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作品名:花街に生きて 作者:H・C・舟橋

第11回   慈恵澄清信女
 平成が十年を数えた頃、三室の市立病院で白内障の手術を終えた夫に付き添っていた真澄は、酷い肩こりと胸の圧迫感に見舞われた。あまりの苦しみ様を見かねた看護師によって、診察の手配がされた。
 医師は心電図を見るや、直ちに入院を命じた。冠状動脈が詰まって心筋梗塞を起こしていたのである。次女嘉子が東京から飛んできて母親の付き添いと、一足先に退院した義父の世話をした。真澄はニトログリセリンを手放せなかったが、日常生活が不自由になる後遺症は出なかった。

 平成十二年末に篠崎は腎不全で重体となり、市立病院で透析処置を受けた。入院中、真澄は特に深く先祖の霊に祈った。夫を連れて行かないで欲しいと。代わりにだれかを連れて行ってくれと。
 翌月、夫は回復し退院した。帰宅してたまった新聞を広げると、古鷹山の訃報が掲載されていた。祈りが間違った方向に向いたのかと自責の念が湧いた。仏壇に向かい、、亡義姉征子の魂に謝罪の祈りを捧げた。


 篠崎が七十八歳で亡くなるまで、真澄は自力で立てなくなった夫を献身的に介護した。夫を看取った病院の系列ケアハウスに長女由紀子の援助で入所し、時折襲う膝の痛みはあったが、ヘルパーに介助されながら穏やかな日々を送っていた。


 東日本大震災で実家の墓石が倒れたと、年の離れた末の弟が報告にやってきた。十人の兄弟姉妹は次第に寿命を迎え世を去っている。
 埼玉熊谷に根を生やし、この年四月に亡くなった弟の葬儀には参列できず、その法事の帰路の末弟の訪問が、一族との最後の顔合わせになった。


 その年の暮れ、真澄の緊急入院に駆けつけた次女嘉子は、主治医から治療の余地の無い末期の胃がんであると告げられ、延命治療の要否判断を求められた。
 揺れた心をようやく落ち着け、兼ねて母より言い含められていた、苦痛が続く延命治療は避け、緩和ケアを望むと嘉子は応えた。

 ほんの二ヶ月前まで、百歳まで生きると笑っていた母。ようやく暴君篠崎の怒声の響く事の無い、平穏な生活を得たというのに、母の一生は何だったのだろう。母の顔を見ることもできず、嘉子は涙した。

 七十日間ベッド横に付き添った嘉子と、数十年分の会話をした真澄は、見舞いに訪れたケアハウスのヘルパー三人からハッピーバースデーを歌ってもらった八十六歳の誕生日から四日目の午後、夫の代わりに生まれてきた嘉子の腕の中で息を引き取った。


 家族のみで営まれた葬儀の間、嘉子は母の人生を思っていた。ひとり苦役を背負わされたような生涯。我が儘と暴言の限りを尽くした義父篠崎の最期の日々とは正反対の、自分より常に他人を気遣いながら向かった終焉。
 授かった慈恵澄清信女という戒名は、まさに母の人柄を表現しているのだろう。


 いつか母に聞かされた花街の人間の行く末。風の便りに聞く人々のその後は、いずれも幸せな生涯とは言い難い。
 いくらかでも穏やかな暮らしを得ているのは、真澄の子供である自分くらいだ。この安寧は、母が朝夕一心に先祖供養をしてきたお陰に思えた。


 母を因縁渦巻く花街から救い出した事が、義父篠崎の唯一の功徳だったのだろう。
 嘉子は、母が後半生を捧げ尽くしたことを、少しだけ理解し義父に感謝する気持ちを持てた。


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