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作品名:婚約破棄された令嬢は婚約者を奪った相手に復讐するのが習わしのようです 第三部 作者:ジン 竜珠

第54回   知識の伝達
「今、申したような事情なのです」
 ハインリヒの胸の中でアストリットは、やや早口になって、(おそらくは一部を端折って)“ここ”にいる理由を話した。
「そうか」
 すべてを理解出来たわけではないが、およそのことはわかった。ハインリヒはアストリットを胸に抱いて応えると、右手で彼女の髪を撫でながら、聞いた。
「こちら側には、どのくらいの時間、いられるんだ?」
 まるで旅行者に滞在日程を尋ねるかのようだ。
「あまり、長くは」
 小さく、しかしはっきりと聞き取れる声でアストリットは言った。
「なので、ハインリヒ様」
 顔を上げ、静かな、しかし強い意志のこもった声でアストリットは続ける。
「ヒルダさん……あなたの高祖母様から授かった魔法円や呪文(スペル)をお伝えします。それを使えば、睡眠中に“あちらの世界”へ行くことが出来ます」
 その瞳に宿るのは強い意志? それともすがるような懇願?
 いずれだったにせよ、その奥底にあるのは、ハインリヒに対する絶対的とも言える信頼。
 ならば、自分は全力をもって応えなければならない。そう思うと、ハインリヒはアストリットに言った。
「私に理解出来ることだろうか?」
「それはなんとも申せません。この世界では見たこともない魔法円、聞いたことのない呪文ですので。ですが、ハインリヒ様ならきっと!」
 アストリットの瞳に、再び強い意志の光が宿る。ハインリヒの知るアストリットは、風に吹かれたなら折れてしまい、雨に遭ったならその身を地に伏してしまう、美しくも儚い一輪の花であった。
 だが、今ここにいるアストリットは強き雨風に、一度はうなだれながらもまた太陽に向かって起き上がる、儚く見えながらも強き生命を持つ薔薇だ。もしかするとこれはミカの影響かも知れない。
 ふと。
“私も少なからずミカの影響を受けているかも知れないな”
『イグドラシルの秘法』によって殺されても生き返るとはいえ、決して心折れることなく前を向く。確かにハインリヒも、フォルバッハ家に伝わる魔導書に書かれていた「ラグナロク」のことを脅威ととらえたし、父テオバルトも若い頃からそのことに警戒してきた。
 つまりは「義務的な使命感」を抱いていたのだ。
 だが、今は違う。なんとかして王家の野望を潰さねばならないと、強く思っている。それはおそらくアストリットが巻き込まれているから、ということもあるだろう。しかし、もう一つ。アストリットの“表面”に出てきているミカの行動に、引きずられているようにも思うのだ。
 アストリットの瞳を見たまま、ハインリヒは頷いた。
「ああ。私ならきっと理解出来る、いや、理解してみせる!」
 そして笑顔を向ける。
 アストリットがその笑顔に応えるように微笑み返してきた。これまで見た、どの笑顔よりも、それは輝いていた。それは決して月の魔力に惑わされたのではない。アストリットの心に宿る、強い意志の光が、そうさせるのに違いないのだ。
「それでは、目を閉じてください」
 アストリットの言葉にハインリヒは目を閉じる。直後、額の中央に指を二本(おそらくは右手の人差し指と中指だ)、当てられた。
「『生命の樹』をイメージしてください。ですが、通常のものではなくビナーとケセドの間に『ダァト』という、潜在的なセフィラがあることを強くイメージしてください」
「ダァト?」
 聞いたことのないセフィラだ。だが、質問するより、アストリットからのイメージ伝達を優先するべきだ。
「では、イメージを伝えます」
 アストリットの、その言葉が終わった瞬間、不思議な感覚とともに情報が流れ込んできた。喩えるなら、海の底深くに放り込まれて宙に漂うような浮遊感に包まれ、たくさんの魔法円が重なった図形や、いくつもの文章が重なったものが額の中央を圧迫してくるような、そんな感覚だ。
 おそらくはこれらの図形を解(ほど)けば必要な魔法円が現れ、文章が重なったものをほくせば、必要なテキストが現れる、そういうことなのだろう。
 その情報が、ハインリヒの“中”に構築された「生命の樹」に飲み込まれていく。だが、一度は飲み込まれた情報群も、まるで「生命の樹」が水面(みなも)に映る影であるかのように通り抜けていく。
 それでも情報群はハインリヒを無視することなく、「生命の樹」の周囲を回っている。
 一体、何が起きているのだろう、と考えるハインリヒだったが、すぐに思い至った。アストリットは言ったのだ、「ビナーとケセドの間に『ダァト』という、潜在的なセフィラがあることを強くイメージ」せよ、と。
 きっとその「ダァト」というものが重要なのだろう。ならば、それをイメージしなければ。だが。

「生命の樹」の各セフィラには、それぞれ象徴する色や星などがある。現に今、ハインリヒは「生命の樹」のセフィラそれぞれに、固有の色と惑星のイメージを紐付けてイメージしている。だからこそ、各種秘術を行いその効果を発揮できているのだ。
 それが「ダァト」という聞いたこともないセフィラ。潜在的なものだというが、どのような書物にも載っていないとなれば、何をして良いのか、わからない。
 せめて何か、とっかかりがあれば……。

 そう思っていると、心の中に声が届いた。

“青紫色のボールをイメージして下さい”

 瞬間、アストリットの声だと分かった。
 その声に素直に従う。アストリットの言葉だ、何を疑うことがあろう?
 脳裏に浮かべるは青紫の玉。それは平面の“円”ではなく立体の“球”。その球を必死に、しかし不要な緊張は除いて、いつも魔術の儀式を行う時のように「リラックスの中での集中」の意識を保つ。
 すると、それまで生命の樹の周囲を回っていた情報が、青紫色の球に吸い込まれ、呑み込まれていく。
 すると次の瞬間だった! 様々な色の紋様や文字が重なって黒くなった「何か」がどんどんとほどけていくではないか!
 そして頭の中が真っ白になった。

 ふと気づくと、自分の腕の中でアストリットが柔らかい笑みを浮かべながら、ウトウトとなりかけていた。
「アストリット、アストリット!」
 揺さぶると、眠そうにしながらも目を開き、アストリットが言った。
「ハインリ……ヒ、さ……ま、わた……しが、お伝え……するべき……こ、と……は……」
 そこまで言ったところで、アストリットの体から力が抜けた。そして静かな寝息を立て始めた。制限時間を過ぎた、ということだろう。
 ハインリヒはアストリットを、そっと抱き上げる。
「ご苦労様、アストリット」
 自然とそんな言葉が笑みとともに口を突いて出た。


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