夜遅く。 あたしはなんとなく眠れなくて、庭に出て座り込み、月を見上げていた。 対策会議を開くっていうことだったと思ったけど、あたしが長時間の「死」から“生き返って”間もないってこともあって、コンディションが万全じゃないだろう、ってことで、会議は明日になったんだ。 確かに、なんとなく体がふわふわしてる感じがあって、今ひとつ集中力がない気がする。こんな状態で会議やっても、多分、何も頭に入ってこないだろうし何かを考えられないと思う。 でも、ちょっと変だけど、どこか興奮している自分もいて、なんか寝付けないんだ。 だから、こうやって月を見上げてるって訳。 「今日は満月か。そういえば、じっくり見たことなかったな、こっちの月。……あ、あたしが知ってる模様と違う。あれ、何かな?」 「あれは月に貼りついたドラゴンだ」 あたしの呟きに、突然、応える声があった。 「うわビックリした!! ……ハインリヒ、いたんだ」 気がつくと、あたしから数十センチぐらい離れた隣に、ハインリヒがいた。 驚きでバクバクする胸を押さえながら、あたしは言う。ハインリヒは早朝からの会議に出席するため、ここに宿泊してる。一度フォルバッハ領に戻ってから、また来るっていう二度手間を省くために、ここに泊まることにしたんだって。 ていうか、全然、気がつかなかった。忍者か、この人? 「すまない、驚かせてしまったようだね、ミカ」 と、笑顔でハインリヒはあたしを見て、隣に座り込む。月明かりの下で見ると、また違った印象を受けるな。いつもは聡明で力強い感じだけど、今はなんていうか優しい好青年、って感じ。いつものハインリヒもいいけど、こっちの彼、ちょっといいかも……。 「? どうした、ミカ?」 「え? ……ううん、なんでもないわ。それより、何、“月に貼りついたドラゴン”って?」 「この国に古くから伝わる民話なんだが。
……その昔、この国の東の外れに『シレーナ』という街があった。いつの頃からか、その街の近くの湖にドラゴンが棲みつくようになった。ドラゴンは生け贄を要求し、それを突っぱねた街の太守はドラゴン退治の戦士団を送った。だが、ドラゴンの皮膚は硬く剣が通らない上、ドラゴンは毒を吐き出して、戦士たちを苦しめた。 やむを得ず、太守は山羊や羊といった動物を生け贄として送っていたが、そのうち、動物がいなくなってしまった。そこで人間を生け贄にすることにしたが、誰も生け贄になる者がいない。そこでクジ引きにしたところ、なんと生け贄に選ばれたのは、太守の娘だった。 娘は『公正なクジで選ばれたのだから』と、ドラゴンの元へ向かった。 ちょうどその頃、シレーナに一人の旅の騎士が訪れていた。事情を知った騎士は、薬草を煎じ詰めた液体で、神の加護を表す呪文を盾に徴(しる)し、街で一番、速歩(はやあし)の馬を手配して、ドラゴンの棲む湖に向かった。 そして、夜。湖の畔(ほとり)に立つ娘に湖底から現れたドラゴンが迫ってきた。それを見た騎士は全速力で馬を走らせた。騎士に気づいたドラゴンが毒の息を吐きかけたが、盾に徴された薬草の呪文で中和された。騎士は馬上鎗(ランス)を構えて、ドラゴンの開いた口に突撃した。その馬上鎗の勢いでドラゴンの頭部は爆ぜ飛び、胴体は吹き飛ばされて、中空の月へと飛んでいった。 かくして月にはそのドラゴンの体が貼りつき、模様として見られるようになった。 そのドラゴンを退治した騎士の名は聖ゲオルグ。この国の聖典にもその名が記されている」 「へえ、そうなんだ」 なんか、面白いな、そういう昔話。あたしは改めて月を見る。確かに翼を生やした、頭のないドラゴンが、丸まっているように見える。 「他にも」と、ハインリヒが話を続けた。 「下半身がヘビになっている美しき魔女、メルズィーネだという話も聞いたことがあるな。ミカの世界の月は、どうなんだ? どんな模様があるんだ?」 柔らかい声と笑顔で、ハインリヒが聞いてくる。
うみゅ。な、なんか、こういうシチュに弱いかも、あたし……。 ていうか、こんなに惚れっぽかったのか、あたしってば。
あたしは、スウィートな空気を孕み始めた自分の気持ちを吹き飛ばすように、大きく咳払いをしてから言った。 「あたしの世界では……。例えばお餅をついているウサギとか、片方のハサミが大きいカニとか、ワニとか。そんな感じかな?」 「なるほど」 そう言ってから、ハインリヒは不意に小さく笑い声を漏らす。 「?」 あたしが首を傾げたんで、ハインリヒは苦笑いを浮かべて言う。 「すまない。ちょっと思い出したことがあってね」 「思い出したこと?」 「ああ」 そう応えてハインリヒは月を見上げる。 「今から一年と十ヶ月ほど前になる。ヴァルタスハウゼン大公の邸宅で舞踏会が催されたときのことだ。その舞踏会は伯爵以上の爵位を持つ家柄の中でも、招待状が届いた者のみが参加出来るという、ある意味、特別なものだった。……まあ、早い話が情報交換や人脈作りの場だったんだが、同時に未婚の男子・女子の顔見せの場でもあった。要は将来的な政略結婚の準備でもあったんだ」 そうか、この世界の貴族のパーティーって、政略結婚のためのお見合いだったんだ。なんか、貴族っていうと憧れのイメージが強いけど、家柄とか権力とかいろいろ守るためには、個人の自由ってメチャメチャ無視されてんのね。 「私は頃合いを見はからって、庭に出て夜風に当たっていた。そのときだ。ある女性が口ずさむ“詩”が聞こえてきた」 そして一呼吸置いて、ハインリヒはその「詩」を口ずさみ始めた。
「おお、月に刻まれし首なしのドラゴンよ。なにゆえに汝の牙はないのだろう。もし汝が望むなら、今ここで我の体を汝が贄(にえ)に差し出すものを。なにゆえに汝は月にいるのだろう。もし汝が望むなら、我は汝に喰われるものを。汝の牙は我の腹を食い破り、腸(はらわた)を引きずり出す。そして心臓を貪るのだ。我の中にあるのは、“我自身”であることを証(あか)すために」
「んが……」 いけない、卒倒しそうになったわ。 「な、なに、そのグロい詩は……?」 ハインリヒが硬い笑みを貼り付け、遠い目をして応えた。 「だろう? 私も思い切り引いたよ。見た目可憐な女性の口ずさむ詩が、変態趣味の貴族の子弟が好みそうな、気持ちの悪いものだったのだからな。あまりのインパクトに、その詩を覚えてしまったよ。でも」 と、ハインリヒがまた柔らかい笑みになって言った。 「私が聞いていたことに気づいた彼女は、狼狽し、頬を紅くして逃げだそうとして、でも、脚がすくんでいたのか、その場で動けなくなっていた。興味を覚えた私は、失礼とは思いながらも、“詩”の意味するところについて尋ねたんだ。 実は当時、彼女は望まぬ婚姻を迫られていた。だが“家”のことを思って、本当の気持ちを言い出せずにいたんだ。そのときの可憐にして儚げな彼女を見て、私は心奪われてしまった。その女性こそが」 ハインリヒがあたしを見る。 「アストリット・フォン・シーレンベックだったんだ」 その瞳は、あたしの瞳を見ているようだった。 思わず胸が高鳴ったけど。
彼が見ているのは、あたしじゃない、アストリットなんだ。
|
|