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作品名:花街に生きて 作者:H・C・舟橋

第1回   忘れ去られた台風
 昭和二十九年九月十四日午前八時二十四分。埼玉県大宮市土手町の荻島病院で、消防士の石橋由紀夫は脳挫傷による急性脳内出血のため二十六年の生涯を終えた。

 二十八歳の妻真澄は、駆けつけた病室で臨終を告げる医師の言葉に激しい眩暈を感じ、ベッドの桟で辛うじて体を支えていた。遠く彼方からのように聞こえる消防署長の経過説明は現実感が無く、頭を透過するばかりだった。

 早朝に消防署からの緊急呼び出しに応じた夫を、生後二か月の次女嘉子を抱いて見送ってからまだ二時間。横たわる青黒く腫れた顔は、今朝玄関を出た夫と同一人物に思えなかった。真澄は夫の左手を震えて力の入らない両の掌で握ったが、血が巡らないその指先から冷たくなって、握り返してくることは無かった。真澄のワンピースの膝を強く掴んで見上げていた三歳の長女由紀子に、父親の身に起きた事情は理解できなかったが、嗚咽する母親が悲しくて泣き声を上げた。

 九月十二日、南方海上から接近する台風十二号は、中心気圧九百十ミリバール、目の直系百九十キロメートルに及ぶ超大型台風と認識され、各地で水防指令が発せられた。
まだ気象衛星はおろか、長距離気象レーダーも無い時代である。米軍の大型観測機が上空から接近して調査する程度で、現在地点と進路を即座に把握できる体制ではなかった。
 埼玉県は十三日午後一時に災害対策本部を設置して土嚢やムシロなどの資材を準備、河川の水防と、農作物の風水害対策をおこなっていた。河川流域市町村では、救助隊の編成まで済ませ、万全の体制で台風を迎え撃つ準備を整えた。ところが台風は九州南端に上陸し、そのま真北に縦断して日本海に抜け、埼玉県では十三日に十五ミリ程度の降雨があったのみで、水害の恐れは無くなった。代わりに、日本海に抜けた台風に吹き込む南風が夜半から強まっていた。

 十四日早朝、南風が平均風速十メートルを超え、大宮市消防本部は火災警報を発令した。放送塔の警戒サイレンを鳴らすと共に、出場即時待機の消防車を除いた自動車を巡回させて、装備しているスピーカーで市民に警報の発令と火災注意を周知させることになった。

 非番の石橋由紀夫を含む予防係四名が緊急召集され、朝七時にジープ広報車で消防本部を出発して市民に火災警報発令中を報せて回った。南風は益々強くなり、最大瞬間風速は二十メートルを超えた。
 時速十キロで進む広報車の幌は波打ち、時折車体は激しく揺さぶられた。昨日の警戒警報に応じ、大宮駅前商店街は戸板の上から板釘を打ちつけた風雨の備えを解く気配はなく、通勤時間帯だが町を往来する人影はまばらだった。
中仙道を北上して裏参道に向けて右折し、大宮公園ボート池を西側からぐるりと右に巻いてから、東武野田線の踏切を北に向かって横断した。渡り切ると道なりに左に折れ、すぐに右に折れて植竹小学校方面に北進する。まもなく東北本線の氷川踏切である。風益々強く、幌を打つ音にエンジン音さえ打ち消された。

 米軍払い下げのジープは三十九歳の寺山消防士が運転、司令補の櫻井は左後席で腕組みをして俯き加減に目を閉じている。若手の奥貫は右前の助手席で真空管式アンプのマイクを握って火災警報発令中のアナウンスをする。右後席の石橋は、さきほどから運転手寺山の態度が気になっていた。ときおり胸ポケットからメモを取り出してはチラチラと見ている。心、ここに在らずの落ち着き無さは、オートレース好きの寺山が、今日のレース予想をした車券が買えずに焦っているのだろうと思量した。

 ジープは風が暴れる薮を右手に、僅かに低くなる東北本線の軌道に向けて下り始めた。この踏切は見通しが悪い上に、無警手の踏切である。終戦後九年当時のことで、警報機や自動遮断機は無い。手前にある一旦停止の標識を過ぎ、寺山は減速する気配を見せずに踏切に進入した。
 刹那、広報車は右から疾走してきた小山発上野行三五二八列車の先頭蒸気機関車に跳ね飛ばされ、一回転半横転して下り線の線路脇に腹を晒した。
運転手の寺山と、副指令の櫻井は額から血を流しながら窓から這い出たが、機関車に激突された側に着座していた石橋と奥貫は呼び掛けに応えることは無かった。

 西日本を中心に死者行方不明者百四十余名の被害を出した超大型の昭和二十九年台風十二号に、埼玉県の消防署員二名の殉職が追記された。旬日後、勢力で劣る台風十五号が北海道を襲い、のちの「洞爺丸台風」として人々に記憶されたが、十二号台風の犠牲者は昭和史から忘れ去られていった。


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