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作品名:遺伝子の記憶 作者:本条想子

最終回   1
          「遺伝子の記憶」

                                本 条 想 子

 昨日は、アルバイト先で腹を立てたため、今日の目覚めが悪かった。
 アルバイトは劇場の客室掛で、場内蛍と言われている。お客が遅れてくると、暗くなった場内でお客の先を行き、足元を照らしながら進む。この腰の後ろにライトを照らす様子が、蛍の光に似ているところから、この名が付いたという。
 この場内蛍の仕事は、いろはを逆に覚えなくてはならない。後ろから前へ進むので、逆から覚えていると簡単に目指す席へ辿り着くことができる。
 お客は日本人でも、いろはの順番を探すのが至難の技のようで、場内が明るくても探し回る場合がある。お客の中には、あいうえお順で探し回る人がいて、見つからずに私たち 客室係に尋ねて来る時がある。今時、いろは順もないとお客は言う。
客室係の仕事は、場外で切符切りのもぎりと呼ばれるものと、場内の案内や監視、そして 扉の開閉の仕事などがあった。
扉の開閉時間は、上演時間によって決まってくる。少々の時間のずれは、芝居の進行状況で把握できた。そして、役者自身も毎日の事で、そうそうばらばらな時間に終わるようなセリフ運びはしない。
 いつも、終演時間の十分前から扉を開ける準備をすれば間に合った。普通は二人ぐらいが場内に残り、終演時間になると扉ごとに、一人か二人が付いて、扉を開けてお客を送り出す手筈になっている。夜公演は人数が少ないが、終演のアナウンス前には、休憩の人たちや場外の人たちが駆け付けて、扉は電灯が点くと同時に開けられて、お客を送り出す態勢が整っていた。


 しかし、昨日は大きく違っていた。私が休憩を終えて、夜公演の場内に入ると芝居の進行が早いように感じた。場内を見渡しながら、芝居に注目するとセリフが早いことに驚く。そして、セリフが一部カットされている始末だ。
 芝居は爆笑時代喜劇だったため、少々の事はお客にもわからずに済んだだろう。しかし、時間が経つにつれ、大胆になっていった。
 セリフが早くなっているため、役者も戸惑い気味でセリフをつっかえている。それに苛立ってか、
「もういいよ」
と、笑いながら座長が言っていて、その役者のセリフを遮って幕に引っ込んで行ってしまった。ここまで、座長の要請なのか誰も逆らわないできた。

 しかし、お女郎さん役の女優が独りだけ抗議めいた言葉を発した。
「それは、ないですよ」
と、言うのが精一杯のようであった。この人は、女優というより抜群の歌唱力がありながら少女時代のデビュー曲がヒットしたきりの演歌歌手であった。

 しんみりした場面では、二大主演だったお姫様役の売れっ子女優が、普段通りにセリフを言っていた。流石に座長も気を使ってか、頼む事ができなかったのだろう。しかし、照明係には頼んでいたのかセリフの最後を言い終わる前に消えていた。そんなつけが、他の役者のセリフ回しに極端に現れているようだ。

 私は交代の人が来ると、すぐに主任の所へ走った。
「芝居の進行が早いのですが、どうしたのですか」
と、主任に尋ねた。

「座長が今夜、テレビに出演するらしい。だから、早く終わるようだよ」
と、平然と答えた。

「セリフが滅茶苦茶ですよ」
と、私はいきり立った。

「テレビの方が大事なんだろう。無理を承知で出演するのだから」

「役者というのは、ギャラではなくて、舞台を大切に考えていると聞いていましたから、残念で仕方ありません。それに、お客様に対しても申し訳ないと思わないのでしょうか」

「まぁ、そうそうある事じゃないだろうから、我慢してやりなさい」
と、冷静に言っている。


 その時、舞台劇好きのホームレスの名物小母さんが大きな紙袋を提げて、切符も買わずに入ってきた。
「小母さん、切符がなければ入っちゃ駄目だよ」
と、いつもの馴れ合いの言葉を主任が言った。

「いいからいいから、私の一人や二人が加わったって席は空いているでしょう」
と言って、平気でずかずかと入っていった。

「仕様がないなぁ」
と言ったものの、もう主任は諦めているようだった。

 場内へ入っていった小母さんは、少しして帰ってきた。
「この間見た時より、芝居が早いよ。早口なんだね。役者があんな芝居をしちゃいけないよ。お金を取って見せているんだから」
と、小母さんは苦言を呈した。そして、小母さんはブツブツ言いながら再び場内へ消えた。

「いつも切符を買わないで、よく言うよ」
と言って、主任は呆れ顔だった。


 この小母さんは、芝居好きで、中でも『劇中劇』にはまっているようだ。劇中劇は、劇の中でさらに別の劇が展開するもので、「入れ子構造」によってある種の演出効果を生む技法だった。「これ、劇中劇ある」とかよく聞いてくる。「ないですよ」と言っただけで、入らずに帰ることもあったほどだ。

「どのくらい早く終わるのでしょうか」

「10分か20分ぐらいだろう」
と、不確かな事を言った。

 しかし、結果は幕間の休憩時間も短くし、40分も前に終演した。終演のアナウンスは遅れるし、ライトが点くのは遅れるし、扉を開けるのは遅れるしで、お客の口々から不満が漏れて散々の結末だった。
 私は、役者魂なんてこんなものかと思いながら、家路を急ぐお客に対して、いつもより丁寧に見送った。ただ救われたのは、たった独りの女優でも、悪い事をしていると気付いてくれているという事だった。私は、もう一度あのデビュー曲のようにヒットを飛ばしてもらいたいと願わずにはいられなかった。



 次の日、大学もアルバイトも休みなので、ゆっくり寝ていた。だが、アパートに新聞の勧誘が来ていて、起されてしまった。いないふりをしてもいいのだが、何度も足を運ばれるのもいやなので、はっきり断ることにした。
 私の部屋のドアがノックされた。
「どちら様ですか」
と、ドア越しに私は尋ねた。

「新聞屋です」
「もう取っていますから、いいです」
「どちらの新聞ですか」
「日本経済新聞です」
「そうですか」
と言って、勧誘は帰って行った。日経は、景品で替えるような新聞でないらしく、しつこい勧誘でもすごすごと帰って行く、水戸黄門の印籠のような新聞であった。しかし、景品をもらったことがない新聞でもある。

 私が、遅い朝食を済ませて新聞を見ていると、今度はキリスト教の宣教師がアパートを回っている声に耳を奪われた。
 ドアをたたく音がする。奥のOLの部屋へ行ったらしい。
「どなた」
「キリストの教えを伝えています」
「興味ないです」
と、突っ慳貪に断った。
「そうですか」
と言って、そこを去ったようだ。つぎにノックしたドアは、先ほど新聞屋に散々悪態をつかれた同じ大学の上級生の部屋だ。中からは応答がない。居留守を決め込んでいるらしい。また、別な部屋のドアをノックした。

 いつもこのアパートはそうだが、一軒に勧誘や宗教関係者が来ると、他の部屋には筒抜けなので、誰も応答しなくなる。私は、宗教の宣教師には、いつも不思議な思いがして興味が持たれた。何故、そこまで信じられるのかと。
 

 今度は、私の部屋のドアをノックした。私は、昨日のアルバイトでの不快な気分をはらしたい思いもあって、話したい気になった。
「はい、どちら様ですか」
「少々、お時間をいただけないでしょうか。イエス・キリストの教えを伝えに参りました」
と、神妙に応えた。

 私はドアを開けた。宣教師がにこやかな顔で独り立っていた。
「こんにちは」
と、挨拶された。私は、朝か昼か迷いながら、声を伴わず頭を下げただけになっていた。私は、東京に出て来てから、朝昼晩の曖昧な挨拶に戸惑う事が多い。

「イエス様は、私たちの罪を全部お引き受けになって、十字架にかけられました。そして、三日目によみがえったのです。私たちは、イエス様の教えを守り、神の国へ召される事を信じています」
と、やわらかい口調で言った。

「キリスト教を信仰しないでも、良い行いをしてきた人たちはどうなるのですか」
と、質問した。

「救われません。ですから、私たちが布教に歩いているのです」
と、きっぱり強い口調で言った。

「キリストの教えは、道徳や倫理として受け入れられるのですが、唯一神としてのキリストは科学的には受入れ難いものがあります。何故、アダムとイブを信じたりできるのか不思議です」

「聖書を読めば、イエス様の教えが正しい事がわかります」

「私が聖書を読んでも、正しい事と作り事と分けて考えてしまうと思います」

「聖書には、嘘は書かれていません」

「私には、宗教の教えも、倫理や道徳や哲学と同一レベルでしか考えられません。それに、選択の自由がない教えは、強制でしかないと思います」
と言う私の思いには、宣教師は答える事ができずに帰っていった。

 私の言っている事は、至極当たり前の事なのだが、これを打ち破るものが宗教にはない。あるのは、宗教を受け入れたいと望む人の心だけなのだ。この世の中には、宗教や倫理や道徳や哲学が必要とされる。それだけ人間世界は、不条理が多いことになる。また、人間世界は、神秘的でもあるため、神仏の育つ土壌も備わっているとも言える。


 キリスト教の宣教師が帰ったあと、またドアをたたく音がした。
「はい、どちら様ですか」

「宏正会と言います」
と、応えた。

 私は、先ほどのキリスト教宣教師とアパートの庭で顔を合わせたと思うと、可笑しかった。いつも出会う知り合いで、にっこり笑ったのか、火花を散らしたのかと想像するのも面白い。 
 ドアを開けると、小冊子を持って二人が立っていた。

「こちらの本を読んでみて下さい」

「新しい宗教ですか」

「宗教とは違って、倫理にもと基づいて生きることを考える団体です」

「今度、集会がありますので、参加してみませんか」

「立正佼成会や創価学会と同じですか」

「いいえ、どちらも法華信仰をしていますが、宏正会は倫理に基づいた人格完成を目指した団体です」

「でも、この本からすると一個人の倫理観で、宗教と変わらないようですね」

「先生の教えは、立派です」

「宗教はどこも、そう言いますね。結局、個人崇拝になるんですよね。それに、仏教であっても宗教ではなく、仏陀の教えだと言っていますよね。

 私は倫理や道徳を一時も忘れないで、雁字搦めの生活をするということのできない人間です」
と、私は言った。ここまで言うと、倫理を説く者も言いようがなくなって、去っていった。


 私は、何と人格向上の熱意に満ちた人々が多いものかと、日本の現状を顧みながら不思議に思えた。
 今度は、隣の部屋のドアをたたく音がした。二、三人が訪ねて来たらしい。知り合いなのか、すぐに部屋へ招き入れた。
 隣とは薄壁一枚隔てただけなので、かなりはっきりと会話が聞こえてくる。隣にも宗教の嵐が吹いてきているようだ。知り合いらしい人が、学会のベテランの力を借りて、隣の部屋のOLに入会を勧めているという雰囲気だ。

 私は困ると神頼みをする。しかし、私は信仰心がない。一体全体、私は何に対してすがっているのかと考える事がある。それは、キリストでも釈迦でもアラーでもない。私の先祖なのか、そうなると神ではなく仏なのか、曖昧模糊とした状態だ。
 私の家では、ご飯が炊けると真っ先に仏壇へ供える習慣があった。また、食べ物の頂き物も必ず仏壇へ供えてからでないと食べられない。
 そんな習慣で、仏様に手を合わす事が自然に備わっている。また、母は仏壇の上にある神棚に対しても、毎日拝んでいた。だが、その事を知ったのは、私の兄が自動車事故に遭遇した後だった。
 母は、毎日の拝礼をその日は怠ったと言って悔やんでいた。それから、母は欠かさずに神棚へ手を合わしているという。しかし、それを聞いた私は、そんな習慣を付けないほうがいいと思うのだった。人間は、何かの事情で出来なくなる事が起こってくるものだと思う。私は、神仏への信仰を程ほどにしょうと考えるようになっていた。

 私は、神という事からすると、人間を越える超越的存在を認めていた。それは、運命を信じていたからかもしれない。運命にはどうしても逆らえないと思っていた。その運命の原動力が超越的存在ではないかと考えていたからだ。超越的存在の指標や杖に導かれる人生を想定していた。だが、未だにその存在を確定できていない。
 こんな事を考えさせられたのも、高校を卒業すると突然、何処からともなく吹いてくる宗教の嵐にさらされるからだった。この嵐は、私を避けて通っているようだったが、私の友人を巻き込んでいた。その間接的なところから、私にも宗教が触れてきたのだった。





 次の日、大学へ行くとキャンパスで私の前を行く香苗に出会った。何か悩んでいる様子でうつむき加減に歩いている。
「香苗、どうかした」

「うううん」
と言いつつ、涙ぐんでいた。

「本当にどうしたの」

「私、どうしたら良いか判らない」

「だから、何があったの」

「実は、近所の友人から突然に、創価学会に入っている事を告げられて、この事実を理解されないまま交際しても、今までの友人関係が何の意味もなさないって言うじゃない。そして、学会の本を三冊渡され、これを読んで信仰を理解してもらいたいって言われたの。
 私は、その本を読みたくないわ。読んでしまうと、心が動いてしまいそう。私は学会へ入りたくない。でも、友だちでいたい」

「確かに、香苗は影響されやすいから、その本を読むと感化されるかもね。でも、その友だちだって本心から絶交しょうとしているとは思わないけどね。ただ、自分の信仰を理解してもらいたいばかりに、そう言っただけだと思うよ。その本を読みたくなければ、そう言えばいいのよ」

「そうかしら」

「もし、本を読んで理解したとしたら、それは、香苗自身の根本理念が変えられてしまったから、理解できたと思うよ。それだけ、宗教というものは影響力があるんじゃないの。だから、学会へ少しでも入る考えがあるのなら本を読んでも構わないと思うけど。その意思がないのなら、やめた方が良いと思う。
 私の高校時代の友人も創価学会に入っていたのを、一切話さなかった。あれだけ人生について話していた二人だったのに。でも、私が入会しないことを知っていたからだと思うけど。この年代になって、宗教というものを対岸の火事のように見物していられなくなっているのね」

「そうね、勇気を持って友だちに話すわ。今まで友だちだったのだから、分かり合えるわね」
と言って、香苗は少し明るさを取り戻していた。

「それにしても、宗教というのは人間生活に深く入り込んでいるのね。人間が自分自身の存在を分かりかねているからなのかな」

「人って不思議な存在よね。そんな事が宗教につながるのかしら」
と言って、香苗は学会の友を思いやった。

「宗教学の後、何があるの」

「フランス語よ。美沙も来るわ。聖子は」

「哲学があるの。詩織と一緒だから、お昼は学食で待ち合わせよう」

「そうね。それにしても、聖子は好きね。一年の時にも社会学と心理学を受講していたわね」
と言って、呆れ顔をした。

「言われてみれば、そうかも」
と言って、私は苦笑した。確かに、私は考える事が好きだった。 


 宗教学の講義が始まった。教授は四聖の名を黒板に書いた。キリスト・釈迦・孔子・ソクラテスと。キリストはキリスト教を広め、釈迦は仏教を広めて宗教学として学ばれている。孔子は儒教を広めて倫理学として学ばれてきた。ソクラテスは哲学として学ばれている。

「四聖が説いたものは、宗教や倫理や哲学として、この世の中に残ったわけですが、その歴史の中の要求によって生まれてきたものでした。
 宗教にも様々なものがあります。主だった宗教を割合でみると、キリスト教が約20億人(33.0%)、イスラム教が約11億9千万人(19.8%)、ヒンドゥー教が約8億1千万人(13.4%)、仏教が約3億6千万人(5.9%)、ユダヤ教が約1400万人(0.2%)、その他の宗教が約9億1千万人(15.0%)、無宗教が約7億7千万人(12.7%)となっています。これは、ウィキペディアのフリー百科事典からの引用で2000年のデータです。
 世界的にはキリスト教が三分の一を占めています。しかし、日本においてキリスト教は、一割にも満たないものです。それは、日本の風土に合わないからでしょう。日本では昔から、人間が神になり得たのです。しかし、キリスト教では唯一神として、神の子キリストしか認めていないのです。

 キリスト教では人間を『罪』と捉え、仏教では人間を『苦』と捉えました。キリスト教では、その答えとして唯一神への信仰だったわけです。そして、仏教の答えは悟りがあるわけです。

 この唯一神ですが、ユダヤ教とキリスト教そしてイスラム教は同一と考えられます。それは、ユダヤ教の旧約聖書に出てくるヤハウェ、キリスト教の新約聖書に出てくるキリスト、イスラム教のコーランに出てくるアラーの神についてであります。つまり、これらの宗教にとっての聖典は、時代と場所の違いこそあれ、同一の神の同一の啓示の異なった形と考えられるのです。

 ユダヤ教は、創世記、出エジプト記、レビ記申命、詩篇、イザヤ書などからなる旧約聖書しか認めていません。

 キリスト教は、イエスの言行を福音書として弟子たちによって記録(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書としてある)され、これにパウロら弟子の書簡(『ローマ人への手紙』などがある)や宣教活動の模様を記録したものからなる新約聖書と旧約聖書を合わせて認めています。

 イスラム教は、コーランだけを認めています。しかし、コーランの中は旧約聖書や福音書などから取り入れた箇所が多くあります。しかし、イエスの復活は認めていません。そして、コーランでは神が人類に授けた啓示が全体で140とされ、これらの経典のうちで最も神聖なものはモーゼに下された五書、ダビデへの詩篇、イエスへの福音書とムハンマドへのコーランの四種と説いています。

 これらからも三宗教は、旧約聖書の唯一神から出発していると考えられます。

 この旧約聖書は、西暦紀元前1100年頃から紀元前150年頃までの約1000年という長い期間をかけて、改訂改編され続けたものです。そして、紀元後118年に最終的なユダヤ教聖典としてまとめられたわけです。
 この間、ユダヤの国民は敗戦の絶望の中で、実存的な信仰を反省し、徹底して神に帰る信仰運動を始めたのでした。その結果として、紀元前500年に、厳しくもおごそかな神信仰を持つ文書で旧約聖書の最初から書き換えられたのでした。

 たとえば、創世記六章から九章にノアの箱舟と大洪水の物語がありますが、これらは古代バビロニア地方で実際にユーフラテス川の大洪水があり、それが神話や伝説になって広まったものを、聖書物語の著者の思想的立場で全く違ったものに改編されたのです。
 紀元前500年に書き加えられたこの物語は、紀元前650年頃のアシュルバニパルエの宮殿の図書館跡から出土した粘土板にも書かれていました。その後、同じ内容のものが紀元前2000年のもので数種類発見されました。さらに、紀元前3000年の粘土板で、シュメール語で書かれたジゥスドラ物語の一部にも同様な物語があったのです。
 旧約聖書では、多神教の神々でなく唯一神ヤハウェが人間の罪に対する審判として、この洪水を起した事に変わっています。
 このような創造的意志を持って物語が書かれたのは、最も古いJ文書と言われるものが紀元前850年頃、E文書が紀元前750年頃、J文書とE文書の編集が紀元前650年頃、そして最も新しいP文書が紀元前500年頃でした。
 こうして、旧約聖書ができ、次に救世主を求めて新約聖書が出来、アラビアにコーランが出来たのでした。これらの経典は、歴史的要請があって初めて民衆に強く根づいたものと思われます」
と、教授は講義した。


 私は、信仰を持たないため、旧約聖書や新約聖書に書かれている事が、嘘か本当かぐらいの興味でしかなかった。それが、どうしても唯一神を必要とする民衆に支えられて、今日に至った力強さに驚いている。


 
 宗教学の講義が終わり、私は言葉少なに香苗と別れて、哲学の教室へ行った。教室には、もうすでに詩織が来ていた。
「お昼は学食へ行こう。香苗と美沙も来るから」
「あぁ、前は香苗と一緒だったのね」
「うん、宗教学でね」
「続けてじゃ、頭が疲れるんじゃなぁい」
「そうでもないよ」
「そうね、そんなに頭を使ってないか」
と言って、詩織は笑った。


 そして、哲学の教授が教室へ入って来た。私は、いつも哲学を教える感じには見えない教授の明るさに戸惑っていた。
「『ツァラトゥストラ』を読んだことのある人、手を上げて」
と、教授は言った。誰も手を上げなかった。

「そうだね。読むような人なら、私の講義は受けないか」
と言って、笑顔で納得している。

「今日は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』について講義します。

 ニーチェと言えば、ニヒリズムに徹した人といえるでしょう。ニヒリズムと言えば、この世界を無意味・無価値と判断して、既成の権威や秩序を一切無視しょうとする思想的立場をとるものです。
 しかし、それぞれの立場からニヒリズムの相手が違ってきます。社会主義者がニヒリズムと呼ばれたのは、資本主義に対してでしょう。そして、キリスト教はこの世の実存に対してでしょう。また、ニーチェの場合は、この感性的世界の外に元々ありもしない超感性的価値を設定したキリスト教に対してでしょう。

 そこで、ニーチェは当時の心理状態をニヒリズムと診断して、その価値を積極的に否定するニヒリズムに徹したといえます。その意味で、ニヒリズムとはヨーロッパの精神史と呼べなくもないのです。
 ニーチェは、『悦ばしき知識』で初めて、『神の死』という有名な言葉を使いました。それは、超感性的世界、彼岸の世界、真なる世界、形而上学的世界というような背面世界全体が終わったことを意味するものでした。
 この『悦ばしき知識』で『永劫回帰思想』が言葉となり、このとき受胎されたヴィジョンが、18ヵ月の懐妊期を経て『ツァラトゥストラ』として分娩されたと、『この人を見よ』で言っています。      ニーチェの態度は、耐え難いものであればあるほど、それを肯定によって突破しようとしました。こうして、ニヒリズムの極端な形式である永劫回帰は同時に“生の肯定の最高形式”となったのです。

 『ツァラトゥストラ』は、ニヒリズムを確認し、直視することが出発点になっています。

『聞け、私はあなた方に超人を教える。超人は大地の意義である。あなた方は意志の言葉としてこう言うべきである。‥‥あなた方は天上の希望を説く人々を信じてはならない。彼らこそ毒の調合者である‥‥。
 彼らこそ生命の侮蔑者、死滅しつつあり、自ら死毒を受けている者である。‥‥
 かっては、神を冒涜することが最大の冒涜だった。しかし、神は死んだ。そして神とともにそれら冒涜者たちも死んだのだ。今日では大地を冒涜することが、最もはなはだしい冒涜である。そして探究しえないもの臓腑を、大地の意義を崇める以上に崇めることが。
 かっては、魂が肉体をさげすみの目で見た。そして当時はこのさげすみが最高の思想であった。魂は肉体がやせおとろえ、飢餓の状態にあることを望んだ。こうして魂は肉体と大地の支配から逃れうると信じたのだ。
 おお、そのとき魂自身も恐ろしくやせ細って、飢餓の状態に陥った。そして残忍ということが、その魂の悦楽となったのだ』(第一部ツァラトゥストラの序説3 手塚富雄訳)
と、ツァラトゥストラは群集に向かって語りました。

 これは、神の否定を生の肯定という反対概念であらわしたものです。
そして次に、生の最高の肯定式として、ニヒリズムの極端な形の永劫回帰思想が語られます。 

『“この瞬間を見よ”と私は言葉を続けた。“この瞬間という門から、一つの長い永劫の道が後ろに向かって走っている。すなわち、我々の後ろには一つの永劫があるのだ。
 すべて歩むことの出来るものは、すでにこの道を歩んだことがあるのではないか。すべて起こりうることは、すでに一度起こったことがあるのではないのか、なされたことがあるのではないのか、この道を通り過ぎたことがあるのではないか。
 ‥‥したがって、この瞬間は来るべきすべてのことを後ろに従えているのではないか。だから――この瞬間自身をも後ろに従えているのではないか。
 なぜなら、歩むことの出来るものはすべて前方へと延びるこちらの道をも――もう一度歩むにちがいないのだから。‥‥
 そしてそれらはみな再来するのではないか、我々の前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないか――我々は永劫に再来する定めを負うているのではないか。――“』(第三部幻影と謎2 手塚富雄訳)
と、ツァラトゥストラは小人に永劫回帰をほのめかし始めます。‥‥」


 私は次第に神や仏を考え始めていた。私の考える人間を越える超越的存在の結論が迫られてくる。私にも、宗教の嵐が吹きはじめたようだ。





 哲学の講義は終わった。
「聖子、どうしたのよ。香苗と美沙が学食に来るのよね」
と言って、詩織は私を急がせた。

 私は歩きながら、香苗の悩み事を話した。
「それで、考え深げだったのね」
と言って、詩織も考え込んでいた。

 四人は食事をしながら、香苗の悩みから発展して宗教論議になった。しかし、無信仰の四人がどんなに宗教の話をしても、とどのつまりは神仏を困った時の神頼みぐらいにしか考えられないでいた。

 そして、話は運命論議へ移っていった。
「運命を変えることが出来ると思う」
と、詩織が聞いた。

「運命はその人の努力によって、変えられると思うわ。そうでないと、人生に張り合いがなくなるでしょう」
と、香苗が言った。

「私も、同じ考え方よ。たとえば、AとBのバイト先があるとして、Aを選ぶのとBを選ぶのとでは、知り合う相手が違ってくるじゃない。もし、そこで知り合った彼と結婚でもすることになれば、人生にとって大問題になるわけでしょう」
と、詩織が香苗の考えに賛同した。

「それが、運命でしょう」
と、私と美沙が同時に言って、顔を見合わせて笑った。

「それは、最初から決まっていたのよ」
と、私が言った。

「もしよ。聖子が、今の劇場でバイトを続けるうちに、女優になりたいとか歌手になりたいとか思ったとしても、それは数あるバイト先からその劇場でバイトをするように、運命付けられていたというだけなのよ」
と、美沙が言った。

「そうかな」
と、香苗は言って首を傾げた。

「そうなのよ。私たち人間はそんなに強くはないのよ。運命という杖に支えられながら生きているんじゃないの」
と、私は言った。

「まぁ、それは見解の相違よ」
と、詩織が言って、話が断ち切れになった。

「運命はいいとして、私のバイト先で、頭にくることがあったのよ‥‥」
と、私は滔々と話して、気晴らしをした。それから、みんなは別々の講義を受けに行った。



 私は、田舎からでてきて、東京の見るもの聞くもの、物珍しく楽しかった。この東京で孤独を感じる暇もなく、バイトに疲れ、遊びに疲れ、勉学に疲れ、あとは眠るだけだった。
 しかし、友人は違った道を歩んでいた。私は、そんな友人の信恵から、会社も辞めてクリスチャンになり、教会の仕事をしていると聞かされ、驚いた。

 私は早速、出掛けて行った。
「由紀が田舎へ帰って、寂しくなったの」
と、私は聞いた。以前訪ねたときは、楽しく二人で共同生活をしていると思って、安心していた私だった。

「別に、由紀が田舎へ帰った事とは関係ないわ。それに、入信したのは由紀がまだこちらにいる時
からよ」
と、信恵は言う。私は、以前の信恵の様子と違っている感じがしてならなかった。

「どうして、入信したの」

「それがね、まるでイエス様に導かれるように書店へ入り、聖書を手にして、気が付くと買っていたわ。そして、書店を出ると今度は、クリスチャンが私に声を掛けてきたの。その人に付いて行き、教会で神父のお話を聞いていると、聖霊を私は感じられて何かに打たれてしびれたわ。
 本当に聖霊が私におりて来たのよ。私はこれこそが、神の力だと思ったわ。それで、私は神の存在を信じ、イエス様を信じたのよ。神は存在するのよ」
と、熱を帯びて言っている。信恵は、すぐ都会の言葉を使っていた。私はまだ田舎なまりが抜けていない。そして、信恵は以前と違って話が上手になっていると感じた。

「私は、キリスト教を信じていないし、信仰を持っていない。でも、人間を越える超越的存在があると思っているけど」

「そうよ、それが神なのよ」

「それを神と言えなくもないけど、その超越的存在がこの世を導いているにしても、統治しているとは思えないんだ」

「どうして、導いているお方が神でないのよ」

「盲導犬だって、盲人を導くけど神じゃなく、人間が主人でしょう。そんな事から考えると、宗教家や道徳家や政治家や教師など先生と呼ばれる人たちは、何か間違いをしているんじゃない」

「どうして、その人のためになっているなら、その先生に対して敬うのは当然でしょう」

「そう、その存在は敬うのが妥当なの。奉るのは、やりすぎなの。ましてや、宗教になると唯一神とか言って、他教を排除するから信じ難いんだ」

「イエス様は、私たち人間を創造し、罪人の私たちをこの世界からお救いしてくださるお方なのよ。崇拝するのは当然のことよ」

「私は、キリストが人間を創造したとは思わないし、逆に人間が神を想像してきたと思っている」
と言って、宗教学での旧約聖書の作成過程を思い出していた。

「神の救いの日は近いわ」

「私が生きているうちに来れば、明らかになるんだろうけど、それはないでしょう。でも、神の救いのないまま死期を迎えた人は、あの世に神が救いに来るの」

「そんなことないわ。イエス様を信じる者は楽園へ行けるし、信じない者は楽園へは行けないわ」

「そうなんだね。宗教というのは、背面世界への憧れや夢で、この世の中の生を嘆いて実存を無視し続けているんだよ。
 私は、どんなにこの世の中が辛くても、自分を考える限り、背面世界や輪廻が信じられない。救い主がいるとも思われない。それは、見たことも聞いたこともないから。私は宗教も哲学や道徳や倫理の一部としか、今は捉えることができない」
と言って、今度は哲学のツァラトゥストラを思い出していた。

「宗教を全面的に信じないというのでないなら、そのうち教会へ来て。牧師のお話を聞くと、考えも変わるわ。私は、まだ上手に説明できないから」

「拝むとしたら、素直に仏様というか祖先に対してね。仏教というのは、信じる信じないという存在と違って、日本人には日常的に関係があるからね。
 今の私には、お正月に初詣へ行く神社と、命日やお彼岸にお坊さんにお参りしてもらうとか、クリスマスにツリーを飾ったり、ケーキを食べたりするぐらいの宗教との付き合いね。
 そして、私が死んだときには葬式をあげてもらわなければならないかな。日本人だから仏教であって、でも国や宗教で違うか」
と言って、今更のように自分自身のよりどころの不確かを思った。

「結局、神様が存在していないと思うわけでしょう」

「私は、死ぬまでに神という存在を自分自身の中で解明したいと思っている。でも、今現在言われているような神は信じられない」

「でも変わるわ。信じた人は皆、最初そうだったもの」
と、信恵は自信ありげに微笑んだ。


 私の脳裏から、信恵の言った『でも変わるわ』という言葉が離れなかった。しかし、信恵の高校時代によく使っていた“わが道を行く”という言葉が思い出されてきて、この言葉と信仰が結び付かなく、私は戸惑いを感じていた。

 私は、信恵と会うのにキリスト教を否定するだけの理論武装をしていかなかった。それで、改めてこの日から神について真剣に考え始めた。そして、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を読み耽る日々が続いた。



 それから数日後、香苗は晴れ晴れした表情で、駅の改札口から駆け出して、私に声を掛けてきた。香苗は本を読まずに友だちに返し、友達関係も壊れずに済んだと喜んでいる。
 香苗を襲った宗教の嵐は去ったらしい。そして今度、私の頭上に宗教の嵐は移った。私は、友に神を否定した形になった。人間は何故、神を必要とするのだろう。
 人間が弱いとか、人生が苦しい・悲しい・辛い・複雑・不遇・恐怖などとか言うだけで、神を頼りにするのだろうか。そこには、もっと違った真理が隠されているのではないのかと、私は考えるようになった。


 神は、提供する側と求める側とが、いつも存在する。しかし、それでいいのかという疑問が湧く。それは、神が多数存在するからではないのか。宗教も多数存在し、それぞれ信仰する神が違う。しかし、ほとんどは唯一神が存在する。その唯一神間の争いが、歴史的に延々と信者間で続いている。神は、本当に唯一なのか。本当に唯一でいいのかと考えると、信仰を持たない私としては、数多くの神が存在してもいいのではないかと思われる。
 それは、神が人間を創造した存在と考えることが出来ず、人間が神を必要として想像したと考えるからにほかならないからだ。やはり、神の存在が信者以外明らかになっていない現在では、神は人間の歴史が創造したと考えるのが必然だ。
 
 日本人は仏教や神道の中から現世利益を求め続けてきた。たとえば、家内安全や交通安全、商売繁盛、安産祈願、合格祈願、心願成就、開運、厄除けなどだ。しかし、先祖を供養する仏教とは異なった宗派や他教からも、現世利益を求めている。日本人は、神の存在をどう思っているのだろうか。

 キリスト教では、この世を仮の世界で、死後は神の国である楽園へ、信仰を持つ者だけ行かれるという。イスラム教にも来世がある。仏教にも来世があり、悟りを得るまで続く。
 そして、哲学で知ったニーチェの永劫回帰思想がある。ニーチェの父はキリスト教の牧師だったが、ニーチェはキリスト教の自己喪失の道徳に挑んだ思想として『ツァラトゥストラ』という著作を残した。『ツァラトゥストラ』では、来世を肯定し、背面世界を否定している。

 来世とは、この世から去ってまたこの世へ戻って来ることだ。しかし、この世から来世に至るまでに、もう一つあの世があるはずだ。
 あの世を背面世界と見るか見ないかで、かなりの違いがある。背面世界があると思う人は、あの世に極楽や地獄を見ているだろう。そして、背面世界がないと思う人は、あの世は存在しないと思っているだろう。
 人間は、この世に未練を残して死んでいく。そんな思いを、あの世での自らの存在を明らかにできない魂が、メビウスの帯のように彷徨い続け、この世かと思えばあの世で、あの世かと思えばこの世へと迷い出るのではないかと私は考えてしまう。肉体と魂は、この世が終われば昇天するのがいいはず。
 ニーチェの永劫回帰の発想が、私達人間が一度は感じたことのある『今、私がしている事は、以前にも経験があるような気がする』というあのデジャヴという既視感であったことに面白さと人間味を感じる。


 宗教は、人間の悩みや生き方を教えてくれただろうか。人間の考える目標の世界に近付け、導きをしてくれただろうか。いや、いつも背面世界への救いであって、実存を無視したこの世を忘れさせる催眠剤の役割しかしていない。それは優しさであって、人間を豊かな生へ導くものではなかった。
 人間は、いつも自らが創造したものから攻撃を受けている。人間は、快適や便利を追及し、地球環境破壊の恐れまで引き起こしている。また、高度な兵器を製造して取り戻すことのできない命の取り合いをしている。これらの戦いも、相手側への恐れおののきから起こっている。人間は創造するが、それを制御することを怠っている。


 私はこの方、幽霊を見たことがない。しかし、父は幽霊に一度だけ出会っているのにもかかわらず、否定している。
 独身だった頃の父が病院へ知り合いの女性を見舞いに行った帰り道での出来事だったらしい。父が山道で自転車をこぎながら、ふと木の上に白いものがいることに気付いたという。そして、良く見ると白い着物を着た女性に見えたという。先ほど、父が見舞った女性に見えたという。父は幽霊を信じていないので、この現象は錯覚だと自分に言い聞かせたという。怖い怖いと思うから幻覚が見えるのだと言う。そこで、父はこの恐ろしさから逃れるために、自転車を降りて、放尿したという。そして、もう一度見ると木の上には、その白い着物姿の女性はいなかったという。それでも、先ほど見舞った女性の死を確信している若い父は怖さのあまり、自転車に飛び乗り一目散に逃げ帰ってきたということだった。それから数日後に、その女性は死去したという。父は、それを生き霊と人が言うだろうと言っていた。





 それから数日後の休み前日に、四人で詩織のアパートで飲み会を開いた。詩織が、どのくらいお酒が飲めるか試そうと言ったからだ。
「わあっ、すごい料理、みんなこれ、詩織が作ったの」
と香苗が絶賛した。

「手が込んでいるのね」
と、美沙も賞賛した。

「さすが、料亭のお嬢さん。でも、家から取り寄せたりして」
と言って、私はからかいながらも感心した。

「新幹線使って、取り寄せないわよね」
と、香苗が笑った。

「今時、宅配よ」
と、美沙も楽しげに笑った。

「今日は、飲むわよ」
と、香苗は張り切った。

 三人は、買ってきた食べ物と飲み物を置き、テーブルに着いた。
やはり、詩織のピッチは早かった。次に、香苗だった。私は、一杯のウイスキーにかなり時間をかけていた。美沙は、アルコールは駄目と言って、ジュースを飲んでいた。
 美沙は、飲めないわけでもないらしいが控えていた。

「もしかして、酒乱だったりして」
と言って、皆がからかう。ただちょっと、体調が良くないだけだった。

 皆の予想が外れて、私はあまり飲めなかった。お酒を飲んで、一番先に眠ったのは私だ。私は飲むと口の滑りもよくなり、そのあと眠くなるのが常だった。

「聖子はもう寝たみたいね」
と、香苗が言った。

「早いわね。ちっとも飲んでいないのにね」
と、美沙が言って、私を指で押したのが分かった。しかし、私は睡魔に襲われていて身動きができない。
「寒い地方だから、お酒は強いと思っていたのにね」
と、詩織が言って、私を覗き込んでいるのもわかった。



しかし、三人の声が次第に小さくなり、別人が私に声をかけているような感じに襲われていた。
「これって、夢の中。あれっ、ツァラトゥストラが民衆に向かって、語っている。『背面世界論者』の場面だ。

『かってはツァラトゥストラも、すべての背面世界論者のようにその妄想を人間の彼岸に馳せた。そのとき、わたしには世界が、苦しみと悩みにさいなまれている一個の神の製作物と思えた。
 苦悩する存在者にとっては、おのれの苦悩から目をそらし、自分を忘れることは、陶酔的な歓楽である。だが、人間の彼岸に思いを馳せて、真理にはいることができたであろうか。

 ああ、兄弟たちよ、わたしのつくったこの神は、人間の製作品、人間の妄念であったのだ。あらゆる神々がそうであるのと同じように。
 ひと飛びで、決死の跳躍で、究極的なものに到達しようと望む疲労感、もはや意欲することをさえ意欲しない疲労感、それがあらゆる神々と背面世界を創り出したのだ。

 わたしたちの兄弟たちよ、健康な肉体の声を聞け。これは、より誠実な、より純潔な声だ。そしてそれは大地の意義について語るのだ。――』
と、ツァラトゥストラが語って去って行った。
 


今度は、埴谷雄高の『死霊』の中の第七章《最後の審判》だ。

『私が扱った最も“極限的”ないわばこの種の患者のなかでも極端に静かでまた瞑想的な黙狂患者は、七億年先か、七兆年先か、七京年先かに生まれたのだと、まわりの患者たちから信じられておりました。 

 その黙狂の患者は、この宇宙創世以前の、また、死滅以後の全暗黒の広大な空間の到底みえない端の遠い端まで見通せるばかりでなく、これからやってくる現宇宙以来の未来の新宇宙における思いもよらぬ生と存在の変容の全てまでまざまざと、彼の中で見届けられていると思われたのです。そしてしかも、私たちの今の想像力を遥かに越えてしまった全宇宙の永劫の中のあらゆる種類の力は彼の中についに体現されてしまっていて、もし彼が“一語”でも口に出していえば、この全宇宙の中の全てはその口に出された僅か一語の言葉通り、たちまち“変えられてしまう”とはたの患者たちに思われるに至ったのです。

彼がまわりのものから呼ばれる名前は、“宇宙者”というのでした。不思議なことは、そのまわりの患者たちが“勝手”に宇宙の怖ろしい理法を見届けてしまったその“黙せる覚者”の弟子に自らなったばかりでなく、全く患者でもない私の病院の看護人のひとりまでが何時しか彼の弟子になってしまったことなんです』
と、黙狂の患者の担当医が言った。

しかし、これまで一語も発せず黙り続けてきた黙狂の患者が、全く思いもかけず、はっきりした口調で言葉を発しました。

『私は、自ら決め込んで黙ってしまったのは、もしその言葉を一語でも発すれば、この世界の何ものに向かっても決して言ってはならぬ事をついに言い尽くしてしまわなければならないからです。
それは、最後の審判です。この宇宙の全てへ向かっての最後の最後の審判です。

ここで、全宇宙へ向かっての最後の最後の“審判”こそがこれからおこなわれます。亡者たちがまずなすべき唯一の自己確認のかたちこそは、ここに自分がもたらされたところの真因、つまり、食われてしまったそのほかならぬ自分を食ったところの相手をしゃにむに見つけだすことにあったのです。

“影の影の影の国”では“見つけたぞ”と叫ぶ声が聞こえる。食われた亡者が食った亡者をついに見つけて弾劾する――この“影の影の影の国”の唯一の亡者たる自己確認のいわば一種悲しい極限の法則こそは、生きているものは生きているものしか弾劾できないのだ、というかってのひたすら「自己肯定」のみに由来する多様多彩な戦闘と弾劾方式をもった生の法則と全く正反対なものです。

 亡者たちに聞けば、すべては、この全宇宙の生と死の流れのように、はっきりしてきた。罠だ、まず食ったものが次に食われ、そしてその次に食われたものもその前に他を食っている!この“かくて無限に”のはてしもない連鎖こそ、究極的な弾劾をついになりたたせまいとするこの上なく巧妙狡猾に考え抜かれつくりあげられたところの罠だ。そして、その生を讃えに讃える何ものかは、自分のこの上ない罪と誤りを認めたくなくて、その罠を《食物連鎖》だと名づけて、この生と存在の必当然的な自然のかたちのように声高く呼び続けてきているのだ!そして、食って食って食いつくす全的死のもたらし手の生の上限は――“人間”にほかならない。

また、人間における最も初源の原罪は、“兄弟皆殺し”にほかならない。かって、母親の胎内の深い闇の中でおこなった眼に見えぬ四、五億にも及ぶ兄弟殺しの大殺戮によっても弾劾されねばならない。

そしてまた、人間のあいだだけの“苦悩”や“罪”や“愛”とやらをいったものから、語ったものや説いたものよって、語られたものや説かれたものは、無惨愚かにも思い誤り、大いなる錯覚のつきせぬ連鎖こそがそこにはてもなく起こり、絶対に取り戻しがたい“誤謬史”を引き起こし、長く長く引き継ぎ続けることになった。そして、本来磨かれざる多様な宝玉であった筈のそれらの数知れぬ衆生からこの宇宙の事物と精神の本質をひたすら探索する努力への果てなき意志を永劫に奪い取ってしまった』
と、黙狂の患者つまり“宇宙者”が言葉を発していた。


 この世に誕生した人間は、不思議な事に出会ったり、不幸な事に出会ったり、未知な事に出会ったりすると、すぐに神仏を考える。そして、生あるものは死と直面しなければならない。その時また、神仏にすがりたくなる。人間は、この未知なる世界が、この世の苦しさにもまして恐れている。これらの思いもよらぬ事に出会う時の心構えとして、人間は神仏を作り出してきたと考えられる。つまり、心構えがいつしか信仰になっていった。

 百年前後のこの世の中で起きている事象は、何なのか。これらの思いもよらぬ出来事の正体は、何か。そう考えると、“偶然”でしかないと思わざるを得ない。あらゆる事は、因果律からなる。原因があって結果があるという自然の法則からのもの。 
 前世があると錯覚するのは、“遺伝子の記憶”なのではないのか。また、来世も前世があると思うから生じる考えだ。この人間の記憶には、多くの記憶が入れ子構造のように内包され、宇宙空間のように詰め込まれている。
 人には歴史がある。生きてきた年数だけの記憶だけではない。祖先の記憶だ。人は細胞の集合体。一つの遺伝子の中に自分の記憶や両親の記憶や祖先の記憶が眠っている。その記憶が延々と続いて遺伝子の中に眠っている。それを呼び覚まさせるのは自分だ。それは、遺伝子との対話すなわち思考だ。人間、思考を止めたら他人の操り人形になる。

人間は、透視ができたり、予感したり、ひらめいたり、馬鹿力がでたりする。これらは、記憶との対話すなわち思考の延長線上にあるのだ。
 思考こそが、人間が人間である証だ。この世の中は、必然と同じぐらい偶然にも左右されている。

人間は、この世に誕生して、そしてあの世に死出の旅立ちをする。そのあの世からの行き道を永劫の昇天とは認められずに、背面世界を妄想したり、この世での来世を夢見たりする。そんな時に、神仏を創造すれば意図も簡単に説明がつく。そして、この世の生き方が何千年に渡って、神仏を想定した世の中だった現実がある。

人間は永遠の命を夢見る。幸せならば、この幸せを永遠にと願うだろう。不幸せならば、来世には幸せになりたいと願い、人生のやり直しを永劫の先にみるだろう。しかし、私たち人間はリレー競争のように、バトンタッチをしなければならない生の限界を持ち合わせている。人生のリレー競争をしているのに、自分一人だけが、他人にバトンを渡さずに走り続けるわけにはいかない。いくら人生レースに勝利しようとしても、宇宙の摂理からは逃れることなどできない。人生のバトンは、子孫に渡されるべきだ。そして、人生というこの世だけの百年前後に実存をかけて生き抜き、現実を見つめていこうと私は考える。





 あなたは誰。私の中の細胞なの、“遺伝子の記憶”なの。私は夢を見ているんだ」
と、私はむにゃむにゃ寝言を呟いているようだ。
 
「聖子、寝言を言っていない」
と、美沙が言った。

「なんか、言っているね」
と、香苗が言った。

「聖子、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を連日、読んで疲れているのよ」
と、詩織が言った。

「聖子に話し掛けちゃ駄目」
と、美沙が言った。

「寝ぼけているのよ」
と言って、香苗は面白がっている。

「寝言と話すと、話された方は死ぬといわれているでしょう」

「ええっ、本当」

「死ぬのは大袈裟だけど、眠っている人にとっては、疲れる事かもしれないわね」
と詩織が言った。

「じゃぁ、聖子を起こしてやりましょう」
と、香苗は心配そうに言った。

「聖子、起きて」
と、友の呼ぶ声がしている。


 私は、揺り動かされて夢から目覚めた。
「あら、私寝ちゃったんだ」

「寝言を言っていたわよ。聞き取りにくかったけど」
と、香苗が不思議そうに言った。

「どんな夢を見ていたの」
と、美沙が聞いた。

「私が、人間について考えていたら、ツァラトゥストラが出て来たの」

「ほら、出た。ツァラ‥‥が。さつき詩織が言っていたのよ」
と香苗が言い、皆が一斉に笑い転げた。

「以前、私が言った運命論は、撤回するわ。やはり運命は、偶然を生かさせるかどうかで決まってくるのよ。
 今までの私は、無神論者と言いながら、運命論者という仮面を被っていたみたい」
と言って、皆に笑いかけた。

「でも、私はまだ運命論を捨てないわ。どうして、聖子は運命論を捨てたの。寝言で、遺伝子とか記憶とか偶然とか思考とか言っていたみたいだけど」
と、美沙が探究心旺盛に聞いた。

「ううん。寝ながら、考えていたのかなぁ。私はこの世に誕生して、周りの環境つまり親の影響を受けて、知らず知らずのうちに神仏をわが身に取り込んできた。幼いころから見様見真似で、神仏に手を合わせていた。

 そんなある日、兄の交通事故で母が、その日ばかりは神棚に手を合わさなかったから、その事故が起きてしまったと言った。この言葉を聞いた中学生の私は、神という存在を疎ましいと考えるようになっていた。また、その日神棚に手を合わせていれば、おそらく母は別な事でその事故の因縁を探しただろうと思う。そんな事があって、私は神を認めない無神論者として歩みはじめたのだと思う。

 しかし、一方で科学では割り切れない事を、ある種超越的存在者が行なっているかのように、運命を信じるようになっていた。そして、私は人生の言い訳として、運命論者を装っていたことになる。

 私は、この相反する人間を演じながら生きて来たことになる。それどころか、苦しい時の神頼みや現世利益を神仏に祈願したりして、無神論者とは思えぬ行動も取っていた。
 
しかし、気付いたの。人間の中に眠る、私とも違う先祖の記憶があることを。それは、太古の昔からの“遺伝子の記憶”なの。その記憶は、宇宙のように広がりながら、小さい人間の身体全体に眠っている。それを、呼び覚ますのは自分自身だということを。それは、記憶との対話つまり“思考”なの。また、不思議だと思うことも、“偶然”でしかないということを確信した。
人間は、透視したり、予感したり、ひらめいたり、馬鹿力を出したりする。それらは、記憶との対話すなわち思考の延長線上にあると考えたの。これが、運命論を捨てた真相よ。そして、同時に信仰ではなく、この世の実存を信じ、背面世界に心を奪われず、生に自覚を持つていこうと決心したの」
と言って、私はすっきりした思いに浸っていた。
 
「つまりは、自分で思考して行動すると言うことね」
と、美沙が言った。

「神仏や運命を認める認めないとしても、人生に張り合いが持てればいいのよ。つまりは、私も聖子のように実存主義だったのね」
と、香苗が言った。

「でも、ひらめきはわかるけど、透視とか馬鹿力とか、不思議よね」
と、詩織が言った。

「火事場の馬鹿力でしょう。機械には、スピードリミッターやブレーカーのように制御装置がついているのよね。人間もそうみたいよ。そうでないと、身体が壊れるみたいよ」
と、美沙が言った。

「そうか、アスリートはリミッターへの挑戦というところかな」
と言って、詩織は笑った。

「透視は、直感とか勘かしら。それともテレパシーとか以心伝心だったりして。探すと、人間にも力があるわね」
と言って、香苗も笑った。

「奇跡ってあるでしょう」
と、美沙が疑問を投げかけた。

「以前、三毛猫のオスは、遺伝学的にいないと聞いたのね。その時、100万匹に1匹ぐらいはいるので、幸運を招くと思われ重宝されているって言っていた。それで、奇跡というのを100万分の1と考えていたのよ。でも、調べてみると、染色体の異常で3万分の1の割合でいるんですって。それで、奇跡ってものも怪しくなるわね。『実在することは、起こりうるって事』よね」
と、聖子は言った。

「三毛猫って、オスは遺伝的にあり得ないのね」
と、香苗が不思議そうに言った。

「猫の毛の色は、元々ある白とX染色体にある色で決まるみたいね。メスはX染色体が2つだから、3色になりえるけど、オスはX染色体とY染色体なので白とX染色体だけの色で2色にしかならないみたい。でも、染色体異常のオスは、Y染色体のほかX染色体が2つ以上になることがあるらしいから、XXYで3色になるらしいね」
と、聖子は言った。

「不思議な事って色々あるわよね。外国語を勉強していないのに話せたり、臓器移植をしたら臓器提供者の記憶が転移したり、趣味嗜好が変わったりすることがあると聞くわね。私も、“遺伝子の記憶”に興味を持ったわ」
と言って、詩織が面白がった。

「そうね。今日までの三人の根本理念を変えるまで行かなくとも、今言った事で十分に私の考えを理解してもらえたと思う」
と言って、私は満足した。

 空が白みはじめた頃、四人に疲労が表面化してきて、寝ることにした。



 何も思考せずに誕生レースをし、何も思考せずに与えられた食物を口にし、気が付くとあらゆるものを創造していた。
 見回すと親兄弟がいて世間があり、見渡すと自然環境や人工的環境があり、見上げると空や天体があり、宇宙があった。
 この宇宙が誰によって創造されたのか。それは、生と死の合体のようなビッグバンにより、ニュートリノや光子・電子・陽子・中性子・中間子などの素粒子が高エネルギー粒子の状態で充満した。そして、次第に安定的な素粒子が残り、天体を形成していった。
 この宇宙で生まれきたものは、現在がどんなものであろうとも、昔の記憶があろうとなかろうと、この宇宙で生死を繰り返している素粒子には違いない。この世の物体も生命体も、物質の中で眠り、
生命体で目覚めて繰り返してこの宇宙に何十億年も存在している。
 そして、いま人間はこの世に実在している。私たち人間は、太陽系の中で太陽の周りを規則正しく回り、地球の周りを月が回っている。宇宙は限りなく規則正しく回り、太陽系も銀河系を回り、銀河系も宇宙を回り、規則正しく生死を繰り返す。
 しかし、宇宙史の中のこの時点がフラクタルの一部としたら、いま存在している全宇宙事態も、地球の46億年では計り知れない気の遠くなるような年数で生死を繰り返すのかもしれない。そんな中で、一個人の崇拝者が人間や自然界を創造したなどとは、自然史を一人占めするようなものだ。
 私は、神の存在を私の思考の中から除去する。そして、その思考の中で生命体に存在し続けるあらゆる『遺伝子の記憶』と私は対話し思考し続けていく。


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