ドミノマスクの男……フーゴ・フォン・ブロックマイアーと名乗った男が言う。 「君は、この国の人間かな? 風貌からすると、エリン島の人のようだけど。もし、エリン島の人なら、僕の言葉は……」 「問題ない。スラングまではわからんが、日常会話なら出来る程度には、この国の言葉は知っている」 影の国では、様々な「技」を学んだ。それは戦いだけではなく、日常的なものにも及んでいた。 そのうちの一つが、「他言語の速成習得」だ。 戦いの中にあっては、異民族あるいは極端な方言化が進んだ言葉を話す者たちと、剣を交えることも起こり得る。そのときに、相手方の言葉が分からないばかりに罠にはまったり、致命的な危機にさらされることは十分にあり得る。 そこで捕虜に訊く、または、こちらから相手方に潜入して言葉と状況から類推するなどして、言語を速やかに習得する。 もちろん間違えることもあるが、戦いの場において必要な言葉については、間違えたことはなかった。 起き上がろうとすると、わずかに体がきしむ感覚がある。それを察してか、モニカというメイドがクーフリンの背中に手を回し、起こしてくれた。そして腰の辺りに枕を置き、支えにする。手慣れていた。 フーゴが言った。 「この邸宅の庭に、人間がバタバタと堕ちてきた時には、仰天したよ。使徒ペトロスの祈りで墜落したシモンじゃないかと思ったさ」 どう答えていいか分からない。一応、この国の宗教についても調べたが概略であり、使徒ペトロスの詳しいところまでは知らない。 なので黙っていると、フーゴはバツが悪そうに苦笑いを浮かべて、頬を右の人差し指で掻く。 「ジョークのつもり、だったんだけどね、すまない」 ふと、フーゴの背後にいるモニカを見ると。
表情が動き、苦虫を噛みつぶしたようになっていた。かすかに「チッ」という舌打ちも聞こえたように思った。
「じゃあ、改めて。君の名前を聞こうか」 フーゴの語りかけに、クーフリンは考える。 名乗ってよいものか。 逡巡していると、フーゴはため息をついて言った。 「困ったね。名前がないと呼びようがない。それじゃあ、シモンに因んでシモン二号とでも……」 「フーゴ様はジョークのセンスがないので、黙っていて下さいますか?」 モニカが初めて口を開いた。 「あ、う、うん……。ごめん」 妙に萎縮した感じで、フーゴが頷く。 ちょっと驚いた。今見ただけで判断は出来ないが、この領地では主従が逆転しているのだろうか? 視線に気づいたのか、モニカがクーフリンを見て一礼して言った。 「失礼いたしました」 また苦笑を浮かべ、フーゴがクーフリンを見る。 「本当に失礼したね。僕が小さい頃の教育係だったんだよ、彼女は。だから今でも頭が上がらなくてね」 一口に「貴族」といっても、それぞれで事情は違うのか、と、クーフリンは妙な感慨を覚える。 「それじゃあ、改めて名前を聞きたいんだけど?」 本当の名前を言うわけにはいかない。今、自分には遠隔で聞く耳も、話す口もない。しかし、女王にはそれがある。だから、何かで自分の名前を聞きつけられる怖れがある。 ならば別の名を名乗っておこう。 そう、小さい頃の名前、とある屋敷で凶暴なオオイヌを殺して「クーフリン」と呼ばれる前の名前を名乗っておこう。 「セタンタだ」 「そうか」とフーゴが笑顔で頷く。 一応の挨拶はすんだ、と判断していいだろう。そう思って、クーフリンは言った。 「助けてくれたこと、感謝する。……一緒に女が一人、少女が一人、幼い子どもがいたはずだが?」 モニカが頷く。 「はい。お三人とも、こちらで救護いたしております」 「そうか。……それで、無事、なのか?」 また頷いて、モニカが言った。 「少女および幼いお子さんはご無事です。ただ、もう一人の女の方は右腕に骨折、体中に傷、体力の消耗も激しく、高熱も発しておられます」 あの二人の子どもは無事だったようだが、モリガンは危険な状態らしい。 だが無事に保護された。 それを知った途端、体中に痛みが走る。特に左肩と、両の大腿部。まるで忘れていた痛みを思い出したように。 痛みをこらえながら、クーフリンは聞いた。聞きたいことはたくさんあったが、まずは。 「俺は、どのくらい眠っていた?」 それに答えたのはフーゴだ。 「九、十時間といったところかな?」 驚いた。クーフリンの感覚としては、もっと意識を失っていたように思ったのだ。 フーゴが部屋の中を見渡す。 「ここは、ブロックマイアー家の別邸でね、今は僕のものになってる。セタンタ、君は運がいいよ、もし本宅の庭に落ちていたら、今頃、どうなっていたか」 確かにそうだろう。もしブロックマイアー家の本宅、その庭に落ちていたら、下手をしたら今頃は牢に繋がれていたかも知れな……。 その時、唐突に思い出した。 「……ブロックマイアー? もしかして、ここはブロックマイアー公爵領なのか?」 フーゴが頷く。 少しの時間をおいて、クーフリンは大きく息を吐いた。
幸か不幸か。
ブロックマイアー家は、大公家や旧選帝侯の子孫よりも、王家に対して強い発言力を持つ、と情報収集時に聞いたことがある。 うまく利用出来れば王家の……王妃グレートヒェンの動きを探り、先んじて動くことが出来るが、下手を打てば逆にこちらのことが知られる。
フーゴとの会話や、ここでの立ち回り方には、用心してしすぎることはないだろう。
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