20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:太陽の叫び 作者:本条想子

最終回   1
『太陽の叫び』

  本 条 想 子


 60年前の私の田舎を思い起こすと、農家の屋根には分厚いケースが載っていた。それは、太陽熱温水器であった。そんな屋根があちらこちらに見られた。
 私の育った町は、北海道の内陸部に位置した農業を中心とした片田舎であった。暖かい季節が短く、五ヶ月は雪に埋もれる。海からは遠く、学校にあるプールも気温が低いことが多く、夏でもわずかな日数しか泳ぐことができない。透き通った清い流れの川も次第に農薬で汚染され、遊泳が禁止されていた。

 その頃の私には、ソ連の史上初の有人宇宙船「ボストーク1号」に乗り込んだユーリー・ガガーリンの言葉「地球は青かった」が深く染み込んでいた。1961年、宇宙へ人類が飛び立った。この地球を宇宙から見たのだ。幼い私は、これからの科学技術に夢を膨らませたものだった。そんなこともあって、太陽熱温水器の技術が向上し、薪や石炭や石油のいらない時代が今すぐにでも来ると、信じて疑わなかった。



 私の小学生時代は、学校の燃料も石炭が主流であった。各教室に備え付けられた石炭ストーブの係は、日直だ。日直は、下校前に教室にある石炭箱を石炭で満杯にしてから帰る。
各家庭でも、このような仕事は子供達の日課だった。その仕事は兄弟姉妹の順送りで私にも回ってきた。ストーブをガンガン焚く茶の間から長い廊下を通って奥のトイレの前へ行くと、燃料の大鋸屑を入れる缶が15個ほど並んでいる。そこは物置小屋が隣接していて、二十畳ぐらいの小屋の奥に大鋸屑が山積みされていた。冬のしばれる日に、暖かい茶の間から小屋の奥まで行くのは、気が進まなかった。つい手袋を忘れて来たときには、缶に指が張り付くこともあった。
小学生の私は遊びに夢中になり、つい日課を忘れてしまった。当然、大鋸屑が入っていると思い持ち上げた缶が、軽い時の気持ちと手の感覚といったら何とも言いようがない。明るい時はまだいい。すぐにでも飛んで行って、間に合わせの数だけ要領よく入れてくればいい。しかし、暗くなってから気付いた時は憂鬱になる。とても独りでは、行く気になれない。この時は、姉や兄に頼んで一緒に付いて来てもらう。物置小屋には、暮れの餅つき以外、電球は引かれない。もう、懐中電灯を持って行くしかない。
棚に並べられた大鋸屑がずっしりと入った缶をここから茶の間の前の廊下に最初の二個を運ぶのは、私だった。あとは、それぞれ運による所が大きい。それは、茶の間の前の廊下にある大鋸屑の缶が空になっている時に、トイレへ行く人が運んで来るという暗黙の了解があったからだ。当然ながら、トイレへ行くついでに空の缶を運んで行って、用を足した後で大鋸屑の入った缶をついでに運んで来るのだった。誰言うとなしに始まったバトンならぬ、大鋸屑トイレリレーなのだ。

木造の家の廊下は寒いので、つい走ってしまう。長い廊下は、結構走り出があった。茶の間の十畳の次は祖父母の部屋の八畳間、その次は客間の八畳、そして風呂場の前の広場とトイレの前の広場という具合に、長い廊下が続いていた。そこは、長い廊下を挟んで障子戸の部屋が続く。茶の間の前は両親の部屋、祖父母の部屋の前は食堂、客間の前は台所そして風呂場、トイレと続いていて子供達が走る材料が充分だった。
中でも、台所の硝子戸はいつも開いていて、電気も消えているため、ここが一番に子供達を怖がらせる。その事を知っていながら、わざと隠れていて驚かすのだから始末に悪い。だが、一応のルールは守っていた。やはり、物を持っている時は、後の事を考えたら、迂闊に驚かす事ができない。間違って大鋸屑を持っている時に驚かしたものなら大変な結果が待っている。駅の階段を掃除するわけでもあるまいに、廊下一面が大鋸屑だらけとなる。
私のすぐ上の姉、陽子を驚かす時はよほどの覚悟がいる。どちらかというと驚かそうとした方が、驚いてしまう結果となるからだ。陽子の声は、泥棒と鉢合せをしても泥棒の方が驚いて逃げ出すぐらいのものだ。
驚かされる場所は、台所の他にもいろいろあった。このように廊下で驚かされるのも、薄暗い電球が一つあるのと、風呂場の前の広場に明るい電球があるだけだからだ。これらの電気のスイッチは階段の板戸の横に付いていた。それ以外の部屋の電球は、暗い部屋の中央にあって、電気のキーソケットをひねって付けなければならなかった。この事は、またぞろ驚かしの条件を兼ね備えるのだった。
夜、明かりが付いているのは、店と茶の間だけだった。冬の寒さは、全員を茶の間に集めさせた。各部屋にはストーブもコタツもない。皆は寝る時に、いつもチンチンと音を立てている湯沸しから、柄杓で湯を湯たんぽに入れて部屋に引き籠った。



60年前の私の家では、エネルギーは節約されていた。電気も燃料も無駄には使われていなかった。取り分け燃料は、祖父の働きによって資源自体最終の段階まで生かされ、我家でも大変助かった。私の心に残る祖父は、毎日のように薪を集めに木工所へ行く姿だった。祖父はもらってきた薪を物置に積み上げた。それから風呂場の前の広場の板をはがして縁の下にも仕舞っていた。それを一番手伝わされたのは6歳年上の兄だった。私は面白半分に手伝っていたが、手助けになっていたかは疑問だ。その周りで、ちょこまか動いていただけだっただろう。近所の子供達と遊んでいても、祖父がリヤカーに薪を山積みして帰って来ると、私は飛んで行って手伝おうとするのだった。
北国に冬将軍が訪れる前に、家々では軒下や小屋に大鋸屑や薪や石炭を運び込んだ。冬になると私の家では、木っ端に換わって大鋸屑となる。ストーブも薪用から大鋸屑用へと換わる。湯沸しだけはそのまま取り付けられていて、煙突で繋がっている薪用ストーブをはずし、換わって大鋸屑を入れるタンク付きのストーブが取り付けられた。冬の寒さは、薪に換わって、火持ちの良い大鋸屑となる。夏はまた別で、ストーブを乗せている台まで取り払われて囲炉裏になった。しかし、そんな中で年々、大きなスペースを使う大鋸屑はほとんどなくなり、石炭や石油に移行して行った。

 しかし、日本人は物を無駄にしないという事を忘れかけている。それは、『消費は美徳』という言葉に表れていた。幼い私は、祖父の姿がまだ格好良いと思えないまま過ごしていた。そこへ、祖父を見直すような事件が起きた。それは、隣の家からの小火を出したという一報から始まった。

「国光さん、お晩です」
と、大きな声がしたかと思うと、店の奥の茶の間前まで隣の社長がやって来て、慌てている様子だった。
私は湯沢商店の社長と目が合うと、会釈をしてから奥の台所へ母を呼びに行った。母は、畑から取ってきたばかりの新鮮な野菜を籠から取り出していた。流し台には泥付きの大根が葉っぱを付けたまま横たわっている。母に隣のおじさんが、店の方に来ている事を告げると、泥で汚れた手を瓶に溜めた水から柄杓ですくって洗い、その手を前掛けで拭きながら店へ急いだ。社長は、茶の間から出て来ると思い、中を覗き込みながら落ち着かない様子で足を小刻みに動かしていた。母は、茶の間へは入らず横を通り過ぎて、店へ出る廊下の硝子戸を開けた。待ち草臥れていた社長は、開ける音のする方を振り向いた。

「お晩です」
と母は言いながら、奥さんではなく社長が来た事に怪訝そうな顔をしている。

「すまんです。工場で小火を出してしまつて、でも火はもう消したんで、まだ少し煙が出てるけど安心してください。大丈夫ですから」
と、早口で言って頭を何度も下げながらそそくさと帰って行った。
 私も母も社長が来るまで全く小火に気付かずにいた。私は、棚の上にある窓から隣の様子を見た。そこへ、騒ぎを聞き付けて祖父が、客間の奥座敷からやって来て、隣の工場へ向かった。私は祖父の後を追った。人だかりのする工場前では、何やら騒がしく不安めいた声が飛び交っている。人々の目は煙突から出ている火の粉に集まっているようだった。煙突の先に付いているはずの傘がないため、煙と共に火の粉が噴出していた。周りで見ている人々は、工場が焼け焦げているものと思っていたらしい。野次馬は、口々に何処が燃えたのだろうと言っている。社長は火が消し止められた事を強調していた。しかし、社長も火の粉が飛んでいるのを心配気に見ている。

 外はもう暮れて、星空がきれいだった。そんな星空の中に火の粉が舞っている。心配そうに見上げる大人達の中で、私もどうなるかと不安だった。このストーブは、羊の毛を洗う湯を沸かすためにある。ここには、羊から刈り取られた毛が持ち込まれて来る。その羊毛を洗う大きな長方形の桶が何個もあった。この工場の中は、私の格好の遊び場でもあった。また、その桶は風呂の替わりもしていて、この家の私より一歳年下の糸子と私や他の友達などと大勢で入っていた。この遊び場がなくなることは、幼い私には悲しいことだった。幸い小火で済み、ほっと胸を撫で下ろしている私でもあった。
 しかし、小火で済んだと言われても、依然火の粉が飛んでいる様子を見て、私の祖父が声高に叫んだ。

「火の粉を飛ばさないように煙突を何かで塞がないと駄目だべさ。燃えている物も掻き出さないとさ」

 その声を聞いて、社長は社員の男性に指示をした。社員はストーブにまだ残っている石炭かすなどを掻き出して水をかけた。そして、煙突の傘代わりにする金だらいを被せた。火の粉が舞うのも治まり、小火騒ぎも一段落した。煙突の具合が悪く、吹き返す火によってストーブの近くにたまたま置いてあった物に燃え広がったという事らしい。社長は祖父の的確な助言に感謝した。

 それを見ていた糸子が、私にささやいた。
「てるちゃんのお爺ちゃん、すごいんじゃないかい」
と、糸子が言った。


 火は消し止められて、小火で済んだと社長が告げに来たはずだったが、改めて祖父がこの小火騒ぎを治めた英雄となった事に、私は困惑した。小火騒ぎも収まり、祖父は満足気に家へ戻った。祖父は小火騒ぎの武勇伝を話すでもなく、ラジオの相撲放送に聞き入っている。少しすると、社長が尋ねて来て、母に祖父の手柄を称賛した。糸子の家には祖父母がいなかったためか、糸子は父親より偉い存在のように祖父を捕らえているようだった。
 私はまだ、祖父を尊敬の念で見た事はなかった。また、優しい甘えられる存在でもなかった。厳しかったのは、兄や姉達までであった。今は、甘いのも厳しいのも中途半端な私のみが、祖父の後を追っていた。祖父に付いて旅行するのも私がほとんどだった。祖父の日課を眺めて楽しんでいるのも私のみだった。



 鶏の餌作りは、皆が逃げ出すほどの強烈な臭いを周囲に漂わす。祖父は口に手拭いを巻くでもなくマスクをかけるでもなく、この臭いを平然と嗅いでいるようだった。私は、祖父が首に巻いた手拭いで汗を拭き拭き、豪快に大鍋を大きなへらで混ぜ合わせているのを見るのが面白かった。大鍋には野菜屑や生物の屑、米ぬか、とうもろこし、貝殻の潰した物などが入っていた。
 畑仕事も、食べる時だけ取りに行っていただけでは、祖父の大変さが分からなかった。しかし、畑を耕し、種や苗を植える時から見るとまた違ってくる。肥料の人糞を運ぶのも一苦労だった。家から畑までは十分ぐらいは掛かり、リャカーに載せて運ぶ事になる。こんな時に付いて行くのは、幼い私ぐらいのもの。人糞をまくと言うと決まって姉達が「私は食べないもん」と言った。しかし、収穫された作物を目にすると、そんな事を言った事すら忘れて食べていた。

 祖父がする日課を思い起こしてみれば、単に面白いだけではなく、憧れで見ていた事に、私は気付き始めていた。それは、取りも直さず祖父に対する畏敬であった事を、隣の小火騒ぎによってこころに刻まれたのだった。そんな祖父も、最期で印象に残る誤りをした。祖父は朝起きて来て、着ている服のボタンが無いと言って大声を出していた。私が見ると、服は後ろ前であった。

「いやだ、お祖父ちゃん。服が後ろ前だわ」
と、私は笑いながら言った。

「そうかい」
と、大真面目に言って、いつものようなきりりとした祖父の顔に戻った。
 そんな祖父を見たのは最初で最後だった。祖父は次の日、永遠の眠りについた。



 郷里の私の家は、昔ながらのだだっ広い造りなので、至る所に空間があった。二階には二部屋しかない。実に無駄な造りだ。茶の間を出ると左側に二階へ上がる板戸がある。もう一つ、茶の間の窓側にある板戸から上がると二階の物置に使っている空間があった。幼い私はよく二階の物置で遊んでいた。ある日、二階の糸子の部屋から、私に声を掛けてきた。

「てるちゃん、遊ぼう」

「糸ちゃん、この物置で遊ぼう」

「うん、迎えに来て」

「うん、下に行くからさ」
と言うなり、私は階段を下りて店の前で待っていた。
そこには、陽子と向かいの家の陽子より一歳年下の悦子とが二人で遊んでいた。そこへ、糸子がやって来た。

「糸ちゃん、行こう」
と、私が言って二人で行こうとしたら、陽子が尋ねた。

「何処へ行くのさ」

「二階の物置に行くんだ」と、私は言った。

「悦ちゃん、物置で面白い事するかい」
と、陽子が言って、思い出し笑いをした。
三人は興味津々で、陽子を見た。陽子は得意気に笑いを演技して、さも面白くみせた。

「輝ちゃん、二階の物置から光お姉さんの部屋へ行けるの知ってるかい」

「ええっ行けないべさ」

「行けるんだ」と、自慢気に説明しだした。


 物置の下は、茶の間を出た店に続く、広い玄関部分にあたる。そして、間仕切りがなく、天井裏が露出した下は、茶の間と廊下を挟んだ両親の部屋にあたる。
 その天井裏の奥を良く見ると、右側の祖父母の部屋がある方は、行き止りで通り抜けそうもないが、左側の食堂がある方は、どうにかしゃがんでなら通れそうな空間が奥まで続いていた。
 しかし、露出した天井裏は薄暗くなっている。ましてや、その奥の空間は、小窓の明り取りの光が届くわけがない。ただ、その奥の空間を見ると、下から何本かの光が差し込んでいるのが分かった。それは、天井板にある節穴からの光だ。
 また、遠くに見える光恵の部屋らしき所に、光が差し込んでいるのも、物置から確認できた。光恵の部屋は、この物置から続く空間と結ばれる所が、障子戸一枚で仕切られているだけだった。
 その障子戸まで行って、光恵の部屋の様子を伺おうというのが、陽子の『面白い事』だった。陽子は小声で話し始めた。


「光お姉さんの所に彼氏が来ているんだわ」
と、陽子がくすくす笑いながら言った。

 皆も分かったようで、先ほどから比べるとかなり乗り気になっている。松田は、光恵と同じ高校の同級生で、一緒に勉強をしているのだった。しかし、小学生の四人の頭にはロマンスが描かれていた。陽子は意気揚々と、いくつかの注意を言った。天井板は薄いので絶対に乗らず、太い梁に乗って進む事、絶対に声を出さない事、帰る合図は手でする事を告げた。三人は、高揚して意気盛んだった。陽子は、今までに何度か行って慣れたものなのか、落ち着き払っている。順番は、陽子、悦子、私そして糸子となった。陽子は口を硬く閉じ、唇に人差し指を当てて、ここから静かにするようにと合図した。三人は押し黙ったまま、陽子に続いた。しかし、何となく可笑しさが募って来て、含み笑いがこぼれる。陽子と悦子は、光恵の部屋の障子戸に辿り着いた。松田と光恵の声が聞こえてこない。二人がいるのは確かだ。

「静かでないかい」
と、悦子が小さな声で言ってしまった。

「今、何か聞こえなかったべか」
と言って、松田が周りを見回した。

「鼠か猫じゃないかい」
と、光恵が何の疑問も持っていないように言った。

「そうだべか」
と、松田は首を捻った。


 二人は勉強していたらしく、あまり注意を払っていなかったのが幸いした。しかし、言われた陽子と悦子は焦ってしまつた。それと同時に、今まで堪えてきた笑いが一気に噴出しそうになった。陽子は、悦子に手で合図を送った。陽子と悦子は、一目散に逃げ出した。後ろでもたつく私と糸子に、悦子が戻るように合図した。悦子の慌て振りに私も糸子も促されて、早々に退散した。私や糸子は、半分も進まないうちに引き返すはめになってしまっていた。しかし、私と糸子は、残念そうな顔をしながらも、二人につられて、結構冒険したような気になっていた。



 この二階の物置は、私にいろいろな冒険心を駆り立てる所だった。小間物屋をしている私の家では、昔繁盛した名残の品も、二階の物置から出てきていた。私は遊んでいる間に、屋号入りの湯飲みや急須そして百人一首などを見つけた。その事を台所で炊事をしている母に尋ねてみた。

「今は、年始にタオルも配れなくなったけど、以前は木札の百人一首も配ったぐらい、店も繁盛していたんだわ。お手伝いさんだっていたさ」
と、母は懐かしむというより寂しそうに言った。

 台所へ水を飲みに来た父も、そんな話しに口を挟んだ。
「戦争で何もかもなくしてしまったさ。昔は一番先にラジオを買ったというのに、今じゃテレビも付いてないし。アメリカが原爆なんて、汚い戦法など使わなきゃ、きっと勝ってたさ。戦争に負けなければ、北方領土だって取られなかったしさ」
と、父は苦々しい思いで言い放った。

「戦争で財産をなくしたというよりさ、私が反対しても、お祖父ちゃんやお父さんが引越しを決めたからでしょ。それに、引越し先の山形でも成功していたのに、反対する私の意見など無視して、この町に戻ってきたんでしょ。戻って来てからは、店も上手くいかないくなり、お父さんも昔のような店に対する情熱もなくなったべさ」
と、言う母の目には涙が一杯込み上げていた。

「あの時は、ソ連軍が北海道へ入って来て、北海道と内地を分断すると聞いたから仕方なかったべさ」
と、父は言い訳した。

 
 先程から母の手伝いをして、一部始終を聞いていた高校生の光恵も参加した。
「終戦六日前に参戦したソ連に、北方四島がさらわれた格好なのは確かだわ。ブラジルの日系人の中には、『日本は戦争に勝ったんだ』と言っている人達がいるぐらいで、本当に日本は、目覚しい復興を遂げ、戦争に負けたんだか勝ったんだか、分からないくらいでしょ。少なくても、敗戦がもたらした、婦人参政権や敗戦国にして始めて選択できた戦争放棄の道も収穫と言えるべさ」
と言って、光恵は退散した。

 私は、百人一首を見付けた事から、とんだ方向へ話がいってしまったものだと思って、きょとんとして三人の話を聞いていた。


 父は市議会議員の叔父の死で、政治家になる夢も途絶え、覇気をなくしていた。叔父の選挙の時には応援演説で雄弁を奮っていた父だった。今は誰の選挙事務所へ行くでもなく、雄弁を披露する機会もなくしていた。まだ、若かった父に叔父の地盤は渡されず、他の有力者に渡ってしまった。それからというもの、父は夢物語ばかりを考えるようになっていた。
 私は、父がそんなに弁がたつとは知らずにいた。しかし、それが祖父の葬式で聞く事になるとは、考えてもいなかった。父は、葬儀の列席者の前で挨拶した。私は、普段の父からから想像もつかない様子に戸惑いながらも父を見直していた。
 私と光恵の年齢差は十歳であり、光恵が見た若い父と、私が見ていた年老いた父では違いがあったのだった。これは、嫁ぎ先の舅や姑を見る嫁の目にも似たものかもしれない。祖父から資源、とりわけエネルギーの大切さを学び、母の涙から戦争の空しさを感じ取り、父から人生の目立たぬ輝きを知った。



 私が故郷を後にしたのは、大学へ進学した時からであった。私を大学進学へ駆り立てたのは、高校一年の時の出来事だった。アメリカは1969年7月20日、「アポロ11号」の月面着陸に成功した。月面着陸船「イーグル」から月面に一歩を標した。その時、アームストロング船長は『ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』と発した。私は、あの1950年後半に太陽熱温水器が200万台以上も利用されていながら消えて行ったことが信じられなかった。あれらの科学力を持ってしても、未来エネルギーを普及できなかったことに、私は失望していた。
 今、私は筑波研究学園都市に住み、大学で太陽光エネルギーの研究をしている。私、国光輝子は、十年前に同じ大学のサークルで知り合った、水島正樹と結婚した。私の住んでいる家は、ソーラーハウスであった。屋根には太陽電池や太陽熱集熱器が載せられている。太陽電池は、太陽光を直接電気に変換できる。太陽電池の変換効率は最も高いもので20数パーセントであり、低コストの通常のもので十パーセントだ。太陽熱集熱器は、太陽光の入射面に選択膜を張った硝子板を置き、入射光が逃げない工夫がしてあり、温水タンクや床下に砕石蓄熱層を設けて熱を貯蔵し、温水供給と暖房を行う。また、太陽熱集熱器と吸収式冷凍機を組み合わせることにより、太陽熱で吸収剤を加熱させて冷房を行うことが出来た。他にも、断熱材や蓄熱材を用いて太陽熱をよく吸収させ、室内の空気の対流や熱伝導や輻射を考えてその熱が循環するように設計されていた。ソーラーハウスは二人の夢だった。
 大学時代に経験した第一次石油危機、つまりオイルショックからの二人の目標でもあった。あの時、目にしたトイレットペーパーの買い付け騒ぎが実感としてある。あらゆる物の便乗値上げで、私と正樹は意見が一致して意気投合した。

 私と正樹は、よくエネルギーについて話した。
「第二次世界大戦を石油がらみで始めた我国だけど、枯渇燃料を懲りずに依存しているわね」

「ただ、枯渇を受け入れない無機説もあるからね」

「無機説というのは、地球生成時の大気であったメタンガスが地球深層部のマントルに取り入れられ変化したものという考えね。でも、私は数百万年前とも一億年前ともいわれる地球上の動植物が地中に無酸素状態で埋没し、熱と圧力で成分が変化したという有機説を取るわ。枯渇を信じる信じないというのでなく、有機説の方がクリーンな太陽エネルギーにより近付ける考えでしょ」

「石油に替わるエネルギーとしては、太陽エネルギーが最高だよ。他にも代替エネルギーはあるだろうが、安易な原子力発電だけはやめてもらいたいな」

「事故による放射能汚染が怖いわ。1950年代の石炭時代が終わり、石油時代に入って来たわけだけど、この次に太陽エネルギー時代が来るかしら」このオイルショックも、第四次中東戦争からだけど、これが治まると石油価格が下落して、また石油にのめり込んで行くのじゃないかな。経済性で石油に勝たなければ、事は始まらない」

「そうなのよね。現実問題としては、経済性を技術向上と法的補助によって確立しなければ夢物語で終わってしまうわ」
と、いうような話で二人は盛り上がり、いつも太陽のように、熱々のカップルだった。


 一時、消えかけた太陽熱温水器は、1973年10月の第四次中東戦争のオイルショック、つまり第一次石油危機に始まり、1978年12月のイラン政変の第二次石油危機を経験して、再び注目されたのだった。現在、太陽熱温水器は高性能化して400万台以上も一般家庭で利用されている。
 近年は、これまでと少し様相を変えているかもしれない。石油だけに依存することは、排ガスによる酸性雨や温室効果など地球規模の環境汚染の拡大につながると認識され始めているからだ。石油の代替エネルギーとして最有力視されてきた原子力発電も事故続きで危険信号が点燈しているわけで、本腰を入れた代替クリーンエネルギー開発が望まれている。しかし、日本政府の無策は、未来のエネルギー対策に陰りを見せている。
 一体全体、この地球上に住む人間は、何時になったら、あの天空に輝く太陽から直接にエネルギーを取り出す事が出来るのだろう。化石燃料を燃やし続ける間に地球の環境を損なうのが早いか、あるいは化石燃料の争奪戦による戦争で地球が滅びるのが早いのか、いずれにせよ破滅の道を直走りに走り続けている。


 そして、最悪の戦争が起きてしまった。1990年8月2日未明、イラクはクウェートに侵攻した。国連の安全保障理事会は同日、侵攻非難決議を採択した。アメリカは8月7日、サウジアラビアに米軍派遣を決定した。中東で、多国籍軍が石油のための戦争を強いられた。イラクとクウェート二国で、主要産油国の埋蔵量の20パーセントを占め、サウジアラビアまで入れると45パーセントにまで達する。このサウジアラビアへの侵攻を危ぶむアメリカの素早い対応と強硬な姿勢が多国籍軍を団結させた。
 そして、日本政府は、イラクの取った人質作戦や環境破壊に驚かされたというより、アメリカの軍事力だけが突出している事に脅威を感じ、言われるままに協力した。

 この湾岸戦争で改めて、私達夫婦は石油の代替エネルギーの必要性を感じていた。
「私達人間は原始時代から考えると、確かに高度な技術を持ったわ。でも、地球外知的生命体の住む星には、今の我々では到達出来ないと思うわ。到達できない距離まで、神あるいは宇宙の摂理が間隔を置いているのよ。その距離を縮めるものは、平和よ。我々の歴史は、逆行しているわ。戦いの中で生まれた高度な技術からは、我々を救うどころか地球を滅ぼすわ。人間を救うのは倫理観よ。その先に戦う事を放棄した平和な世界で生まれた高度技術が、宇宙全体を結び付けるのじゃないかしら」

「この太陽系には地球外知的生命体の住む星はないようだ。太陽系から一番近い恒星でも4.3光年離れているわけだから、今日のハイテクを駆使しても辿り着くには、何万年も掛かってしまうね」

「日本は、化石燃料ばかりか、危険な原子力発電も捨てて、太陽エネルギー開発に全力を注ぐべきよ」
と、私は祈りにも似た気持ちで、この日本に早くエネルギー革命が来ることを願った。 

 ソ連の友人宇宙船成功以来、私は科学に興味を持ち期待もしてきた。あれから60年、科学技術は目覚しい進歩を遂げた。しかし、一番期待した太陽エネルギーの実用化はあまり進んでいない。これは、実用化できるほど科学技術が進歩していないからではない。これを、援護する政策が取られていないからにほかならない。
スイスでは、『ソーラー91』というエネルギー供給の独立キャンペーンが起こっている。スイスも日本の七割同様に、エネルギーの八割を輸入に頼っている国だ。電力供給を原子力と水力に頼っていたのが行き詰まって、クリーンな自然エネルギーである太陽光発電を普及させることになった。スイスでは、1989年に豊かな水をたたえていた川が干上がるという現象が起きた。その上、1990年9月の国民投票で原子力発電所を今後十年間、新設できないことになった。スイスでは太陽光発電システムにより、一般家庭で発電した電力が余れば、電力会社へ売ることが出来る。太陽光発電システムを電力会社の配電系統と連携させる仕組みなので、太陽電池で発電した電力を保存する蓄電池も不要で、設備価格が3割も安く押さえられている。
 通産省が『サンシャイン計画』というものを、1974年から続けてはいるが、予算は100億円程度のもの。とりわけ、代替エネルギーは地球環境を守るためにもクリーンエネルギーでなければならない。


 私は、太陽エネルギーの研究の傍ら、太陽の叫びを聞いている。
「私の惑星に住む知的生命体よ。あなた達の科学が進歩するまでと思い、化石燃料を蓄積した。間違えてはいけない。科学が進歩したから化石燃料が使えるようになったのではない。母の乳房のごとく、乳児に私が与えたのだ。早く吸うのを止めないと、乳離れが出来なくなる。
 私のエネルギー密度は、1平方メートル当たり1キロワット、石油換算なら年間10リットルと非常に低いものだ。しかし、地球全体の年間需要が石油換算で140億キロリットルとしても、私のエネルギーを変換効率10パーセントの太陽電池で賄うとしたら、全砂漠の4パーセントぐらいの広さで十分なはず。
 私のエネルギーは、無限で無公害だ。化石燃料の争奪戦や環境破壊などを早くやめ、美しい地球の中で平和を築きなさい。今からでも遅くはない、知的生命体たる倫理観を全面に押し出した行動を望む」
と、太陽が叫び続けている。


■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 185