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作品名:人生もフラクタル 作者:本条想子

最終回   1
『人生もフラクタル』

  本 条 想 子


 目をつぶると、星を一面にちりばめた銀河が現れていた。これが、天野広司と言う男の眠りの幕開けだった。そして、その星の位置が様々に変化して、色々な景色が形作られていた。まるで、万華鏡を覗いているような気分になっている。そんな変化を眺めているうちに様々な考えが浮かび消えて行った。それは人生についてだ。人間は宇宙の中で生き、宇宙の中で死んでいく。そして、その日々の中で目覚めと眠りを繰り返し、死の予行演習を続けているに過ぎないと考えていた。人間は必ず死を迎える。死ぬことが運命付けられている。彼も眠るように死にたかったのだった。
 人間は、いつも同じ事の繰り返しをしている。眠りながらも、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返し、深い眠りのノンレム睡眠から次第に浅い眠りのレム睡眠へ移行し、ただ眠っているだけの自分の心拍数も呼吸数も速くさせ、レム睡眠特有な速い眼球運動をも起させ、そればかりではなく下半身が立ち、子作りの予行演習を続けている。
 レム睡眠では、目覚めた時すでにほとんど忘れている事が多い夢に、どっぷりと浸かっている。眠りながらも、夢という手段で過去の記憶の再現を繰り返しながら、目覚めを待っている。あくまでも、人間に死が訪れるまで、眠りと目覚めを繰り返し、生き続けなければならない。
 彼の見る夢は、睡眠の時に見るような大画面に入り込むものと、居眠りの時に見る小画面でテレビのようなものがあった。彼は、この小画面が天井に浮かぶ様子をテレビというより霊が見える時の様子に似ていて、好きではなかった。それを、二画面テレビとでも思えばいいのだろうが、まるで死後の世界を覗き見ているような不気味な感じがして、恐怖さえ覚えているのだった。 


 今夜も、仕事の事が浮かんできている。彼は、エンジニアで入社して、事務職に配置転換され、腐っていた。希望の仕事でもないのに、毎日毎日同じ事の繰り返しを眠りの中でも目覚めている時でも続けている人生とは何なのか。この地球上に自分自身が存在していること事態、不可思議に思えた。自分にどんな価値があるのか、自分はどうでもいいお飾りの部品で、取るに足りないちっぽけな存在として主要な部分の単なる歯車として否応なしに動き続けるのか。まるで、ベルトコンベヤーのように流れの中で自分自身を見出す事ができないのかと、暗闇の中でもがいていた。
 このまま大企業で定年まで過ごせば、可もなく不可もなく時を送る事ができ、そして藤倉麻美と結婚して子供が誕生して父親になり、その子供が結婚して彼の孫が誕生するという具合に、幸せを思い浮かべてみたりした。これは有史以来継続している事で、人類が生き残る限り変わらない事だと納得させようとした。
 冒険だ!挑戦だ!未来だ!栄光だ!希望だ!志だ!夢だ!などという胸躍る言葉が、彼の頭上を通り過ぎて行った。彼は社会の流れにどっぷりと浸かり、大学を卒業して大企業に就職し、その最終のレールに乗っている自分を空しく感じているのだった。
 彼は、会社を辞めて、自分の適性を生かした職場を探す決断をした。こんな気持ちを彼女に告げるために、待ち合わせをした。


広司は麻美の戸惑いを思い、辛かったが素直な気持ちを話す方が誠意だと信じていた。
「会社、辞めるよ」
 と、広司は切り出して麻美の目から視線をそらして下を見た。

「ええっ、何故」
 と、麻美は驚いたように聞き返し、広司の視線の行き先を追った。

「事務職をこのまま続ける気に成れない。半年間、会社に配置転換を申し出たけど、一向にその気配がなく、我慢できないよ」

「必要性があっての事でしょう。技術者が事務や営業に回されるのは、何処の会社でもあるわ。いろいろ経験してから決めても遅くないでしょう。会社を変えても同じ事が起こるのじゃないかしら」

「麻美は今の仕事に満足しているから、そんな事が言えるんだよ」
 と、広司は麻美を羨むように言って、先程までとは打って変わって麻美の目を凝視した。

「満足というより、早く一人前になりたいわ。短大を出て三年になり、女性の先輩から言われているの、昇進や給与アップを望むなら、転勤を覚悟し総合職になりなって。それに、銀行というところは信用が大事だから、早くに男性は結婚するので、女性も若い行員から辞めて行くのが現実よ。残るのも女性は大変なの」

「結構、我慢しているんだ」

「思い通りに、会社は動かないから、適応するしかないじゃない。そこが我慢よ」

「我慢と妥協は違う」
 と、広司はすかさず返した。

「私だって、妥協している訳ではないわ」
 と、強い口調で言った。

「俺の場合だよ。やりたい仕事と違うのだから、出来ないまま今の仕事を続けるという事は妥協と同じ事だ」

「皆、それでも働いているわ」

「上司の言われるままに、ロボットのように言われた通りの事をしていればいいのか。好きな仕事も出来ずに、毎日毎日同じ事を繰り返している現在が嫌なんだ」

「毎日同じ仕事をするのは当たり前よ。違う仕事をするのは、フリーターよ」

「そうだな、フリーターにでもなって、自分の生き方を少し考えてみるか」
 と、広司は思い付くままに言った。

「広司、おかしいわ。仕事の内容じゃなくて、ただ働きたくないのじゃないの。そんな事、大学を卒業するまでに、方向性が決まっているでしょう」
 と言って麻美は落胆した。

「分かる訳がないじゃないか。学生時代に将来が分かるのか、結婚前に将来の設計を立てるのか、子供を生む前に子供の将来を決められるのか。皆が先々を考えて、分かったような顔をして、分かったような事を言って働いているのさ。何も分かっていないくせに。結局は妥協して働いているだけさ」
 と言って、見透かせるほどの薄っぺらな世間にうんざりした顔をした。

「でも、先の事が分からないのも不安なものよ。それに、辞めたら今のような大企業へはもう入れないかもね」
 と、憔悴しきったように言った。

「そんな先の事、今は考えられない。今を納得するようにしか生きられない」

「だったら、私は何も言えないわ」
と、諦め顔で言った。

「俺の事、嫌いになったぁ」

「うううん、分からなくなったわ。確かに先の事は分からない。でも、私はその先の事を考えて、今を生きているつもりよ。それを、広司に押し付ける訳にもいかないわね」
 と、麻美は成す術をなくしたように言った。



広司は、就職先を決めてから退職した。しかし、彼が望んでいた職場とは違い、ここも辞めてしまった。広司は、就職先も決めずに飛び出し、麻美に故郷へ帰ることを告げた。麻美は、言葉少なに語られた広司からの別れの言葉を反芻していた。広司は、『麻美にも理解できる人間になるまで故郷にいるつもりだ』という言葉を残して別れて行った。
麻美は、広司が友人の水原和樹を頼みにしている事が分かっていた。麻美は水原に電話して、広司の力になって欲しいと懇願した。
水原は学生時代から美しい麻美が好きだった。しかし、そんな事を知らないはずもない麻美から水原に広司の事を頼んできたというのは、よほど広司を心配しているという事が分かり、いじらしかった。



 広司は故郷へ帰ってきた。両親は、心配しながらも黙って広司を迎え入れた。広司は、麻美に言ったように、フリーターへの道を歩み始めている。

 広司の父親は会社員で、母親はパートの事務をしていた。広司の部屋は、兄の部屋と同様に二人が出てから空き部屋になっていて、里帰りした時に使えるようになっていた。広司と水原が会う時は、もっぱら水原の家が多かった。水原の部屋は、母屋兼事務所の3階建ての最上階だった。水原の父親は弁護士で、母親も事務の手伝いをしていた。水原は弁護士志望だが、まだ司法試験に合格していない。 


彼らは同じ大学で、工学部と法学部の違いはあった。麻美とは、合コンで知り合い、広司と付き合った。水原は特に決まった相手はいなかった。
水原は広司がフリーターの気軽さと不安定さの両立の中で、果たして人生の悩みを解決できるか心配だった。水原は、父親の事務所で働きながら目標に向かって努力する毎日だった。麻美が広司に対して、今の仕事を続けながら悩みの解決をするよう勧めた事も水原は知っていた。広司は、必ずしも麻美に対して恥じて故郷へ戻って来た訳ではなかった。やはり、親に対する甘えからだった。故郷には暖かい家庭があり、友がいた。麻美と離れるのも辛かったがそれ以上に、麻美との心の距離が遠くなり、その距離を縮めようとして、悩みの暗闇の中にますます引きずり込まれて行くのが辛かった。
広司は、心の奥底に言い知れぬ悩みを抱えながら、精一杯にその中から抜け出そうともがく様を隠して、水原に生き甲斐追求の旅の話しをした。水原にも夢があり、広司の思いは手に取るように分かった。フリーターになってからは、自分の求めるものから次第に離れて行くような強迫観念に囚われる事が多くなっていた。広司はまだ自分の心を納得させるものもないまま、不安定な日々が続いていた。あちらこちらの就職ガイドを何度も買いに行った。最初の会社を辞めてから半年が経過し、5社目でアルバイトも落ち着いた。


今回は、自動車販売会社のサービスにアルバイトとして雇い入れられた。仕事は、車の回送と洗車だった。広司はマイカーで出勤している。この会社が販売している車とはメーカーが違っていた。やはり、社員の車はこの会社の車ばかりだった。
広司は事務所に顔を出して、納車準備をする車検車のリストを受け取ってきた。それ以外は、散発的に新車1ヶ月と3ヶ月点検の車を洗車する事がある。これらは、契約済みの近くのガソリンスタンドへ行き、洗車機を使用する。しかし、新車同様に傷が付いていないものは、手洗いする事になっていた。また、車に色々な物が取り付けられていて取り外すのに面倒なものは、手洗いになってしまう。それ以外には、トラックや今にも塗装が剥げ落ちそうな車も手洗いをした。こうすると、半分以上は手洗いすることになった。
広司は、独りで朝から5台を洗車した。先程から、納車準備のリストにありながら、まだ車検の整備を続けている古い車があった。その車は、朝一番に洗車しょうとして、エンジンが掛からなかったオートマチック車だった。ようやく、修理が終わったようで、彼に洗車してもいいという許しが出た。この車は洗車機を使用してもいい車だったため、彼はガソリンスタンドへ車を走らせた。


この車が駐車していたところから発進して、国道へ出る時にはブレーキを踏んだ。それから、徐々にアクセルを踏みスピードを上げて、会社とガソリンスタンドの中間ぐらいにある信号機に差し掛かった。この信号の待ち時間が実に長く感じられて、いつも広司は焦れていた。赤信号が長いのは、並行して走る旧道のためだった。
この信号機は青信号と赤信号の時間配分を国道と旧道とで取り違えたようだ。国道の青信号が15秒で赤信号が60秒だが、旧道の青信号が30秒で赤信号が45秒だった。国道は、いつもこの信号機で、長い時間待たされるが、一方通行でがら空きの旧道はスイスイ車が流れていた。それで、国道は旧道からの右折が禁止されているため、空になった交差点を見詰めて30秒の赤信号を焦れながら待つか、右折禁止を無視して車が進入して来ない事を見越して、赤信号を通り抜けるかのどちらかを選択していた。
この日も国道の短い青信号を通り抜けるために、彼はアクセルを緩めなかった。この信号を通り過ぎると、ガソリンスタンドが見えてきた。彼は、国道から左折して、スタンドへ入った。そこから直進したところに、洗車機がある。この洗車機へ入って止めるまで、何の異常もこの車にみられなかった。彼はチェンジレバーをパーキングにして、サイドブレーキを引いて止めた。そして、フロアマットと灰皿を出してから、洗車機のスイッチを押した。洗車機が自動で車を洗っている間に、マットと灰皿を洗浄機で洗った。あとは会社に戻ってから車内を掃除すればと思いながら、車へ乗り込んだ。


広司はサイドブレーキをはずし、ブレーキを踏みながらエンジンキーを回した。そして、チェンジレバーをバックに入れた。この瞬間、ブレーキを踏む足を思い切り、踏ん張った。発進しようとする力を足に感じたためだった。彼は前方に鉄の扉があるため、慌ててサイドブレーキを引きエンジンも切った。彼は一瞬これが急発進というものではないかと思って、ハッとしてブレーキを踏み、咄嗟にエンジンまでも止めていた。
急発進については、聞きかじりではあったがブレーキさえ踏めば止まると思っていた。しかし、彼は足に感じた力には驚かされていた。だが、辛うじて足の力で止まっていたところから、会社まで1キロぐらいなので、帰れるだろうと思えた。万一の場合を考えて、フットブレーキの他にサイドブレーキを引く事を頭に入れて走行しようと考えた。
彼は改めてエンジンを掛け、サイドブレーキをはずし、レバーをバックに入れた。ブレーキに掛けた足を緩めるとバックし始めた。ブレーキペダルの上から足を外す事はできない。これは、会社へ着くまで同様だと彼は思った。バックのままUターンして、いよいよレバーをドライブに入れた。足に掛かる力は、バックの時よりも増していた。今にも急発進するような力だった。国道の出口まで車を前進させ、渾身の力を込めてブレーキを踏んでいた。前を通り過ぎる車を見送りながら、これから起きるかもしれない急発進を、恐れと言い知れぬ期待との複雑な思いの中で広司は待った。


そして、ブレーキを外し、広司は車を国道へ発進させた。アクセルを踏んでいないが、オートマチック車のクリープ現象以上にスピードメーターが上がって行く。スピードメーターは10キロを過ぎて20キロになっている。まだ、スピードは上げ続けている。30キロも40キロも過ぎた。後方には他の車が見えない。広司はスピードの上昇を楽しむかのように、スピードメーターを見た。もう、50キロに達している。前には信号機がある。信号機は黄色だった。広司はブレーキを踏みたくなかった。この車がどのくらいまでスピードを増すのか確かめたい気持ちで一杯だったからだ。このまま、ブレーキを踏まずに通り過ぎられると思った。それに、赤信号になったところで30秒間は前を横切る車がない信号機だと思ったからだ。この国道の制限速度は40キロだ。信号機を過ぎた時のスピードメーターは60キロを指していた。ここまで、一度もアクセルを踏んでいないが、スピードは上げ続けている。



この当たりから、広司の心は先ほど感じた言い知れぬ期待に支配されていた。これを期待と呼ぶべきか、それとも絶望と呼ぶべきか、今の広司にはどちらでも良かった。兎に角、動き出した運命に乗って、流れに任せているだけだった。運命は、彼を飲み込み、彼をもてあそんでいるようだった。
広司は運命に逆らって、自分の道を切り開こうと考え、大企業を辞めた。しかし、今の広司はその運命に押し潰されようとしている。いや、広司は運命にかこつけて人生を投げ出そうとしているのかもしれない。しかし、ここにきて広司は何もする必要がないのではないかという気持ちが勝ってきていた。自分には何も期待されていないという自暴自棄な考えが広司を支配しようとしていた。もう、広司は自分で自分を制御できなくなっていた。

「力の倦怠感。俺なんか、世の中の歯車の一つでもないんだ。もう、錆びて捨てられる運命なんだ。ただ一つの歯車が酸化して酸素を使うように、俺もただ呼吸して酸素を吸って、錆びた歯車のように俺もぼろぼろの人生を歩まなければならないんだ。どこまで沈めば気がすむのだ。
 忍耐より妥協の方がずっと楽だ。人生に妥協しようか。それが出来ないなら、このままアクセルを踏んで急発進させようか。いや、アクセルを踏まなくても、ブレーキさえ踏まずに左へハンドルを切りさえすれば、並木に追突し車が大破する事は間違いない」 

広司は、ブレーキを踏む事をためらった。彼は、スピードメーターを見ながら、震える思いだった。スピードは80キロを優に越えていた。この瞬間を止める者はもういない。このまま前進し、スピードを上げ続けるのみとなった。彼は、会社を過ぎて、次の丁字路の信号を右折したブロック塀が、最期の場所となるという考えが浮かんできた。

その瞬間、何処からともなく聞こえてきた言葉に驚いて、広司の足はブレーキを踏んでいた。それは、『人生もフラクタル』という言葉だった。まるで、見知らぬ客の車に乗っていて、鼠取り防止装置が作動し、『電波がキャッチされました』と音声で知らされ、驚いてブレーキを踏んでしまった時のようだった。
後方に人も車もいないはずが、バックミラーに老婆の顔が映った。それは、疲れきった広司を悲しげな顔で見詰め、馬鹿げた自殺志願を戒めるように見えた。広司は、居眠りの時の小画面を思い出し、不気味な感じに恐怖を覚えると同時に、死に対しても恐れをなしていた。
彼は、ブレーキを軽く踏み続けた。かなり出ていたスピードは、次第に減速し50キロが保たれるまでになっていた。老婆の強張った表情も、和らぎ始めた。彼は、老婆の気持ちを汲み取り、自殺志願を恥じた。すると、老婆は微笑みながら消えて行った。
彼は何事もなかったかのように、会社に着き、先程までこの車を修理していたサービスの人に、車の異常を伝えた。
「ああ、それはエンジンの回転数を調整しなければならないな」
 と言って、車の修理を始めた。 

広司が故障には気付かず、ブレーキも踏まずにエンジンを掛け、アクセルを思い切り踏んでいたら、急発進していただろう。彼が自殺を考える前に、ブレーキとアクセルの踏み間違えか、自殺志願として処理されていたかもしれない。急発進のため、国道を通る車のサイドに衝突してお互いの車は大破し、見知らぬ人を道ずれに今頃あの世へ旅立っていたかもしれない。
 運命は彼を死なせなかった。彼はまだ生きて、人生を考え続けなければならない。確かに、まだ逃げるわけにはいかなかった。まだ、彼自身の存在理由も分からないまま生き続けるのだから、今度はどう生きるか理由付けしなければならない作業と『人生もフラクタル』という言葉が、彼の脳裏に刻まれた。 



広司は、無性に水原と話したくなり、彼の家へ行った。今回の広司の自殺志願は、本人にとっても意外だったようだ。知らず知らずのうちに悩み脱出を、解決から逃避へ流れていたとは広司自身、気付いていなかった。それを、引き戻してくれたのは、バックミラーに写った老婆の言葉だった。

 彼は、自殺志願の話を言い出さないまま、急発進の事などを水原に話した。広司は、複雑な笑いを浮かべながら話をしていた。
「無事で良かったなぁ。その時に、事故でも起していたら何を言われるか、分かったものじゃないから」
と、水原はその笑いを見ていながら、妙な考えが浮かばなかったかとは冗談にも聞けなかった。

「うん、異変に気付いて良かったよ」
 と言いながらも、複雑な思いを抱えていた。

「人間には、上には上があり下には下がある訳だから、上を見過ぎると落ち込み、下を見たら引きずり込まれるようになり、ますます立ち直れなくなる悪循環があると思うよ。でも、見方を変えれば、どんな人にでも自慢の種があるものさ。
 浮浪者にしても、段ボールと布団では大きな差があると思うよ。ましてや、一般車と高級車では大違いなのだろうね。それは、段ボールや一般車を持っている側からではなくて、布団や高級車を持っている側からすると大問題な訳だ。贅沢は、誰にでも出来ないけれど、比較の上なら誰にでも出来、見せびらかす事も出来る。要するに、この世の中は比較社会なんだと思う。でも、この比較社会に流されるか流されないかで、心がどれだけ穏やかでいられるか別れると思うなぁ」
 と言って、水原は広司の気持ちを和らげようとした。

「高級車で、むかつく事があった。俺の車がその高級車にぎりぎりに止まったんだ。俺もひやっとしたぐらいだから、相手もぶっかったんじゃないかと思ったらしい。それで、相手の中年男が出て来て確かめてから、ぶつかってもいないのに下がれという手の合図をするんだよ。俺の方からしたら、坂道でもあるまいし、ブレーキぐらいけちらずに早くから踏めと言いたかったね。あれは、ブレーキを踏まずにエンジンブレーキで止まろうとして、無理と知るや急ブレーキを踏んだんで、あんな事になったんだ。高級車に乗っている奴がする事ではないとむかついたよ。それに、追突したら後ろが悪くなるからなぁ」
 と言って、色々な事が起こるものだと広司は改めて思った。

「自慢する物を持っていればいるほど、防衛が大変かもしれない」
 と言って、水原は笑った。

 水原は、広司に生活のためや麻美のため働けと言っても納得できるものではない事を知っていた。彼は、広司の悩みの奥底を感じながらも、取り留めのない話を続けた。



 その後、水原は一週間の予定で、東京へ出張した。その折、広司の報告がてら、麻美と会って食事をした。麻美は、多くを語らない広司にあまり電話を掛けなくなっていた。それは、広司の気持ちがますます分からなくなるのを恐れての事だった。

「広司は、何か吹っ切れた感じがします」
 と言って、水原は麻美を安心させようとした。

「何かあったのですか」
 と、麻美は食い入るように、水原を見た。

 彼は、その目の奥に描き出されている姿が広司であることを今更のように思い知らされた。水原が丁寧な言葉を使うのは、広司の彼女である麻美と距離を置くためだった。それだけ、麻美は魅力的だった。

「気持ちの上でどん底まで落ちながら、辛うじて踏み止まったというところですね。落ちる所まで落ちたので、何かの足掛かりがつかめたようです。今直ぐという訳にはいかないでしょうが、広司は立ち直りますよ」
 と言って、麻美に微笑みかけた。

「すみません、私は広司さんに何も出来ないのに、水原さんには心配を掛けっぱなしで」
 と言って、麻美は水原の目を見詰めた。

 水原は、麻美の存在自体が広司をこの世に引き戻し、解決不可能な道にいる広司を救い出すだろうと思わずにはいられなかった。



それから、何日かして、パートの小母さんが入って来た。小母さんが来てから、広司の仕事が二つ増えた。一つ目は、車検車の下回りをスチームガンで洗う仕事だ。二つ目は、車検検査員の作成した車検書類を持って陸運局へ行き、車検手続きをして来る仕事だった。これが、広司の午前中の仕事となった。
今日は、車検書類の作成が遅れたため、高速を使っても午前中の締め切り時間に間に合わなかった。それで、広司はいつもの時間遅れの昼食と違って、持参の弁当を12時に食べられる喜びを味わった。その後、車検の順番を待った。いつもなら、車検を終えて会社に着いてから、遅い昼食を取り、休むまもなく仕事をしていた。

広司は会社へ戻って来て、車検手続きを済ませた車検証を車検検査員に渡した。それから、洗車場へ向かった。先程、洗車場で納車準備を待っていた大型バスは、移動されていた。この洗車場は、これから車検の整備をする車検車の下回りを洗うのが優先されていたため、車検の整備が終わって、納車準備を待つ車の手洗いは後回しとなる。車検車の下回りを洗うのは、スチームガンを使うため、回り一面に泥はねがする。そのため、バスは最終の拭き取りを残して移動されていた。
洗車場では、夏休みを利用してアルバイトに来ている学生がスチームガンを使つていた。それを、広司は横目で見て、午後になってもまだ納車準備をしている小母さんの方へ歩いて行った。普段は事務所前の広い駐車場いっぱいに、所狭しと置かれている新車や中古車の展示を見に来た客の車があるが、今日はその客の車もなく、大型バスがポッンと柱ぎりぎりに置かれていた。


広司は、小母さんを大型バスの中に見て、バスの下にサービスの島村を見た。小母さんは、バスの外回りの掃除を終えて、バスの中で窓ガラスを拭いている。島村はバスの下でマフラー交換をしている。
広司は、バスの中へ入るため、客の乗降口のドアの方へ近付いて行った。だが、ドアは閉じていた。小母さんは客の乗降口の開け方が分からず、運転席から入ったのだろうと思いながら、広司は運転席の方へ回って行った。バスの中に入る方法には二通りあるが、度々出入りするには運転席を乗り越えてでは厄介だと思い、広司は客の乗降口を開ける事にした。
バスの前を回り、客の乗降口を開けるスイッチのある運転席に、広司は来た。運転席のドアは開け放たれている。小母さんが、ここから入ったと思った。いつものように、運転台の右端を見た。客の乗降口を開けるには、タクシーなら運転席の右横にレバーがあるが、バスなら運転台の右端に小さなスイッチがあるはずだった。だが、見当たらない。もし、広司が、バスの後ろを回っていたならこんな事にはならなかっただろう。だが、運命は空しく広司の手をエンジンキーへ伸ばさせていた。

広司の頭には、エンジンを掛けてから、スイッチを探せばいいという安易な考えしか浮かばなかった。運命の歯車は、事故へ事故へと向わせて行った。コンクリートの柱すれすれに止められている大型バスを意識しながら、大型免許を持った者が止めたのだろうと感心しながら、客の乗降口を開けるスイッチを目で探しながら、彼はキーに手を伸ばした。隙間といえばポリエステルの円筒形の雨樋ぐらいの幅しかない状態を横目に見て、いやな予感とは裏腹に、広司の手がキーへ伸びて行った。まるで、高いところから下を覗くと飛び込みたくなるようなものに似ていた。また、電車が来るのをホームで待っていると、白線に近付けば近付くほど電車に引き込まれそうになるような気持ちに似ていた。
キーを回す時は、車内でなければならないという原則を怠り、運転席のドア越しに回してしまった。もし、運転席に座っていたならば、ブレーキを踏んで事なきを得ていただろう。しかし、現実は違っていた。ギアが入っている上に、サイドブレーキが引かれていず、そこへ持ってきて大型バスの下には島村がいる。そして、小母さんは運転席から遠く離れた後方の座席で、後ろ向きになって窓拭きをしている。最悪の条件が整ってしまった。
バスは、空しく前進した。その時、広司の脳裏をかすめたのは、バスの下にい島村の存在だった。この瞬間、キーを抜く事のみを思った。雨樋がバリバリという不気味な音をたてて飛び散った。キーは抜けたが、まだバスがゆっくり前進を続けている。キーを抜く際に、バスとコンクリートの間に右足の膝から下を挟んでしまった。広司は必死で足を抜こうとする際も、島村の無事のみを願った。

島村は無傷だった。ポンプからカチカチという音が聞こえ、エンジンを掛けたことを逸早く察知し、身の危険を感じた島村は、バスの下から飛び出たのだ。キャスター付きの寝台で頭から潜っていた島村は、バスの底にある何かを手で押して勢い良く出て来たのだった。
広司がやっとの事で、挟んだ右足を抜いてバスの横に倒れていると、島村が声を掛けてきた。
「大丈夫!」
 と聞く島村の顔は、まだ恐怖に脅えていた。

「足を挟んでしまいました。すいません、島村さんこそ、大丈夫ですか」
 と言う彼は、今まで島村の安否だけを気遣っていて、足の痛みを忘れていた。しかし、彼は島村の無事を確認して安心した。そして、せかれるままに立ち上がろうとした。その時、激痛が走った。

「痛い!」
 と叫びつつ、彼は何度となく立ち上がろうと試みた。騒ぎを聞きつけて集まった人達に、無事を印象付けたかったからだ。だが、彼の右足はいう事が効かなかった。

「救急車を呼ぼう」
と言って、課長がフロント係に連絡するよう伝えた。

「俺は、大丈夫だから、安心してじっとしていた方がいい」
と言って、島村は、起き上がろうとするのを押さえた。島村は、普段から落ち着きがあり、物腰の柔らかい男だった。これがそんな男でなかったら、今頃パンチの一つや二つ、お見舞いされていた事だろう。仮に、『俺を殺す気か!』と言われて、いくら殴られても、広司は平気だっただろう。島村の無事が何よりだったからだ。

バスの前進は、しばらく続いた。このまま行くと、事務所へ衝突してしまう。バスの後部座席で仕事をしていた小母さんが、気付いて運転席に駆け出し、サイドブレーキを引いた。このバスは、ディーゼル車なので、キーを抜くだけでは止まらず、サイドブレーキが引かれて、初めて止まった。バスから小母さんが降り、広司の苦しむ様子を見て絶句していた。

何故、こんな事が起きたのか、皆が不思議がって尋ねた。
「どうしたという事だ」

「ギア、ギアが入っていたんです!」
 と、広司は興奮気味に叫んだ。

「ギアを確かめずに外からエンジンを掛けるなんて」
 と、サービスの人がいさめた。

 そうこうしている間に、救急車が会社へ到着し、フロント係が現場へ救急車を誘導した。救急車から救急隊員二人が降りて来て、担架を下に置きハサミを取り出して、繋ぎのズボンを切り開いた。右足はあまり外傷が見当たらないが、内出血していた。
 広司は、島村の無事を確かめてから、次第にバスの傷跡が気になり始めていた。会社の皆は、彼を気遣って、バスの事は言わないでいた。

「課長、すいませんでした」
 と言って、課長の顔を見た。

「バスの事は、気にするな。今は、足の怪我を治す事だけを考えろ」
 と言った。広司は、課長の引きつった表情とは別に、不安が取り除かれた気持ちだった。

「天野君、しっかりな」
 と、島村がいたわりの言葉をかけた。

「島村、一緒に病院について行ってやれ」
 と、課長が声を掛けた。

「島村が、一番いい」
 と、サービスの皆も言って送り出した。
 

広司は、病院へ運ばれて医師の診察を受けた。骨は折れていないようだが、明日もう一度、精密検査をすると言い渡された。右足は、時間と共に腫れが酷くなり、痛みは徐々に和らいできている。
 診察を終えて出て来ると、島村が待っていた。彼は、改めて島村の無事を喜んで、口元がほころんだ。

「怖い思いをさせて、すいませんでした」
と言って、深々と頭を下げた。

「いや、何でもなかったのだから」
 と言って、微笑んだ。島村は、松葉杖の彼を車椅子に移して、病室へ運んだ。それから、島村は迎えの人と共に会社へ戻った。


 広司は、母に知らせる事を考えると暗くなった。母は仕事に出ていて、まだ家に帰っていない。勤務先へ電話を掛ける事も出来たが、明日にも退院する事だし、母が家に戻ってから連絡しようと考えた。それは、母の悲しみを少しでも短くしたかったからだ。母にしてみれば、フリーターの存在が不安の種であるに違いなかった。


 広司は、少し眠りたかった。眠りの中で全てを忘れ去りたかった。彼が寝ようとすると、見慣れた顔が開け放たれたドアから覗いた。パートの小母さんが、見舞いに来たらしい。小母さんは、同室の人達に会釈をしながら病室へ入り、彼のベッドを探している。彼は、買い物袋を下げた小母さんに声を掛けた。

「神田さん」
と呼ぶと、小母さんはこちらを振り向き、近づいて来た。

「大変でしたね。これ、食べて下さい」
 と言いながら、スーパーで買ってきたばかりの果物を手渡された。彼は、ぺこっと頭を下げて、照れながら受け取った。まさか、小母さんが見舞いに来るとは思ってもいなかった。彼は、無防備に足を投げ出している。

「かなり、腫れていますね」
 と言って、心配そうにまじまじと見ていた。

「骨折はしていないと聞きましたが、痛みはどうですか」

「外傷はないですが、腫れのためか少し痛みます、もう一度精密検査して異常がなければ、明日にも退院できるようです」

「でも、大事に至らず良かったですね」

「はい。僕の事は兎に角、バスの下でマフラーを交換していた島村さんが無事だった事が幸いでした」

「それで、あの狭い所で無理をして止めようとしたのですか」

「キーは抜けたのですが、止まらなかったですね」

「私も気付くのが遅かったですね。普段から、私がバスの中で仕事をしている時でも、何も言わずにサービスの人がバスを移動するので、異変に気付くのが遅れました。気付いたのは、バリバリという雨樋の壊れる音を聞いてからです。それから、天野さんがバスの外で倒れているのを見て、私は何をしなければならないのか、一瞬考えてしまいました。でも、バスが進み続けている事と、前に事務所があるという事を考えると、バスを止めるしかないと思い、サイドブレーキを引いて、ギアをニュートラルにしたんです」

「あのバスは、誰が移動したのですか」
 と、彼の口から突いて出た。未だに、誰があのギアを入れたまま、サイドブレーキも引かずに止めたか疑問だった。

「あれは、課長です。最初に私が、泥はねするといけないので、バスを移動しようとしたんです。でも、エンジンがまるで掛からないので、学生さんに聞いたんです。学生さんは、バッテリーボタンとチョークボタンを動かしてから、キーを回すのだと言って、バスを移動していたんです。のろのろと慎重に動かしていました。
 それを見かねてか、課長が飛んで来て替わったんです。大型免許を持った課長からすると、危なっかしく見えたのでしょうね。『頭ばかり良くても駄目だ』と言いながら、バスに乗り込み颯爽と運転して、柱すれすれに止めましたね」

「課長ですか」

「天野さんは、偉いですよ。我が身を犠牲にしても、責任を取ろうとしたのですから。ではこれで失礼します。お大事に」

「わざわざ、ありがとうございました」
 と、彼はベッドの上から礼を言った。



 その後、彼は眠りにつき二時間が経過した。そろそろ腹の虫が騒がしくなって来たようだ。毎日毎日あきもせず、同じ時間になると腹が空くものだと思った。彼は病院の夕食前に、母に電話を掛けようと、足の痛みがまだあるので、松葉杖を使わずに車椅子で電話のある所まで行くことにした。
 電話の向こうでは、母がしっかりした口調で彼を励まし、父と二人で病院へ行くと言って、電話を切った。
次の日、診察を受けた際、足の腫れが引かないという事から、入院を続けるように医師から言い渡された。今度は、直ぐに母に電話を掛け、その事を告げた。それから、夜遅くになり、麻美には電話をせずに、水原の携帯に電話した。


水原は不安な思いを隠して広司を見舞った。
「おい、びっくりしたよ」
 と言って、水原は広司の足を見た。

「ちょっと、ここを出よう」

「結構、腫れているけど、大丈夫なのか」

 二人は談話室の隅へ行って腰掛けた。
「彼女は、もう来たのか」

「知らせていない。今の俺には、麻美を引き止める自信がない」

「この間、彼女から広司をまだ愛していると聞いたよ。彼女は、広司を信じて待っているからな。
本でも読まないか。広司が悩んでいる事と同じ小説でなくても、良い本なら悩みの結論を導き出してくれる。良い本は、何かしら固執した頭の中を活性化する作用を持っているもんだ」

「俺は、読書が苦手だから、ほとんど読まない。本を読んで、他人の考えに惑わされたくない。自分で考えて行動したいんだ」

「俺なんか、小説を読んでいると色々な考えが浮かんできて、小説を読んでいるのか、考え事をしているのか、分からなくなるぐらいだ。これは、他人の考えではなく自分の考えであって、小説の刺激で頭が活性化されたというべきでないか」

「考えが閃くという事か。気になる言葉があるんだ。『フラクタル』と言うんだ」

「その本を買ってきてやるよ。興味があれば、何かしら良い考えが閃くかもしれないからな」
 と言って、水原はちょっぴり安心した気分になり、帰って行った。 



水原は、その足で本屋へ行った。しかし、『フラクタル』という本はなく、今度は図書館へ行った。そこで、本を三冊見つけた。

広司は、一つの現状から飛び出すのは簡単だが、そこから這い出すのは容易な事でないと、実感していた。ここまで来て、自殺で逃げ出そうとした自分の弱さが情けなかった。しかし、今回の事故で広司は、生に対して前向きになった。島村の生と広司自身の生に対してであった。


次の日、また水原がやって来て、図書館から探し出してくれた本を三冊置いていってくれた。
広司は水原が帰った後、フラクタルの本を読みふけった。大学の時にフラクタル理論を知り、今まで気にも留めなかった。しかし、これらの本は、広司に科学理論とも違う何かを芽生えさせた。彼は、本を読み進むにつれ、今まで悩んでいた結論らしきものが浮び上がってきた。



それから数日後、また水原がやってきた。
広司が唐突に話し始めた。
「病室に一人がテレビを持ち込んでね。それに、皆が群がっているよ」

「俺が出勤している間に、ビデオを録画しても、帰って来て面白いテレビがやっているとビデオが見られずにたまってしまう。 
最近、ビデオを見ながら番組がテレビの小画面に出る二画面テレビが出来ただろう。それがあると、その日のうちに見たいテレビとビデオが見られていいな。それに、ビデオを見ていると速報が出ないので困る。その点、二画面テレビだと速報も見られていいよ」
と言って、水原は笑った。

「ああそうだ、フラクタルの本どうもありがとう。その二画面テレビというのは、入れ子構造を取り入れたもので、自然界にあるフラクタル理論が元になっているんだ。あの本に出ていた。
ブノワ・マンデルブロが提唱した理論で、株価の変動がフラクタル理論の出発点らしい。俺はフラクタル理論の事を、今まで技術としてしか理解していなかったが、この入院中のベッドで、木や雲を眺めていて思いをめぐらしていたよ」
と言って、あの老婆を思い浮かべた。

「フラクタルを説明する時、良くコッホ曲線が引用されているんだ」
 と言って、広司は図形を描いてみせた。


「これは、線分を三等分し、真ん中の三分の一の長さを一辺とする正三角形を作っている。次に四本分のそれぞれの線分で同じ操作を行う。この操作を無限に繰り返した時の極限がコッホ曲線なんだ。

 これらの図形は、部分と全体が相似になっている。こうした自己相似構造を持つ図形がフラクタルだよ。このフラクタル図形は、いくら拡大しても微小部分に際限なく自己相似構造を持つ図形が現れる事で、直線に表わそうとしても有限領域に納まりながら無限大の長さになる。この種の現象が自然界の至る所にあるというのが、フラクタル理論さ。

 テレビ中継をしているときに、その番組がテレビに映れば、そのテレビの中にテレビが映り、またその中にテレビが映るという具合に、限りなくテレビの中にテレビが映ってしまう。これと同じ状況は、合わせ鏡で簡単に再現できるが、これでは今の二画面テレビには成り得ない。相似の中心がただ一点であり、特殊な部分だけではなくどの部分をとっても全体が反映していなくては、フラクタルでない。だから、画像の位置の動きをコッホ曲線のようなフラクタルにすると、相似中心はどの像にも映し出されるので相似中心が無数に出来るという。これが、二画面テレビの入れ子構造というものらしい。
 フラクタルは単なる相似形ではなく、どの部分から見ても相似形になっていなくてはならないんだ。これもフラクタル次元が、点の0次元でもなく、直線の1次元でもなく、平面の2次元でもなく、立体の3次元でもない。その中間次元つまり整数でないフラクタル次元というところに、入れ子構造の二画面テレビの誕生があったという事になるようだ」
 と言って、広司は真剣に耳を傾ける水原に説明している。

「フラクタル理論をマンデルブロが1975年に提唱したとき、専門家はショックを受けたらしい。何といっても、フラクタル図形は特徴的な長さも持たず、接線も接平面なども定義できないという、ニュートン力学以来の数理的な科学の中心であった微分を否定した見方だったわけだから。

 それまでに、複雑とか不規則とか混沌とかカオスとか言って、およそ科学の対象に成りえないとされてきた形や物理現象を定量化したんだから。
 それからフラクタル理論は物理・地理・気象・経済学・言語学など幅広い分野で応用が始まったらしい。最近はコンピュータグラフィックスの技術向上により、フラクタル画像が容易にできるようにもなっているという。

 木や雲の他には、海岸線や山肌・稲妻・葉脈・波紋・ひび割れ・河川の枝分かれ・天の川や銀河系宇宙と数多くのフラクタルが知られている。人間の血管や神経系統の枝分かれもフラクタルなんだ。
 こうして改めてフラクタルを考えてみると、自然界ばかりではなく、人間界もそうかなと思うようになった」
 と言って、老婆の言った言葉を噛みしめた。


「あの木を起きているとき見ても、寝ているとき見ても同じだ。枝分かれは、どの方向から見ても同じように伸びているフラクタルなんだ。雲を単純な曲線で描いてしまうが、実際は自己相似構造が際限なく繰り返されている。あの雲の一部を拡大し続けて何処まで行っても、直線にはならないで複雑な曲線の相似形になっている。
 そうすると、子孫を残す事も、まさに自己相似形が際限なく続くフラクタルじゃないかと思う。また、毎日の仕事もそれほど変わらない相似形で定年まで続くフラクタルな人生なのだろう」
 と、広司は弾んで話し続けた。

「人間の一生は限りあるもの。それを分解してみると、乳児期・幼児期・学童期・成年期・壮年期・熟年期そして老年期と確かに違いのある様々な形があるだろう。しかし、その期毎の日々をみてみると、一年単位・四季単位・一ヶ月単位・あるいは一週間単位での繰り返しの変化しか見て取れない。そして、毎日の生活もフラクタルなんだ。その日々はある意味で朝・昼・晩の同じ繰り返しだ。その日々の繰り返しが、フラクタルな一生を形作るっているんだ。

 人生を思い返せば様々な出来事がある。それを線で表したならば複雑なものになるだろう。それは、リアス式海岸のようなものになるかもしれない。そして、それを細分化していっても、その中で様々に複雑だろう。何処まで細分化しても限りなく複雑な意味合いを持っている。限りなく複雑な人生がそこにある。しかし、その日々を見ると類似した生活がフラクタルに営まれている。

 自信なく生活をおくれば、そのフラクタルはやはり自信喪失へ向かうだけ。それが、希望に満ちた生活を送る事ができれば、そのフラクタルはいつしか花咲く事だろう。コッホ曲線のフラクタル次元は、1.26‥‥となり整数でない次元だという。一体、人間のフラクタル次元はいくつなのか。フラクタル次元が大きいほど複雑に見えるというから、人間のフラクタル次元も大きいんだろう。人生は、0から始まって0で終わるが、その人生は色々複雑な曲線を描き、その描かれたフラクタルな曲線がその人の芸術作品として残るんだ」
 と、広司は夢も芽生え始めていた。

「自分だけは違うと言っても駄目なんだ。個人のフラクタルが世の中だから、その世の中を作っている個人以上のものを求めても無理という事だ。個人が変わらなければ世の中も変わらない訳だ。国民以上の国家は望めないというが、それがまさにフラクタルな考えなんだ。だから、自分自身がどう変わり、フラクタルに世の中がどう変わるかだという事なんだ。
 人生もフラクタル理論の有限領域に無限大の長さがあるように複雑だから、将来は様々な事が起こるよ。現在がその将来をフラクタルに決めると思うから、情熱を込めて頑張るしかない」
 と言い、一段と悩みの解決を確信した。



 それから、広司は二ヶ月ぶりに麻美に電話して、入院を知らせた。麻美は、早速見舞いに来た。
「入院中に木に教えられた。人生についてね」

「ええっ、何を教えられたの」

「『人生もフラクタル』って言う事をね」
 と、また老婆の言葉を思い浮かべながら麻美にも話した。

「俺がフラクタルなら、俺を取り巻く全体がフラクタルなんだ。地域社会も日本も世界も宇宙も俺の相似形という事になる。いくらちっぽけな存在があっても、宇宙をその相似形として創造していると考えたら、自然界に住むそれぞれの存在理由が帯びてくる。
 フラクタルな人生を考えると、胸のつかえが取れたよ。ここまで考えないと生きて行けないのかと言われそうだな」
 と言って、麻美に笑いかけた。

「そんな事ないわ。考えても考えなくても、いかに自分の心を納得させられるかと言う事は大事よ。
 私も広司に妥協していると言われて、気付かないままに分かったような事を言っていたと思ったわ。
 本当に良かった。広司が、悩みに押し潰されないで」

「長いこと心配かけて、御免」
 と言った。広司と麻美は将来を語り始めていた。



 彼の入院は、二週間もかかってしまった。彼は退院後、アルバイト先と同じ自動車メーカーの技術部に就職が決まった。

 彼が、フリーターを辞めて定職に就くと小母さんに告げてから、小母さんは会社を辞めた。
 広司は、母に小母さんの事を話した。すると、母の祖母が神田麗子と同姓同名だという。広司の曾祖母の写真を見せられて、彼は愕然とした。全く生き写しだったからだ。母と同じぐらいの年齢の写真がパートの小母さんと似ていて、他界する少し前の写真があのバックミラーの老婆に似ていたのだった。


 広司は、これこそがフラクタル理論を応用した二画面テレビの入れ子構造現象で、この世という大画面にあの世という小画面を写し出したのだと思わずにはいられなかった。また、あの世の大画面にこの世の小画面が映し出され、曾祖母が広司の苦悩をみかねて思わず現世に出て来てしまったと思えた。そして、広司に『人生もフラクタル』という事を教えて広司の苦悩を消し去り、曾祖母も広司の前から消えて行ったと、しみじみと考える広司だった。あれから、広司は居眠りの時の小画面を見なくなった。
 かくして、人間の現在がある限り、過去も未来もあり続けるのだった。


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