつけていた。居合わせた者は誰も彼女が泥棒と話しているとは思わず、衛兵を呼ぶよう言われて初めて気付いたのである。
「何か違和感を感じたんです。『災いの芽は早めに摘め』、『解決は穏便に』、とレッドフォード大尉から教わりましたが、これでよかったでしょうか?」
 どうやら、本気で職務を全うしようとしているようだ。まだ偏見を捨てきれない者もいたが、この事件で人々のセイラを見る目が変わり始めた。常に笑顔で謙虚、冷静沈着でやる時はやる。はねっかえりのルチアともうまくやっているようだ。ルチアは何かとセイラをそばに置きたがり、別れるのが大変らしい。トーマもセイラの真摯な姿勢に好感を持った。妙に品を作って女らしさを強調することもなく、下手な優男より凛々しいくらいだ。次第に打ち解けて話すようになった。
 先日、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「お前、なんで最初から男の格好をしてたんだ?」
「動きやすいからです」
 やはり笑って答える。
「もし護衛になれなかったら、どうするつもりだった?」
「さあ? コネでも色仕掛けでも何でも使って、採用されるつもりでしたから」
「……おい」
「冗談です。試験があるなんてあの場で初めて知ったんです。別の道なんて考えていませんでした」
「それでも腕に自信がなきゃ引き受けないだろ。向こうでグレイヴィル伯爵の仕事を手伝ってたとか? なんで引き受けたんだ?」
「仕事を手伝ったことはないです。剣も銃も子どもの頃から父に習っていて、それがお役に立つなら、と思って。それだけですよ」
「やっぱりお前は変わってるな。普通の令嬢じゃない」
「そうですね。田舎で育ちましたから、ずっと宮廷にいらっしゃる方からみれば、ずれているかもしれませんね」
「……そういう意味じゃない」
 しっかりしているようで、時々的外れなことを言う。
「お前、これからずっとその格好で通すつもりか?」
「勤務中はやはり機敏に動けたほうがいいので。それ以外は時と場合によりますね。でも、こういう服のほうが体が楽です」
「男の格好しか見たことがないから、女らしい格好をされると面食らいそうだな」
「男に生まれたほうがよかったかもしれませんね。ご令嬢方に囲まれると、惜しいことをしたと思います」
「それじゃ俺たちの立場がないだろ」
 弟か妹と話しているようで、トーマは楽しかった。セイラのほうも、年が近いのと立場が似ているのとでトーマとよく話す。休憩時間が合えば待ち合わせて会話を楽しむようになった。今日もトーマはセイラを待っているのだ。


 五分ほど待っているとセイラが控えの間に入ってきた。
「大尉、お待たせしました。これ、ありがとうございます」
 四日前に貸した戦術の解説書だった。
「別にゆっくりでよかったのに」
「借り物を汚すわけにはいきませんから。とてもわかりやすかったです」
「それはよかった。……お前、顔色悪いけど大丈夫か?」
 セイラの顔は青白かった。
「少し寝不足なだけですから大丈夫です。予定が変わってこれから出なくてはならないので、今日はこれで失礼します」
「無理するなよ」
 見送ったもののどうも気になり、トーマは廊下に出た。セイラがふらつきながら歩いている。
(本当に大丈夫か?)
 そのうち壁に手をついて立ち止まった。うつむいて上体が前のめりだ。声をかけようとした時、彼女は膝から崩れ落ちた。


 医師の診断は貧血だった。医務室のベッドでは、セイラが気を失ったままだ。王女のほうには早々に連絡を入れた。万一持病があれば、と近衛隊の執務室で勤務中のグレイヴィル伯爵のほうにも伝言を頼んだ。まだ時間があるし、彼女が目覚めるまでは責任を持とうとトーマは医務室に残った。
 そこへグレイヴィル伯爵がやってきた。
「セイラは?」
「まだ気を失っています。貧血だそうですが、持病などは大丈夫ですか?」
「特にないよ」
 伯爵はベッドの傍らに腰掛け、セイラの顔をみつめた。
「こちらに来てずっと気を張っていたから、疲れが出たんだろう」
 愛おしそうに、優しく髪を撫でる。温厚な父親の顔だ。
「君が運んで連絡をくれたんだね。ありがとう、レッドフォード大尉」
 父の敵に礼を言われ、トーマは照れ臭かった。
「あの……。なんでこいつ……セイラさんはこんなに一生懸命なんですか?」
 トーマの問いに伯爵が微笑む。
「いえ、一生懸命なのはいいんですけど。非常時でもないし、何も倒れるまで頑張らなくても、と思ったので」
「それはね……。多分、自分の居場所を作ろうとしてるんだろうな」
 伯爵は静かに答えた。そして少し間をおいて、呟くように語りだした。
「君も知っての通り、私とこの子は血がつながっていない。十年前、森の中で倒れているのをみつけて引き取ったんだ。最初、この子はひどく怯えてた。体のいたるところに傷跡があってね……。虐待を受けていたんだな。でも接するうちに私たちに敵意がないことがわかって、少しずつ心を開いてくれた。だんだん笑顔をみせてくれるようになって、私と妻を『お父様』『お母様』と呼んでくれるようになって……。でも、この子は不安だったんだ」
 伯爵の表情が少し寂しげになった。
「引き取って半年くらい経った頃かな。突然この子が『剣を教えてほしい』と言い出した。私が留守の間、自分が妻を守るんだってね。子どもなりに考えたのだろう、『ここにいてほしい』と言ってもらえる理由を。自分が必要とされている根拠がほしかったんだ。子どもに恵まれなかった私たち夫婦にとっては、娘になってくれただけで十分だったんだが。それでも、この子が気兼ねなく私たちのもとで暮らせるなら、と私は剣を教えることにした。剣だけでなく、教養やマナー、乗馬や狩りの仕方まで、いろんなことを夫婦で教えた。呑み込みが早かったし努力もしたから、上達はめざましかったよ。学ぶこと自体が面白かったのか、不安な顔を見せることはほとんどなくなった。私たちには出来過ぎなくらい、いい子に育ってくれた」
 ――こういう生い立ちがこいつを文武両道にしたのか。
「ところが、妻が亡くなった後、またこの子は不安な表情をするようになったんだ。拠り所の妻がいなくなったんだからね。年頃からいっても、生きる意味が揺らいでいたんだと思う。そんな時にルチア様に出会って、護衛の話を頂いたんだ。王女を守るというのは、今まで考えたことがない大きな役割だ。自分を必要としてくれる場所を探していたこの子が飛びつくのは無理もない」
「そういうことだったんですか……」
 笑顔の裏に隠されたセイラの本当の心を垣間見たような気がして、トーマは複雑な気持ちになった。
「でも、女なんだし、こんな危険が伴う仕事でなくてもよかったんじゃないですか? 結婚して家庭に入るとか……。伯爵令嬢でこの容姿だったら、相手はいくらでもいそうな気がします」
「君は本当にいい人だね。セイラが話していた通りだ」
 柔和な笑顔で伯爵が言う。
「そういう話がまったく無かったわけではないんだが、妻の容体が悪くてそこまで気が回らなくてね。それにセイラ自身がまだそういうつもりがない。私が勧めたら従うだろうけれど、気持ちが伴わないのではかわいそうだからね」
「それはそうですけど」
「結婚を考えるにはまだ越えるべき壁があるし、少し幼いところもあるかな」
「幼い? どちらかというと大人びているような気がしますが」
 トーマは不思議に思った。
「幼い、というと語弊があるかな。なんというか……。私たちはいろんなことをこの子に教えたけれど、教えてあげられなかったこともあるんだ。友情とか、人を愛するとはどういうことなのか、とか」
 ますますわからない。人づきあいが苦手なようには見えない。そんなトーマの思いを察したかのように、伯爵は続ける。
「一見、いつもにこにこして人当たりがよく、誰とでも仲良くなれそうだろう? でも違うんだ。必ずどこかで線を引いてる。本人は無意識なんだろうけどね。人と距離を置いてつきあう癖がついてしまっている。この子は今まで誰とも本気でけんかをしたことがないし、腹を割って話せる友人もいない。心が未成熟とでもいうのかな。そういう状態で結婚させてもうまくいかないだろう」
 子どもの気持ちなど構わず家のためだけの縁組をする親も多い中で、人格者の伯爵らしい考え方だった。トーマは感嘆したが、ふと我に返った。
「ここまで聞いておいて何なんですけれど……。俺にそんな話をしていいんですか?」
「なんだか君は話しやすくてね。セイラもそれは感じているみたいだが。確かに初対面の人に話すようなことじゃなかったな」
「人に話したり、触れ回ったりはしませんが」
 それはありがたい、と伯爵は頷いた。そしてトーマをみつめてこう尋ねた。
「君はセイラをどう思う?」
「どう、と言われても……。まだ知り合って間もないですから。強いて言うなら、信頼できる仕事仲間、弟分、といったところでしょうか。……すみません、妹分ですね。失礼しました」
 伯爵はトーマの失礼を気にする素振りはなく、
「君を信頼して、ひとつお願いをしてもいいかい?」
と切り出した。
「何でしょうか?」
「よかったらセイラの友達になってやってくれないか。特別なことはしなくてもいい。今までのように、兄みたいに接してくれれば」
「友達……ですか。まあ、いいですけど……」
「難しく考えなくていい。ただの寂しがり屋の女の子だから」
 その時、セイラが目を開けた。
「……お父様?」
「気が付いたかい? 貧血で倒れたんだよ。ここは医務室だ」
「今何時ですか? 予定が……」
 起き上がろうとして力が入らず、再びベッドに沈み込む。
「慌てないで。ルチア様には伝えてあるよ。レッドフォード大尉がここまで運んでくれて、私にも連絡をくれたんだ」
「ありがとうございます」
「ルチア様が、お大事に、とのことだった。今日はもう帰っていいそうだ」
「そうですか……」
 セイラが大きく息を吐く。
「なんだか情けないですね」
「疲れてたんだろう。落ち着いたら屋敷に帰りなさい」
「はい。――大尉は戻らなくて大丈夫ですか?」
「まだもう少し時間がある。人のことより自分の心配をしろよ。健康管理もできないようじゃ、護衛は務まらないぞ」
「……おっしゃる通りですね」
 トーマとセイラのやりとりを伯爵は微笑ましくみつめた。
 医師の助手が薬を持ってきた。
「貧血に効きますのでどうぞ。よく煎じてください」
「ありがとうございます」
 セイラはゆっくり上体を起こして薬を受け取った。臭いに思わず顔をしかめる。
「……薬は苦手です」
 助手が立ち去ってからセイラがため息とともに呟く。
「意外だな。苦手なものなんてなさそうなのに」
「ちゃんと飲むようになっただけでも進歩だよ。昔は絶対飲まないって言い張って、屋敷中逃げ回っていたからね。やっとつかまえても口を固く結んだままで、飲ませるのに一苦労だった」
 その光景が目に浮かぶようで、トーマは苦笑した。
「そんな子どもの頃の話をしなくてもいいじゃないですか」
 セイラが伯爵をにらむ。
「私は娘の成長を喜んでいるだけだよ。他意はない」
「いいえ、いじめてます」
「かわいい娘をいじめるわけないだろう?」
「いじめて楽しんでるじゃないですか」
「顔色がよくなったね。結構なことだ」
「話をそらさないでください」
 余裕たっぷりの父と、懸命に食い下がる娘。仲の良さが伝わり、なんとも微笑ましい。
「これは薬以外にも弱点がありそうだな」
 トーマが口を挟んだ。
「おや、わかるかい? 結構いろいろね……」
「お父様、仕事は大丈夫なんですか? 早く戻らないと」
 慌ててセイラが伯爵の言葉を遮る。
「後のことは任せてきたからゆっくりでいいんだ。レッドフォード大尉ともう少し話そうかな」
「大尉も仕事があります。大尉、もう戻ってください」
「何をむきになってるんだ? 俺もあと五分くらいは大丈夫だから、伯爵と話したい」
 伯爵に便乗して、トーマもセイラをからかい始めた。
「職務の遂行が第一じゃないですか。それでも軍人ですか?」
「軍人にも息抜きは必要だよ。大尉もそう思うだろう?」
「その通りですね」
「――とにかく、早く持ち場に行ってください! 私ももう帰ります!」
 真っ赤になっているセイラを見て、伯爵もトーマも笑い出した。
「……笑うなんてひどいです」
「はいはい、わかったよ。私も大尉も仕事に戻るとしよう。屋敷でゆっくり休みなさい」


 医務室を後にして、トーマはこみ上げる笑いをかみ殺していた。
(あいつ、あんな顔もするんだな)
 ただの寂しがり屋の女の子、か。伯爵に頼まれたように友情を育むのも面白いかもしれない。男同士とはまた違った発見がありそうだ。
(さて、いい加減切り替えなきゃな)
 今日の予定を頭の中で確認して、ルーファスのもとへ向かった。


 翌朝、トーマの姿をみつけたセイラが駆け寄ってきた。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「もう大丈夫なのか?」
「はい、おかげさまで。みっともないところをお見せしました。ところで大尉、今日の夜は空いていますか?」
「特に予定はないが……。何か相談でも?」
「よかったら、我が家にいらっしゃいませんか? 昨日のお礼に夕食をごちそうします」
 初めての誘いにトーマは少々戸惑った。
「伯爵もいらっしゃるのか?」
「はい。父が大尉を招待したいと言ったんです。秘蔵のワインもありますよ」
 ワインに心が動かされる。
「じゃあ、ごちそうになろうかな。お前も結構いける口か?」
「少しだけです。私は味の違いがよくわからなくて。実は今日のご招待は、父がワインを開ける口実なんですよ」
 それだけではないだろう。グレイヴィル伯爵の意図が漠然とながら感じられる。昨日の今日だ。友達を持たない娘のために、というのもあるのではないか。
「それじゃ、仕事が終わったら控えの間で待ち合わせるか」
「そうですね。では、後で」
 二人はそれぞれの持ち場に向かった。


 グレイヴィル伯爵邸は、華々しい名声とは対照的に質素な佇まいだった。
「お帰りなさいませ、セイラ様」
 執事が出迎える。
「レッドフォード大尉をお連れしました」
「うかがっております。いらっしゃいませ、トーマ・レッドフォード様」
「クロードさん、お父様は?」
「まだお帰りではありません」
「仕事が長引いたのかもしれませんね。クロードさん、大尉を食堂に案内してもらえますか? 着替えてきますので」
「かしこまりました。トーマ様、こちらへどうぞ」
 セイラは階段を上り、トーマは執事のクロードに連れられて歩き出した。
(屋敷でも言葉遣いや態度は変わらないんだな)
 やがてセイラも食堂に降りてきた。ラフな男装だ。グレイヴィル伯爵も帰宅し、晩餐が始まった。手の空いた使用人も同じテーブルの席に着いた。
「家族のようなものだし、人数が多いほうが楽しいからね」
 伯爵はこともなげに言ったが、レッドフォード侯爵邸ではありえない光景だ。子どもの頃から散々敵対心を植え付けられてきたが、昨日といい今日といい、伯爵の器の大きさに感服するばかりのトーマだった。
 ワインも食事もおいしく、会話も弾んだ。伯爵が語ったセイラの子どもの頃のエピソードは再び彼女を赤面させ、トーマは伯爵と大いに笑った。トーマはルーファスとの出会いや伯爵不在中の近衛隊の様子などを話し、伯爵親子は興味深げに聞いていた。人数は少ないが温かい空気が流れるこの屋敷を、トーマは気に入った。


 数日後、今度はトーマがセイラを屋敷に招くことにした。母は喜んだが、問題は父だった。グレイヴィル伯爵の娘をどう思うか。トーマが剣で負けたことを恥だとも思っている。仕事での付き合いもあるだろうから、と渋々承諾したものの、冷たくあしらわないか。
 ところが当日、思いがけない事態が起こった。
「セイラ・グレイヴィルです。大尉にはいつもお世話になっています」
「こちらこそ、トーマが世話になっている。今日はゆっくりしていきたまえ」
 固い表情でレッドフォード侯爵はセイラを迎えた。客間に通され、セイラは飾られた絵に目を止めた。
(絶対趣味を疑われる……)
 品の良いグレイヴィル邸の調度品を思い出し、トーマはため息をついた。レッドフォード侯爵が入れ込んでいる画家の作品だったが、子どもの落書きと変わらない。ただ丸と線がいくつも交差しているだけだ。この画家は、色違いの斑点を並べただけとか、四角だけで描いた人の顔とか、そんな絵ばかりを遺していた。「これこそ本当の芸術だ」と侯爵は言うが、屋敷で共感する者はいなかった。
「これは……」
「何の絵か全然わからないだろ? 父の趣味なんだ」
「すごいです、ベシャールの『豊穣』じゃないですか」
「は?」
「侯爵、この絵はどうやって手に入れたのですか?」
「ほう、この絵を知っているのか」
 侯爵が驚く。
「はい、レプリカをみたことがあります。ベシャール画伯の傑作の一つじゃないですか。本物ですよね?」
「もちろん。『春光』とどちらにするか迷ったんだが」
「あれも素敵な絵ですね。青と黄色のコントラストが鮮やかで。『黎明』もいいですね」
「『黎明』か。確かに素晴らしいが、わしは『栄華』のほうが好みだな」
 周りの者は全く理解できない。二人はすっかり意気投合したのだった。
 食事の席でも、侯爵は機嫌がよかった。
「ベシャールの魅力がわかる者がいるとは思わなかった」
「彼の功績が見直されたのはここ十年ほどのことですから。私も良さがわかるようになったのはつい最近です。父の影響で」
「グレイヴィル伯爵もベシャールが好きなのか?」
「はい、購入はしませんが。時間ができたら、ベシャールの後継者のアトリエを訪ねてみたい、と言っています。ご一緒に行かれてはいかがですか? 私より詳しいですし、きっとお話が合いますよ」
「そうだな。一度伯爵と話してみよう」
 芸術には長年の恨みも乗り越えさせる力があるようだ。
「よかったら、今度買い物にお付き合いいただけないかしら?」
 こう語るのは侯爵夫人。
「若い人の目で贈り物を選んでほしいの。うちは男の子ばかりでしょう? それに、私はかわいい娘と街を散歩するのが夢だったのよ」
「ぜひお供させてください。私も母と外出するのがいつも楽しみだったんです。その母ももういませんし。侯爵夫人が娘だと思ってくださるなんてうれしいです」
「あら、私がお母様の代わりになってもいいかしら?」
「はい、喜んで」
 トーマの兄パウルもセイラに興味を持っていた。もっとも彼の場合、相手が女性なら必ず関心を持つのだが。
「近くで見てもきれいな顔だよね。トーマが羨ましいよ、毎日のようにこんな美人と話してさ」
「お上手ですね。皆さんにそう言っているのですか?」
「僕は本当のことしか言わないよ。ねえ、香水とか興味ある? いい店知ってるんだけど、案内しようか? 街のことも詳しく知りたいだろう?」
「兄貴、変なちょっかい出すなよ。こいつは純粋なんだ」
 パウルの手の早さをトーマは知っている。事前にセイラにも注意するよう伝えていた。
「嫌だなあ、下心なんかないよ。こっちに馴染む手伝いを申し出てるだけさ」
「そうですね、都合が合えばお願いします」
 セイラはにこにこして答える。その笑顔に不安を感じ、トーマが釘をさす。
「本当にこの男には気を付けろよ。絶対二人きりになるな」
「失礼だな、その辺の不埒な男と一緒にしないでくれ」
「兄貴が一番不埒だろ」
 セイラはやはり笑顔で兄弟のやりとりをみつめていた。
「仲が良くて羨ましいですね」
「違うって。兄貴の本性をちゃんと心得ておけよ」
 トーマは再度忠告した。それを無視してパウルはさらにセイラに話しかける。
「ねえ、名前で呼んでもいい? 階級で呼び合うのって好きじゃないんだよね」
「かまいません。私も『パウルさん』とお呼びしたらいいですか?」
「そうしてもらえるとうれしいな。よろしく、セイラちゃん」
 何はともあれ、レッドフォード侯爵家の人々はセイラを好意的に受け入れた。こうして、レッドフォード家とグレイヴィル家は親交を深めるようになったのだった。


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