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作品名:未来は過去を変えられる 作者:本条想子

最終回   1
      「未来は過去を変えられる」

                              本 条 想 子

 男は目を覚ました。清々しい目覚めであった。ベッドから起き上がると、窓のカーテンを思いっ切り開けた。それから、窓を開けて深呼吸をした。ここまでの事は、この男のいつもの癖のようで無意識のうちにする行動だ。次に取る行動を、はたと考えあぐねた。今、確かに目覚めたはずだが、男はよく見る夢の中のような気がしてならなかった。そして、窓を開けたと同時に入って来た騒音が気にかかって窓を閉じた。
 男は舞台に出演しているシーンを見ているようであった。役者ではないのだから当然ながら台詞や身振りが頭に入っていない。だが面白そうなので、夢なら夢らしく作り話でもいいから台詞を言おうとするが、やはり脚本家でもないので一向に台詞が思い浮かばない。いつもならこの場に自分がいるのがおかしいと気付いて、これが夢である事を知る。そんな事をしているうちに、夢から覚めるというのが、いつものパターンのような気がしていた。
 しかし、まだこれが夢であるという確証はつかめないでいる。男は清々しい目覚めをしたはずだったが、次第に苛立たしくなって行くのだった。今現在の自分が誰なのかも分からないからだ。そんな事が自分の身の上に起こっていること事態、現実の世界とは考えられないでいる。


 男は早く目覚めたくなっていた。
「もう一度、眠るしかない」
と思い、男はベッドへ潜り込んだ。しかし、窓の外は明るく眠れるものではない。男は、夢か現か分からない状態で起き上がり時計を見た。時計の針は12時を指していた。この状態が夢であれば午前零時なのかもしれない。だが、これが現実であれば正午という事かもしれない。男はベッドの上で上半身を起こし、頭を抱えてしまった。外の様子からして、今は昼間だ。
「これは、白昼夢か」
と男は言い、現実を探そうとまたもベッドから起き出した。そして、部屋の中をキョロキョロと見回した。部屋はワンルームでベッドから全てが見渡せる。男は、サイドボードの上の写真を見た。写真には若い男と女が写っている。男は鏡を見て、その写真の男が自分自身である事を知る。しかし、隣に写っている若い女が誰であるか皆目見当が付かない。
 今度は本棚のアルバムを出してめくり始めた。そうして、その写真の女が恋人か妻である事が想像された。それで、もう一度、部屋の中を見回したが自分以外の者が住んでいる様子がない事が分かった。その写真の女が自分の現在の妻ではない事は確かだ。また、写真が残っている以上は別れた妻ではない事が推測される。それにしても、まだ自分の存在がはっきりしない。

 次に、男は自分の正体が知りたくて、クローゼットの外に掛けてあった背広のポケットの中を調べた。中には、財布や名刺入れ、定期入れ、キーケースなどが入っていた。運転免許証は、財布の中に入っている。自分の顔写真で、氏名は木田政幸となっていた。名前に覚えはなかったが顔写真から自分自身に違いないと思うしかなかった。名刺にも木田政幸とあって、公認会計士となっている。 
 男は名前と職業が分かった。それで、政幸は会計の事や自動車の運転が分かるのか確かめたくなった。書類を取り出して読んでみた。すると、次第に頭脳が機械仕掛けのように少しずつ動き出すのを感じた。そして、仕事の内容も思い出していた。事務所の名前や場所、そして担当先までも思い出していた。

 政幸は外へ出たくなって、クローゼットから私服を取り出してパジャマから着替えた。車のキーが入っているキーケースを持って玄関に立って、落ちている部屋の鍵を何気なく拾った。部屋を出てからは、何も考えずとも足が駐車場へと向かった。そうして、引き込まれるように車へ近付いた。持っていたキーで、疑心暗鬼ながら車のドアを開けた。運転できるか不安ながら、座席に座った。その瞬間、考えもしなかったのにひとりでに手足が動き、運転の方法が思い出され、ほっと一息ついた。そして、ゆっくりと車を発進させた。

 車の専門家に言わせると、運転しながらの考えは適当に運転の注意をしながらするので、考えが深刻になり過ぎないということだ。政幸はドライブをしながら考えていた。この状態が夢でないならば、記憶を喪失しているに違いないと思った。記憶喪失が真実ならば、もうすでに記憶は戻ったのだろうと考えた。
 政幸は幼い頃から辿ってみた。頭の中には幼馴染みの名前や思い出が浮かび上がって来ていた。しかし、どうもある部分の記憶だけが欠落しているようだった。それは、先ほど見た女の事だけが思い浮かばないからだ。何故か今日の日付から考えてみても、昨日までの記憶が網羅された形で甦って来ているにもかかわらず、女の思い出が欠落している。もうここまで分かれば、今後の生活に何も支障はないと、不安な気持ちも薄れて、苛立たしさも消え去っていた。それからは、冷静さを取り戻して、残りの記憶の回復に努めようと思うのだった。


 記憶回復のドライブは終わった。後の事は、部屋に戻るまで考えない事にしょうと運転に専念した。それは、この部分の記憶回復が難解のような気がしてならなかったからだ。仮にも現在の恋人を忘れるなんて只事でないと思ったからだった。部屋には先程まで見逃していた手掛かりが必ずあると思った。そんな事を考えると次第に楽しくなった。帰りの車の中ではカーステレオを聞きながら、心が浮き浮きしてくるのが分かった。でも、それは良い結果が待っている事を想定していたからだ。

 政幸は部屋に戻った。もう一度、部屋の中を見回した。そこで、留守番電話に目が止まった。
「ピー、高沢です。上総商事さんからのお電話がありまして、月曜日の朝一番で来てほしいという事でした。所長も直行するようにとの事です」

「ピー、由利です。政幸さん、落ち込んでいるようですが、本当に申し訳ありませんでした。私は政幸さんのプライドを深く傷付けてしまったのでしょうか。私は政幸さんとは一生お付き合いをしたいのですが、悲しい事に男女の間に友達付き合いは成り立たないでしょうから、残念ですが諦めます。政幸さんも私の事を早く忘れてください。さようなら」 

 留守番電話は、まだ回っていた。しかし、政幸の耳には届いていなかった。これは明らかに恋人からの別れの電話であると悟った。多分、昨日どこかで酒を浴びるほど飲んで、帰る途中にでも頭を強打して記憶を一部なくしたのだろうと思った。この記憶喪失は幸いしているに違いないと思う事にした。
 
「ピー、おい斉藤だ。まだ、目覚めないのか。木田の気持ちも分からないでもないが、女の一人や二人に振られたぐらいで男がだらしないぞ。俺なんか、何人に振られていると思うんだ。所詮、女は一人では生きられないんだ。その分、男を選択せざるを得ないんじゃないの。俺たち男どもは女のお眼鏡にかなって選ばれるのさ。あんな女は資産家の息子にくれてやれ、木田には似合わないよ。それでも忘れられないなら、今度は選ぶ側に回ったらどうだ。今野物産の社長が木田を気に入っているの、知らないわけがないだろう。
 と言っても、木田の性格ではそれが出来ないんだよね。だから、昨日みたいに酔いつぶれるほど飲まないと忘れられないんだな。つくづく、木田の性格は不便に出来ていると思うよ。でも、そこがいいところだからね。
 昨日、部屋まで送って行って、帰りに鍵を掛けてポストへ入れたが、あるよな。じゃまた、元気な顔を見せてくれ」

 政幸は、玄関に鍵が落ちていた訳が、今わかった。そして、自分の性格が生真面目だった事に驚いた。記憶喪失になってからの性格が、変わってしまっているようだった。斉藤が冗談で言っていたことすら、何も悪い事をするとは思わなくなっている。以前の純真さは失われ、合理的な性格に変貌していた。
 


 政幸は、すっきり爽やかなに、直行から事務所へ戻って来た。 
「やあ」
「この間はすまなかった」
「元気を取り戻したようだな」
「ああ」
「心配したぞ。木田のことだから、もう立ち直れないかと思ったよ」
と、相変わらず冗談を言う斉藤だった。
「来週、またどうだ。今度は、いい酒にしょう」
と言った後、斉藤は出掛けて行った。

 政幸は由利の事が思い出せなかったが、仕事は何ら問題なくこなすことが出来る事を確認して、記憶喪失の事を周りに知られないですみそうと安堵していた。そこへ、以前から政幸に好意を持っていた高沢好江が、お茶を運んで来た。
「ありがとう」
と言って、高沢に微笑みかけた。今朝直行した会社で出たお茶は、プラスチック製のコップに入っていたので、湯吞茶碗のお茶は特別ありがたかった。しかし、高沢は別の意味に取ったのか、いやに嬉しそうなのが、木田は気にかかった。もしかして、斉藤が彼女にいらぬ事を吹聴したのかと疑った。
 木田は、好意を寄せてくれる高沢に甘えてみたくなった。そんな事を思う自分に政幸は、これが今の性格と知った。
「高沢さん、お昼食べに行きませんか」
と政幸はまた先程のような笑みを作って言った。
「ええ」
と、快く応じた。
  

 二人は和風レストランへ入った。
「私、今日落ち込んでいたんです」
「ええっ、何かあったの」
「昨夜、酔っ払いが私のアパートのドアを叩いたり、怒鳴ったり、大変だったんです」
「それは災難だったね」
「もう、恐怖でしたよ」
 高沢のアパートは、大家の住んでいるアパートとは別棟で建てられていた。下が駐車場で二階に二軒あり、階段は別々になっている。高沢は引っ越しをして来た時、隣へ菓子折りを持って挨拶に行ったが断られた経緯があった。高沢は、顔も知らない女が隣にいて、生活音だけが聞こえて来る部屋にいるのだった。事務所で、同僚に微笑みかけられたら、嬉しくなり勘違いもするというものだ。

 そんな高沢は、降って湧いた出来事に震え上がった。中年の男は、部屋の階段を駆け上がって来て、ドアを蹴破らんばかりに怒り狂ったのだった。高沢は、部屋の電気を消した。しかし、相手の言うことは正しかった。
「いることは分かっているんだ。出て来い」だった。
至極当然な気がしたが、電気を付けたり、反論する気には成れずに震えていた。男は、酔っているらしく、隣の部屋の階段へも駆け上がって行くが、また戻って来るということを繰り返していた。

 高沢は、男が諦める様子がないようなので、もう頼りは警察しかなかった。
「生まれて初めて、110番というものをしました」
「そこまで激しかったんだ」
「どうも、遺恨があるらしく、尋常じゃないんです」
「高沢さん、恨まれる事したんだ」
と、木田は言い、由利の伝言を思い出していた。
「人違いなんです。男性の名前を言っていましたから。いい迷惑ですよ」
「無事でよかったね」
「ええ」
と、ほっとしたように言った。
 

 高沢は後日、警察から事情を知らされた際、間違えられた男との関係を疑われて気分を害するのだった。ただ単に、恋人として見られたのなら、相手は人気演歌歌手でもあり、気分を害するというものでもなかったが、警察の聞き方はそうではなかった。人気歌手なら、一人や二人の愛人がいてもおかしくなく、高沢がその一人であっても何の不思議がないとでもいう口振りだったので、警察の失敬さに腹を立てる事になった。こうなったのは、その演歌歌手の事務所が近くにあり、その父親とのトラブルが原因らしかった。

 高沢は電気を消してパトカーが来るまでの時間が長かった事を思い出していた。
「野中の一軒家でもあるまいし、都会でも恐いですね。あれだけ男が騒いでも、誰も何もしてくれませんでした」
「都会といっても、むしろ離れ小島じゃないのかな。関わりたくないんだよ」
「そうなのかしら」
と言って、高沢は隣の人と同じような事をしてしまったのを思い出していた。
それは、見知らぬ男が引越しの挨拶だと言って、夜の八時を回っているのに訪ねて来られ、不信感で帰ってもらったことだ。大家に尋ねても、そのような男は引っ越しの挨拶に来ていなかった。男と女の別はあったが、隣の人からすれば、都会では見知らぬ男も高沢も同じなのかもしれない。隣の女は、鍵を掛けた後に、ドアノブを二、三十回はガチャガチャ回して確かめないと安心して出掛けられないような、用心深い性格のようだった。

「都会では、みんな孤独に打ち勝たなければならないのですね」
「結婚すればいいじゃない。愛する男性と子供がいる生活。幸せじゃないか」
「専業主婦と兼業主婦では、女性は違いがありますよね。男性は、仕事に熱中していればいいけど、女性はどちらかで、大きな違いが起こってきます」
「高沢さんはどちらがいいの」
「専業主婦は望み薄なので、家事を手伝ってくれる男性がいいと思っています」
「そうなんだ」
と政幸は言って、高沢もプラスチック派なのかとがっかりした。
「専業主婦でもそうですが、炊事や掃除、洗濯、育児、買い物などを金額に換算すると、時給千円で13時間を30日とし、39万円になりますね」
「それでは、僕は払えないです」
「だから、手伝ってくれる男性が理想です。でも、そうはいませんよね」
「頑張って、探してください」
と言って、昼食を終えた。

 政幸は、高沢の今までの印象と違っていた事に驚かされた。ただ大人しい女性という印象だったからだ。由利の印象も今は、どうだったのか思い出せない。やはり、結婚相手は斉藤の言うように、今野物産の社長令嬢がいいに決まっていると考えていた。記憶喪失後の木田には、結婚というものが愛の形とは考えられなくなっていた。



 あれから、一週間が過ぎた。政幸が仕事を終えて事務所を出たのは6時半過ぎだった。斉藤は7時半ぐらいになると言っていたが、木田はぶらぶらと待ち合わせの、初めてのスナックへ向かった。スナックには勿論、まだ斉藤は来ていない。客は何組もいるが、カウンター席には一人の男が座っているだけだった。その見知らぬ40代の男が親しげに声を掛けて来た。


「こちらへ来ませんか」
 政幸は斉藤もまだ来そうもないので、いい話し相手なると思い、誘いに乗った。
「どうも」
「お相手はまだですか」
「1時間ぐらいは、来ないでしょうね」
「独りで飲むのは、お好きですか」
「よく分かりません」
と言って、自分をはかりかねている。
「私は、独りでいろいろの場所へ行き、見知らぬ人と話すのが好きです」
「大勢の人と知り合いになるのですか」
「いいえ、その場限りです。旅行ではなく、心の旅ですかね」
「友人を作るのが怖いのですか」
「いいえ、友人は会社や近所、学生時代等いますよ。それはそれとして、その人達に話せない事やまた見知らぬ人も、知り合いには話せない事を聞かせてくれる事もあり、結構楽しいですよ」
「親しい友人ほど、話せない事ってありますね」
「それに、同じ話を何度も話したい事ってないですか。また、同じ興味で話すのもいいですが、複雑多岐にわたる興味があり、一つの趣味にとらわれないで、話が広がるというのがいいんです。私は、欲張りなんです」

 政幸は、この男に自分に起こった記憶喪失の話をしたくなった。
「実は私、この間、記憶喪失にかかり一部の記憶がまだ戻ってなく、性格も変わってしまっているようなんです」
「記憶喪失はよく聞きますが、性格が変わるというのは初めて聞きました」
「記憶が戻らないのは恋人で、失恋のようです。性格は生真面目と周りからみられていたようです。でも、生真面目とまでいかないまでも真面目だったと思います。今は、合理的な考えが支配しているようですね」

「性格を変えたいと思ったのですかね。失恋が辛いから」
「思ったとしても、性格はそう簡単に変わらないですよね」
「だから、記憶喪失の方法が使われたのでしょう」
「ええっ、誰が使ったのですか」
「あなたの未来がです」
「ええっ、過去、現在、未来のですか」

「未来は過去を変えられます。あなたという現在が生きやすいように、未来が変えたのでしょう。未来は現在の行動に影響を与えているのです。現在はなぜか未来で起きる事を知っています。
量子力学では、観測するまで素粒子の位置が定まっていないように、人間世界でも未来は不確定です」

「あなたは、物理学者なのですか」
「いいえ、物理が好きなだけです。たとえば、ここへ飲みに来る約束をしている間に、誘いがあった場合、あなたは約束をほごにしますか。誘った相手は返事を聞くまで、どちらになるかの選択を待つわけです。でも、あなたの未来は過去に影響を与えて断らすわけです」
「普通に考えても、約束を守るだけです」

「でも、いろいろな選択肢があるわけです。つまり、未来の約束相手や未来の誘惑相手または未来の忖度相手などです。あなたの未来は、約束相手を選択し、存在する選択肢を消し去り、現在の行動を取らせたのでしょう。量子力学は、未来が過去をコントロールできる可能性がある事を示しているのです」

 政幸の脳裏に、今野物産の社長令嬢がよぎった。
「何となく、分かりました。未来の自分の選択により、現在の自分の行動が決まるという事ですね。興味深いお話でした」
「私は、ここにはもう来ません。失礼しました」
「いいえ、ありがとうございました」
と言い、政幸は自分の身に起こっている事実の意味を探っていた。


 その後、斉藤が入って来て、テーブル席へ移動した。
「待たせたな」
「いや、連れがあったから」
「高沢さんを誘ったのか」
「いや違う、カウンター席の見知らぬ人だよ」
「彼女、木田に気があるだろう」
「いや、斉藤こそ彼女に気があるんじゃないのか。応援するよ」
「お昼に食事した時、大人しいと思っていたのが、しっかり者という印象に変わったな」
 
 政幸は公認会計士で、斉藤は税理士であった。高沢は税理士を目指し、あと1科目で税理士試験に合格する。斉藤は可愛いい気さくなタイプで、木田は美人の由利が好きになるぐらいイケメンで誠実なタイプとみられていた。結果は、資産家の御曹司に軍配が上がった。しかし、今野物産の社長御令嬢との逆玉が用意されていた。
 
 斉藤は、政幸に好江への恋心を悟られ、気恥ずかしかった。
「踏ん切りをつけたか」
「由利からの最後の留守電が入っていたよ。あっさりとしたものさ」
「そうか、忘れろよ」
と、斉藤が言った。
 正に何もなかったように、政幸の記憶の中から由利の事は消え去っていたのだ。政幸は、斉藤の言った言葉が可笑しかった。
「もう忘れたよ。酒を浴びるほど飲んで、彼女の記憶を全部洗い流したよ」
「それは良かった」
「心配してくれてありがとう」
「それにしても、木田がそんなに思い切りがいいとは思ってもいなかったな」
と言って、斉藤は疑心暗鬼ながら見守ることにした。



 政幸は、高沢好江に斉藤の気持ちを伝えて二人を取り持った。その後、政幸は今野知世と結婚して、事務所を辞め、今野物産の取締役常務になった。

 仕事が出来た政幸だが、知世の心を捉えきれないでいた。それもそのはず、知世は鹿島秀樹を忘れ切れないでいた。知世と秀樹の結婚は、今野社長の猛反対で実現しなかった。今野家は、一人娘に後継ぎが出来ないということが反対の理由だった。鹿島は子供の頃の病気が元で、子供ができない体だった。知世の心は、子供が授かったあと、事業へのめり込む政幸をよそに、秀樹へと戻って行った。

 
 政幸は斉藤に連絡を取った。斉藤は好江と結婚して、二人で元の同じ事務所に勤めている。
「幸せか」
「そうだな。彼女も税理士試験に合格したし、いずれは二人で独立するつもりだ」
「俺も会計事務所を開くつもりだ」
「多角経営か」
「離婚する。事務所の費用は、慰謝料で済む」
「奥さんに非があるのか」
「浮気だよ。結婚前からの交際だ」
「まさか、息子が浮気相手の子供って事か」
「それは違う」
「そんなの、分かるか」
「後継ぎを作れないから、結婚を反対されたらしい。俺が離婚すると言ったら、知世も両親も謝るだけで、引き止めはしなかった。出来るだけの事はするから、娘を許してほしいと懇願された。息子も2歳だし俺の事は思い出さないよ」
「そうか、離婚するか。まだ30歳だし、遣り直しがきくさ」
「結婚なんて懲り懲り、仕事に生きるよ」
「相手に息子を取られる事だし、簡単には心の整理が付かないだろう。仕事で心が紛らわせられるなら、それもいいかもしれない」
と、斉藤は言うしかなかった。政幸の人生は、由利との別れを契機に大きく変わってしまったと、斉藤は思った。


 
 仕事に掛けた15年が過ぎた。政幸の会計事務所は、拡大傾向にあった。そんな折、政幸の身に変化が起きようとしていた。仕事のついでに、体を休めるため出発を1日早めて、空港へ車で向かっていた。そんな時に、車にぶつかるように倒れ掛けた女がいた。政幸は急ブレーキを掛けて、車を止めた。その瞬間、エアバッグは作動せず、ハンドルで強か頭を打ったようだった。一方、倒れ掛けた女は気を失っているようだった。
「大丈夫ですか」
と、政幸は声を掛けた。
「はい、よろけただけです」
「救急車を呼びますか」
「いいえ、病院へ行きます」
と言ったまま、また女は気を失った。
 車で当てた訳ではない木田は、かかりつけ医にジャケットからスマホを出して連絡し、病院へ向かった。


 気を失った女は、藤城恭子といった。恭子は、この頃沈んでいる事が多かった。今までは、極力そうした姿を見せまいと心掛けていた。少なくとも、息子の前では明るく振る舞っていた。
 息子は大学を卒業して就職をし、これからという時であった。一人前になった息子から子離れしていないのは恭子の方だった。しかし、二か月前に一人息子を交通事故で亡くし、夫の藤城敏彰と二人切りになっていた。恭子は、浮気性の夫と心を通わす術をなくしていた。夫婦の間には会話も途絶えがちで、必要以外のことはほとんど話さないまでになっていた。

 恭子は、夫とは成し得なかった夫婦で育児をする夢をよく見ていた。夫婦仲が冷え切っている現実の夫とは違い、恭子の夢の中の夫は、顔は見えないが後ろ姿で肩が笑っていた。恭子は、優しい夫と可愛らしい息子と三人で、家事をしたり遊んだりしている夢を見ていた。夢の中の恭子は、いつも生き生きとしていた。

 息子を亡くして、恭子は傷心旅行へ出掛けて来た。また、敏彰との夫婦生活についても考えを整理したいと思っていた。敏彰には、実家へ里帰りすると言って出た当てのない旅であった。実家には、友達の家を回ってから行くと言ってある。
 朝が早いので恭子は、朝食も取らずに出て来ていた。駅へ向かう途中、低血圧で朝が弱い恭子は、貧血のためかめまいがして倒れたのだった。


 病院に着いて検査をしたが、身体には異常は認められなく、貧血の薬を処方された。

 政幸は一息ついて眠り続けている恭子を見守りながら、戻りつつある記憶の中を彷徨っている。一方、恭子も夢の中を彷徨っていた。


 恭子は子供の頃の夢を見ていた。恭子が小さい時、母は釜で炊いた御飯を御櫃へ移したあと、釜に残ったちょっと焦げた御飯に祖父の手作り味噌を付けておにぎりを作ってくれた。そのおにぎりを、風呂を薪で焚く間に風呂の蓋の上で食べるか、二階の窓から縁側の屋根の上に出て陽当たりが良く眺めのいい椅子に腰かけて食べるかしていた。それは、格別に美味しかった。そんな事を頭に浮かべながら歩き始めた。
 町外れへ来ると、養鶏場が見えて来た。その周りは、区画された畑が並んでいる。その中では、夫婦とみられる男女が畑仕事をしていた。その畑には、養鶏場から逃げ出した雄のひよこが、二、三羽とびまわっている。そのひよこを、夫婦について来た幼児がよちよち歩きで追い掛けている。ひよことはいえ、幼児には易々と捕まえることができない。転んでは起き、転んでは起きしながらも、仕舞いには泣き出してしまった。それを笑いながら眺めていた連れの女も見かねて、捕まえて竹籠へ入れてあげた。幼児は、嬉しそうに籠を覗いてはしゃいでいる。


 恭子は見知らぬ町を歩いている。バスの停留所にベンチがあるので、そこに腰を下ろした。周りは閑静な住宅街のようだ。腰掛けた所から見渡していると、一軒の家へ目が行った。小学生のような女の子が、太くて長い竹筒を風呂場から、穴の開いた流し場へ渡し、ポンプで水を汲んでいるのが窓越しに見えた。浴槽は、木で出来ている。浴槽は高いので、段が二段付いている。ポンプを漕ぐ女の子は、踏み台に上がり、数をかぞえながら竹筒から流れ出る水を見ていた。500まで数えると、風呂桶の水量を確かめつつ、水汲みをやめた。
 町の通りは、車があまり走らないばかりか、歩いている子供連れが熟年夫婦ばかりだ。この町並みは、百坪から二百坪の家がほとんどで、先程から見えている家にも広い庭がある。その庭では、父親らしき男が兎小屋と鶏小屋を掃除して、その糞をまいて畑を耕している。母親らしき女は、流し場へ畑で取った新鮮な野菜を運んでいた。

 今度は、広々とした公園が見えて来た。小さな子供達がお爺さんやお婆さんらしき人達と遊んでいる。でも、お爺さんやお婆さんと呼ぶにはまだ若い50歳前後の熟年だった。この地方では若者が出稼ぎに行って、老人が孫を育てているのかと思った。しかし、何人かの妊婦を見て、それが間違いであることに気付いた。妊婦がみな熟年で、若くはない。恭子は、熟年夫婦に奇跡的に生まれたものではなく、この町では一般的なのかと思った。
 恭子の足は、知らず知らずのうちに、公園の中へと向かっていた。ベンチに腰掛けて、一人一人を観察し始めた。親子は敷物に座って、お茶やお菓子やお弁当を美味しそう食べながらはしゃいでいる。また、大人も子供も混じって、野球やサッカー、相撲もやっている。恭子は、子供のころ遊んでいた、鬼ごっこや縄跳び、缶蹴り、石蹴り、馬乗り、助け鬼、S陣取りなどと次々とやっている光景に見惚れていた。
 ここは、若い人が働き、その後熟年に子育てをする世界だった。


 恭子は、夢の世界から現実の世界へと戻って来た。政幸は、恭子の目覚める声で物思いから我に返った。
「気が付かれましたか」
「あら、病院へ連れて来てくださったのですか」
「ずいぶん、お休みになっておられましたね」
「ずっと、看病してくださったのですね。お仕事の途中ではありませんか。もう大丈夫です」

 そこへ、院長が入ってきた。
「貧血によるめまいですね。身体にはどこも異常はありませんでした。あとは疲れているようなので、家へ帰って養生してください。貧血の薬を出しておきました」
「どうもありがとうございました」
と言って、院長を送り出した。


「私は藤城恭子と申します。この度は誠にご迷惑をお掛け致しました。申し訳ありませんでした」
「私は、木田政幸です。私の車の近くで倒れたので、ぶつかったと思い、急ブレーキを掛けてしまいました。藤城さんも驚かれたでしょう」
「あの瞬間は覚えているのですが。病院へ行くと言った後からは、今まで気を失っていたのですね。何と言っていいか、見ず知らずの私をここまでしてくださって」
「いいえ、車がありますから、お宅までお送りします」
「そこまでしていただいては」
「いいえ、あなたは私の恩人のようなものですから」
「ええっ」
「実のところ、私は記憶を一部なくしていたのです。そればかりか性格も変わってしまいました。それが、急ブレーキの際に頭をぶつけて元に戻ったようなのです。今は、清々しい気分です。私にお返しをさせてください」
「でも、朝早くに、どちらかへお出掛けではありませんでしたか」
「いいえ、休みを取るためだけの気ままな旅ですから、急ぎません」
「では、食事を御馳走させてください。私こそ、お礼をさせて頂きたいです」
「養生しなくてもいいのですか」
「家には当分帰りません。旅行先で養生します。そして、食事をしてから薬を飲みます」



 恭子は、不思議な夢の中で生きる希望をみつけていた。そして、政幸は失われた記憶を取り戻して、明るい光が差していた。

 政幸は、恭子が眠っている間中、考えていた。政幸の人生は、その時々の性格の変異によって大きく変化していた事を。由利との恋愛が上手く行かなかったのも、今考えると分かる気がしていた。あの頃、自分では優しい男だと信じていたが、由利にはそうは思えなかった事も。それは、男流の保護本能であって、女からは束縛以外の何物でもなかった事を。由利は、自分を認める政幸が好きだった。しかし、いざ結婚という段階になると男女の考えの食い違いが明らかになってきた。しかし、由利はそれを敢えて弁解はしなかった。
 知世との結婚においてもそうだった。二人の結婚は傍からみて、誰もが祝福しているものと思われた。しかし、知世にとっては、秀樹を忘れさせるだけの男ではなかった事を思い知らされた。

 そして、記憶が回復して性格も戻り、成長した政幸に未来が明るく微笑んでいるようだった。
「では、食事に行きましょうか」
「はい、よろしくお願いします」
と言って、会計を済まし、政幸の車へ乗り込んだ。


 二人はレストランへ向かい、和やかに語り合った。政幸は、見知らぬ男と会話した、あのスナックを思い出していた。そして、この出会いがこれっきりかもしれないと思いながらも、未来が過去へやって来たのかとも思えるのだった。
「私は、夫には裏切られ続けました。そんな中、息子を二か月前に亡くし、心の拠り所を求めて傷心旅行へ出掛ける所でした」
「そうでしたか」
「私は、夢を見ていました。それは、夫とは味わえなかった温かい家庭の夢でした。これから、旅へ出て、将来の事を考えたいと思います」

「どんな夢だったのですか」
「私は、男性に流され、自分を見失っていた人生でした。しかし、夢の中の人達は、若いうちに働き、老後に子育てをしていました。親子で家事をして、みんな一緒に楽しそうに遊んでいました」
「私は、失恋をして酔い潰れ、知らない間に記憶を失くしてしまいました。その時、性格が変わり、逆玉という結婚をした末に、不倫をされ子供を置いて離婚しました。それから15年、独身のまま仕事に明け暮れて、45歳になります。しかし、記憶が戻った今、考え直したいと思っています。私の心の奥底に、男中心で回る世の中の考えが根付いていた事を」
「私も45歳になりました」

「初めて会って、こんな事を言うのは可笑しいかも知れませんが、どうかもう一度旅先から戻って来られた時に、会えないでしょうか」
「こちらこそ。私も、目の前が明るくなったような気がします」
「では、私の電話番号とメール番号をお渡しします。こんな出会いですから、お気持ちが変わってしまったら、お捨てください」
と言って、政幸はメモを渡した。
「はい、重ね重ねのお気遣いありがとうございました」
と、恭子は礼を言った。


 恭子は旅行から戻って、敏彰に離婚を迫った。敏彰は、それをあっさり承諾した。その上に、20年の結婚生活の慰謝料として、1億円を渡すことを約束した。離婚に手間取りたくないという思いだったからだ。敏彰の愛人は今、妊娠7か月であり問題を大きくしたくなかったのだった。
 恭子は離婚して、藤城の家を出た。


 過去を思い出す。未来を予感する。浮かぶ、ひらめく、降りてくる、導かれる、啓示を受けるというのは、未来からの注意喚起なのか。過去と未来の相互作用で、フィードバックが繰り返されて、現在の行動がコントロールされているのか。過去は現在の逆方向の延長線上にあり、未来は信号を送っているのか。

 そんな政幸の人生は、これから新たに始まるのだった。



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