「今、申したような事情なのです」 ハインリヒの胸の中でアストリットは、やや早口になって、(おそらくは一部を端折って)“ここ”にいる理由を話した。 「そうか」 すべてを理解出来たわけではないが、およそのことはわかった。ハインリヒはアストリットを胸に抱いて応えると、右手で彼女の髪を撫でながら、聞いた。 「こちら側には、どのくらいの時間、いられるんだ?」 まるで旅行者に滞在日程を尋ねるかのようだ。 「あまり、長くは」 小さく、しかしはっきりと聞き取れる声でアストリットは言った。 「なので、ハインリヒ様」 顔を上げ、静かな、しかし強い意志のこもった声でアストリットは続ける。 「ヒルダさん……あなたの高祖母様から授かった魔法円や呪文(スペル)をお伝えします。それを使えば、睡眠中に“あちらの世界”へ行くことが出来ます」 その瞳に宿るのは強い意志? それともすがるような懇願? いずれだったにせよ、その奥底にあるのは、ハインリヒに対する絶対的とも言える信頼。 ならば、自分は全力をもって応えなければならない。そう思うと、ハインリヒはアストリットに言った。 「私に理解出来ることだろうか?」 「それはなんとも申せません。この世界では見たこともない魔法円、聞いたことのない呪文ですので。ですが、ハインリヒ様ならきっと!」 アストリットの瞳に、再び強い意志の光が宿る。ハインリヒの知るアストリットは、風に吹かれたなら折れてしまい、雨に遭ったならその身を地に伏してしまう、美しくも儚い一輪の花であった。 だが、今ここにいるアストリットは強き雨風に、一度はうなだれながらもまた太陽に向かって起き上がる、儚く見えながらも強き生命を持つ薔薇だ。もしかするとこれはミカの影響かも知れない。 ふと。 “私も少なからずミカの影響を受けているかも知れないな” 『イグドラシルの秘法』によって殺されても生き返るとはいえ、決して心折れることなく前を向く。確かにハインリヒも、フォルバッハ家に伝わる魔導書に書かれていた「ラグナロク」のことを脅威ととらえたし、父テオバルトも若い頃からそのことに警戒してきた。 つまりは「義務的な使命感」を抱いていたのだ。 だが、今は違う。なんとかして王家の野望を潰さねばならないと、強く思っている。それはおそらくアストリットが巻き込まれているから、ということもあるだろう。しかし、もう一つ。アストリットの“表面”に出てきているミカの行動に、引きずられているようにも思うのだ。 アストリットの瞳を見たまま、ハインリヒは頷いた。 「ああ。私ならきっと理解出来る、いや、理解してみせる!」 そして笑顔を向ける。 アストリットがその笑顔に応えるように微笑み返してきた。これまで見た、どの笑顔よりも、それは輝いていた。それは決して月の魔力に惑わされたのではない。アストリットの心に宿る、強い意志の光が、そうさせるのに違いないのだ。 「それでは、目を閉じてください」 アストリットの言葉にハインリヒは目を閉じる。直後、額の中央に指を二本(おそらくは右手の人差し指と中指だ)、当てられた。 「『生命の樹』をイメージしてください。ですが、通常のものではなくビナーとケセドの間に『ダァト』という、潜在的なセフィラがあることを強くイメージしてください」 「ダァト?」 聞いたことのないセフィラだ。だが、質問するより、アストリットからのイメージ伝達を優先するべきだ。 「では、イメージを伝えます」 アストリットの、その言葉が終わった瞬間、不思議な感覚とともに情報が流れ込んできた。喩えるなら、海の底深くに放り込まれて宙に漂うような浮遊感に包まれ、たくさんの魔法円が重なった図形や、いくつもの文章が重なったものが額の中央を圧迫してくるような、そんな感覚だ。 おそらくはこれらの図形を解(ほど)けば必要な魔法円が現れ、文章が重なったものをほくせば、必要なテキストが現れる、そういうことなのだろう。 その情報が、ハインリヒの“中”に構築された「生命の樹」に飲み込まれていく。だが、一度は飲み込まれた情報群も、まるで「生命の樹」が水面(みなも)に映る影であるかのように通り抜けていく。 それでも情報群はハインリヒを無視することなく、「生命の樹」の周囲を回っている。 一体、何が起きているのだろう、と考えるハインリヒだったが、すぐに思い至った。アストリットは言ったのだ、「ビナーとケセドの間に『ダァト』という、潜在的なセフィラがあることを強くイメージ」せよ、と。 きっとその「ダァト」というものが重要なのだろう。ならば、それをイメージしなければ。だが。
「生命の樹」の各セフィラには、それぞれ象徴する色や星などがある。現に今、ハインリヒは「生命の樹」のセフィラそれぞれに、固有の色と惑星のイメージを紐付けてイメージしている。だからこそ、各種秘術を行いその効果を発揮できているのだ。 それが「ダァト」という聞いたこともないセフィラ。潜在的なものだというが、どのような書物にも載っていないとなれば、何をして良いのか、わからない。 せめて何か、とっかかりがあれば……。
そう思っていると、心の中に声が届いた。
“青紫色のボールをイメージして下さい”
瞬間、アストリットの声だと分かった。 その声に素直に従う。アストリットの言葉だ、何を疑うことがあろう? 脳裏に浮かべるは青紫の玉。それは平面の“円”ではなく立体の“球”。その球を必死に、しかし不要な緊張は除いて、いつも魔術の儀式を行う時のように「リラックスの中での集中」の意識を保つ。 すると、それまで生命の樹の周囲を回っていた情報が、青紫色の球に吸い込まれ、呑み込まれていく。 すると次の瞬間だった! 様々な色の紋様や文字が重なって黒くなった「何か」がどんどんとほどけていくではないか! そして頭の中が真っ白になった。
ふと気づくと、自分の腕の中でアストリットが柔らかい笑みを浮かべながら、ウトウトとなりかけていた。 「アストリット、アストリット!」 揺さぶると、眠そうにしながらも目を開き、アストリットが言った。 「ハインリ……ヒ、さ……ま、わた……しが、お伝え……するべき……こ、と……は……」 そこまで言ったところで、アストリットの体から力が抜けた。そして静かな寝息を立て始めた。制限時間を過ぎた、ということだろう。 ハインリヒはアストリットを、そっと抱き上げる。 「ご苦労様、アストリット」 自然とそんな言葉が笑みとともに口を突いて出た。
|
|