「あの、ヒルダさん、今、なんて?」 念のため、聞き返す。 「口づけ。唾液が混ざり合うぐらいの」 ぐあ……。あたし、ファーストキスもまだなんだけど!? 頭がクラクラになっていると、突然。 「ダ、ダメです!」 大きな声がした。その声の主は確認するまでもない。アストリットが必死の顔で、あたしを見てた。 あたしとヒルダさんが見たせいか、ちょっとだけトーンダウンしたけど、それでも「ダメです!」と、しっかりとした声で言った。普段とは別人みたいだけど、気持ち、わかるな、なんとなく。 ヒルダさんが少し困ったような笑みを浮かべて言った。 「アストリット。口づけをかわすのは、マルクトでは、あなたなのよ?」 「そ、そういう問題じゃないんです!」 ちょっと強い口調でアストリットは反論する。うん、そうよね、確かにそういう問題じゃない。体はアストリットでも、中身は違うんだし。 ふう、と息を吐いてヒルダさんが言う。 「まあ、確かにそうよねえ。『体は、あなたよ』なんていうのは詭弁。こんなので説得できるわけないって、あたしも思ってたわ。でも、一応、言ってみたわけ」 そして椅子から立ち上がり、ヒルダさんはウロウロと歩き始める。 そんな感じで一、二分ぐらいした頃、立ち止まってヒルダさんはあたしたちを見て言った。 「人間の体は、肉体だけじゃない。エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体っていう霊的な体が次元を変えて重なり合ってるの」 「うん、ちょっと待ってくれるかな、ヒルダさん?」と、あたしは口を挟んだ。「そういうの、さっぱりわからないんだけど? いきなり難しい話されても困るわよねえ?」 同意を求めようとアストリットを見ると。 「え? ……あ、え、と。私は少し知識がありますので」 ……………………。 ああ、そうか。「イグドラシルの秘法」とか「魂寄せの秘法」とか、そういう魔術を伝える家だったっけ、シーレンベックって? じゃあ、こういう知識があってもおかしくないか。途中で“立ち寄った”「部屋」には「生命の樹」に関することや、あたしたちの世界とアストリットの世界との関係については書かれてたけど、エーテル体とか、アストリット体?みたいなことについては書かれてなかったもん。 「う〜ん」なんて唸りながら、右手の人差し指で頭を掻きながらヒルダさんは何やら考えて。 「うまく伝わるか自信ないけど」 そう言って、テーブルを回ってあたしに近づき、右手人差し指をあたしの額の中央に当てた。 あ。なんかイメージが浮かんできた。そっか、エーテル体は、生命エネルギーのようなもの、アストラル体は意識と感情が支配する体、メンタル体は意識と理性が支配する体、コーザル体は執着を離れた純粋な意識体。 「わかったかな?」 指を放したヒルダさんに、あたしは頷いて今のイメージを話した。 「そう、若干、違うところもあるけど、うまく伝わって良かったわ。さっきみたいに地図の知識を共有できるのと違って、相手がまったく知らないことを伝えるのって、ちょっと難しいのよ。両方の主観が影響するから」 笑顔になって、ヒルダさんは話を再開した。 「ここに連れてくるためにはエーテル質を交換する方法が確実なの。つまり血液とか唾液なんかの、体液。だから口づけ、って話をしたんだけど」 アストリットが、おずおずって感じで言った。 「アストラルレベルでは、無理なんですか?」 「うーん、ハインリヒには、その知識があるかも知れないけど、ないかも知れない。ミカは当然、知らないわよね?」 「うん」 苦笑いでヒルダさんは頷く。あたしは言った。 「ねえ、さっきみたいにイメージを伝えてくれるって訳には、いかないかな?」 「さっきも言ったけど、全く知らないことをイメージで伝えるのは難しいの。まして魔法円とか呪文が必要な場合、その手の知識がないとまず無理……」 そこまで言って、ヒルダさんは不意に右手の人差し指を鼻の頭に当てて考え込む。 どしたんだろ? なんか、思いついた、とか? しばらくして(多分二、三分ぐらい?)ヒルダさんはあたしを見て言った。 「成功の可能性は、ちょっと低そうだけど、一つ方法があるわ」 そしてアストリットを見た。
「おはようございます、ミカさん」 「ん……あ、おはよう、シェラ」 起こしに来たシェラに応えると、上半身を起こし大きく伸びをする。 「みんなに伝えたいことがあるから、このまま応接間に行ってもいい?」 シェラが少し困ったような表情で言う。 「駄目ですよ、ミカさん。どういう理由であれ、貴族のご令嬢が寝巻きのまま応接間などに行かれるのは、ご法度です」 「じゃあ、いちいち着替えるのも面倒だし、もう、ここで着るわ」 「かしこまりました。それではご用意いたしますので、しばらくお待ちくださいませ」 そう言って一礼すると、シェラは部屋を出て行った。
昨日、いろいろと詰めて決まった話。あたしはここの下級騎士になりすます、ってことになった。最初は無難にメイドの一人になるって話だったんだけど、あんまり変装にならないってことで、騎士にしようってことになった。下級騎士の場合、警備兵を伴って領内のパトロールとかあるんで、あちこち移動できるし、好都合ってことになったんだ。 シェラが持ってきた騎士の制服に着替え、あたしは大広間に行った。一番乗りだと思ったんだけど、シェラがゴットフリートさんに連絡してたおかげで、あたしが最後だった。なんか、残念。 ま、とにかく。 「朝食前に集まってもらって、ごめんなさい。ゆうべ、またヒルダさんとお話しして、今日、ウンディーネとサラマンダーがこのお屋敷の敷地に侵入するっていうのがわかったの」 ゴットフリートさん、イルザ、シェラ、ガブリエラ、ハンナが、それぞれに深刻そうな表情になる。なので、あたしは連中がどこから侵入するつもりか、閃くようにしてもらったことを話す。 ゴットフリートさんが腕を組んで言った。 「ならば、トラウトマンとも相談せねばならんな」 一同が頷く。ガブリエラが発言した。 「それでは、私も敷地内の巡回に……」 「いや。君は昨日、決めたとおり、領内でミカと行動を共にして欲しい」 「御意」 ゴットフリートさんの言葉にガブリエラが一礼する。 そのあと、トラウトマンさんを呼んでウンディーネたちが侵入してきた時の対応について話した。でも、これは他の騎士と連携する必要があるからって、朝食後に改めて話そうってことになったんだ。 ひと段落したところで、あたしはゴットフリートさんに言った。 「あの。ハインリヒにここに来てもらいたいんですが?」 「ん? 彼に何か用なのかね?」 「はい。今後のことについて、話しておきたいことがあるんです」 ヒルダさんが言った「もう一つの方法」でも、結局、ハインリヒに来てもらわないとならない。
ヒルダさんが言った方法、うまくいくといいけど。
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