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作品名:花街に生きて 作者:H・C・舟橋

第2回   真澄
 四十九日が過ぎた十一月中旬、土手宿、後の宮町にある夫の実家の母屋に、金モールに肩章という消防礼装の大宮消防署長が弔問に訪れた。二階の仏間で焼香を済ませた署長から、弔慰金三十五万円の包みが真澄に手渡された。

 その左横で鷹揚に胡坐をかいていた夫の父である石橋幸太郎は、置かれた弔慰金の包みにごくりと喉を鳴らした。署長を玄関先まで見送り、茶菓を片付けた真澄がふと仏壇を見上げると、先ほど供えた筈の弔慰金が消えていた。同時に階下で男たちの歓声が上がる。二階の桟越しに見下ろすと、金の包みを右手で誇るように差し上げ、花街の男たちを引きつれて黒塗りハイヤーに意気揚々と乗り込む幸太郎の姿があった。階段を駆け下り、通りまで追った真澄の視界には、すでに義父の乗った車の姿は捉えることができなかった。


「澄ちゃん、ご愁傷様。豪勢な精進落とし、ごっちゃんでした」

 後日、花街の旦那衆から口々に礼を述べられた。義父幸太郎は、由紀夫の弔慰金を叩いて大宮公園に隣接する高鼻町の料亭で芸者総揚げを振舞っていた。真澄は腕に抱いた乳飲み児の頭を所在なく撫でながら、虚(うつ)ろに頷くことしかできなかった。



 真澄は大正十五年二月に宮城県の教員夫婦の三女として生まれた。
 父親は東京の学校に研修派遣されるほど将来を嘱望されていた。上の三人の子供たちは東京麻布区の霞町で生まれている。宮城県に戻り、父は仙台一中、母は高等女学校の教員となった。当時はごく当たり前の子だくさんで、大正五年生まれの長女から、昭和十五年生まれの五男まで、十人の兄弟に囲まれている。
 そんな子供たちに、養子縁組の話が持ち込まれた。

 父親の親戚筋にあたる栃木県宇都宮在住の男が、ちゃんと女学校か、師範学校に上げてやるし、季節ごとに着物を仕立ててやると両親を説得した。
 数多い兄弟のなかで、男勝りのじゃじゃ馬として聞こえていたが、顔立ちの整った真澄が選ばれた。昭和十一年二月、ちょうど十歳になったばかりの早春である。
 言葉通りに生まれて初めて晴れ着を着せてもらい、ぬかるんだ道の泥跳ねで着物の裾が汚れる方を気にしながら、両親に軽い気持ちで手を振って、男に引かれて真澄は駅に消えていった。
 真澄の消息はそこで途絶えた。

 真澄の両親が心待ちにしていた手紙が届く事もなく一年が過ぎた。両親が訪ねた真澄の養子先である宇都宮の住所は、花街の一画にある売春宿で、そこには真澄はおろか、男の存在を示す手掛かりは無かった。
 その兄弟の言によると、男は昭和五年から九年にかけての昭和東北大飢饉に乗じた農村の娘の身売り仲介で財を得たが、全て博打で失った。その後も味をしめた手っ取り早い儲けの手段として、人買いを続けていると言う。

 真澄の両親は甘言に惑わされた自分たちの不明にひどく傷ついたが、手を尽くして娘の行方を追い続けた。ようやく探し当てた男に、白状させた身売り先は、茨城県下妻の芸者置屋である。
 急行した置屋の遣り手婆は、芸者上がりの女が真澄を身請けした、行方は知れぬと両親に告げると帳場に消えた。

 偶然の機会に真澄の消息が知れたのは、四年後の昭和十六年。前年に実施された国勢調査で、市政に移行したばかりの大宮市の花街、新地(土手宿)の待合『嬉遊館』石橋家の下女で、住民登録の無かった真澄を不憫に思った交番巡査の原籍問い合わせがきっかけである。
 直ちに真澄の両親が取り戻すべく主の石橋幸太郎に談判したが、幸太郎の妾であるキヨが下妻で真澄を身請けした際に譲り受けた証文を盾にして拒んだ。

『弐千伍百圓也正金(まさにかね)貸(かす) 但(ただし)無利子 稼業所得ヲ以テ返済ノ約 契約方ハ満拾伍年トス 玉代(ぎょくだい)ハ楼主五分本人五分ノ割合』

 十歳の真澄の拙い字に続いて、右養父として真澄を連れ去った男の署名があった。子供のした契約など無効だし、借金をしたのは養父だ。真澄の父は、代言人(弁護士)を立て訴訟しても取り戻すと強く迫った。幸太郎はカネが返せないなら娘は返せぬと突っぱねる。玄関先で揉めているうちに、花街の男たちが取り巻き始めた。

 幸運にも原籍照会をした巡査が警ら中に遭遇し、両親の話を引き取る。
人身売買の嫌疑あり、本官が娘の身柄を預かる。嬉遊館主人、追って署に出頭せよと威嚇すると、自分の養女になって息子の嫁になるならば証文は破り捨てると幸太郎が譲歩した。
 前年に末子が誕生したばかりで、二千五百円を用立てること叶わぬ教員である両親も、客を取らせぬと約し、高等女学校にあげてくれるならばと引き下がった。墨痕鮮やかな巡査の起案により、その場で約定書を取り交わす。巡査は官職名銘記の立会人署名をした。

 身売り証文は巡査が取消線を引いて顛末を書き込み、両親に交付した。真澄は一旦両親の原籍に戻った後、十五歳の誕生日をもって幸太郎の養女となった。


 嬉遊館当主の石橋幸太郎は、先代戸主石橋喜兵衛とは直系の血縁を持たない。明治三十四年群馬県相馬村の産で、旧姓は小林という。狂い死んで係累が絶えた前戸主の遠縁にあたり、一族の指名によって家督を相続した。線の細い前戸主とは真逆の図太い強欲な性格を持ち、膨大な相続資産を妬んだ親類の、遊女の呪いだ祟りだのといった陰口を全く意に介すことなく花街の旦那として振舞っていた。遊興が過ぎて主だった相続財産の料亭や芸者置屋を手放したが、待合の経営者としてそこそこの暮らし向きを保っている。正妻のセンとの間に、大正十二年生まれの長女征子と昭和四年に長男の由紀夫をもうけた。

 真澄を買った及川キヨは宇都宮の芸者上がりで、幸太郎が入れあげて妾としていた。キヨのために財産を手放した事情もあり、妻妾同衾の石橋家ではであるが、幸太郎不在の場では決して会話をすることは無い。そんな石橋家に十歳でやってきた真澄は、酌婦の小間使いの下女扱いであったが、征子の年の近い遊び相手として、また由紀夫のひそかな憧れとして、次第に一家に馴染んでいった。養女になって後は、一家の末席で食事を取ることを許されるようになった。


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