朝の十時を回った頃、王城の中庭にある溜め池近くのテラスで、侍女たちに両手の爪の手入れをさせていたグレートヒェンは、突如、自分の体に起こった変化に、勢いよく立ち上がる。 侍女たちが驚いて尻餅をついたが、構わず歩き出す。 「へ、陛下、いかがなされまし……」 「ええい、どきゃれ!」 傍に控えていた侍女の一人が声をかけてきたが、それを手で半ば跳ね飛ばし、城内に入る。今回はやや余裕があるとはいえ、やはり時間が勝負なのだ。 早足というより、もはや駆け出してグレートヒェンは地下室へ向かった。階段にある松明の火を、地下室に持って入り、壁にあるランプに火を灯す。ここまでは、照明用ガスのパイプは引いていない。 そして、部屋を囲う四方の壁、その北面には、ある絵が描かれている。 全裸の男。大きさは普通の人間より一回り大きいサイズだろうか。そしてその男を取り巻くように、色とりどりの玉が、円を描くように囲っている。その数、十個。その玉の中には、魔術文字による単語が刻まれている。 グレートヒェンはその男の両足の中間辺りに左手を当て、繰り返し、呪文を唱える。 「テイロー・ケイハー・マイレー・ペイレー」 九回目で左掌(ひだりてのひら)が熱くなり、そこにルーン文字に似た魔術文字が、赤い色で浮かび上がる。 それを見たグレートヒェンは、くぐもった笑いを立ててから、高い声を上げて笑う。 「クッフフフフフ、フフフフ、ハハハハハ、アァッハハハハハハハ!」 そして、もう一度、文字を見る。 「やったぞ、遂(つい)に我が呪術が功を奏した! 何周目になるかのう……。じゃが、遂に、遂に! 『ユミルの眼』が妾のものになったのじゃ! これで時を戻っても、もはやこの眼は妾から離れることはない! それに、時が戻るまでに二時間の“時”を得た! これだけの時間があれば!」 そして昂揚した気分のまま、地下室を出る。王の執務室へ行き、王に声を掛ける。 「陛下、どうか妾とともに、おいで下さいませ」 王が無表情で頷く。大臣が文官たちと顔を互いに見合わせてから言う。 「女王陛下、恐れながら今、臨時軍事予算の審議書について議会用の確認を……」 「黙れ!」 一喝すると、黙ってしまった大臣たちを後に、王を連れて、地下室へ行く。
地下室で、グレートヒェンは巨人を見上げて呪文を唱える。 「万能の神よ、大いなる円に来たまえ。永遠の幸福、神の徳、完全なる喜び、あふれんばかりの慈愛、永遠なる礼をもって、あらゆる敵を、排除したまえ……」 そして、長々と続く呪文を唱え終わると、まとったものをすべて脱ぎ捨てる。意識を体に巡らせると、全身のあちこちに掌(てのひら)サイズの文字のようなもの、紋様のようなもの、紋章のようなもの、そして魔法円の様なものが浮かび上がる。その色は紫。 振り返り、呆けたように無表情の王に向くと、グレートヒェンは床にある服からダガーを拾う。そのダガーには、柄にも刃にも文字や紋様が刻んである。 グレートヒェンは、ゆっくりと王に近づき、呪文を唱える。 「スプレンド・マース・フリッデ・ツーイ・ボール。偉大なるアースの神オージン、オージンの魔法よ、偉大なるヴァンの女神フレーヤ、フレーヤの魔法よ。偉大なるセイズの力を我に与えたまえ」 すると、彼女の全身に浮き出ていた文字や紋様などが、彼女から離れ宙を舞ったかと思うと、一本の紐のようになって王の口に吸い込まれていった。 それを確認して満足げに微笑むと、グレートヒェンは最後の呪文を唱えた。 「夢は夢、現(うつつ)は現、夢は現に、すべては始めに、そしてともに同じ時間を」 ダガーを王の左の頸動脈に当て、左下から右上に向けて一気に引いた! 勢いよく、王の頸動脈から真っ赤な血潮が吹き出す。だが、その鮮血は壁に当たるでもグレートヒェンの肌を染めるでもなく、まるで生き物のように空中でうねって、天井まで行くとそこで渦巻き、床に下ってやがて人の形を形作る。さらに壁の巨人像から人形(ひとがた)に向かって、光の粒子が向かい、人形に細かな形と色を与え、赤一色の人形から、普通の人間……威容を誇る偉丈夫へと姿を変えた。 そこに現れた男は。 「お父様……」 万感極まってグレートヒェンは呟く。 男は目を開け、グレートヒェンを見て、口を開いた。 「久しいな、アンゲリカ」 「わ、私がお分かりですか?」 「ああ、姿が変わろうと、愛しいアンゲリカであることは、魂が感じている」 そう言って、男が微笑む。 「ああ、お父様!」 グレートヒェンが男に抱きつく。男もアンゲリカを抱きしめた。 その男は、死したときと変わらぬ姿のレオポルト・フォン・マイスナーその人であった。
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