ヨハンは続ける。 「我ら密偵は、市中の情報収集を行います。それは、貧民街や棄民街も例外ではございません。そしてしばらく前から、この似顔絵の女を貧民街で見かけるようになったのです。十四、五才程度の少年と一緒でした」 少年か。おそらくサラマンダーのことだろう。 そう思いながら、ゴットフリートは先を促した。 「それで?」 「連中の行動は、正直、把握できませんでした。もっとも、監視していたのは、私だけではなく、交代制ではありましたが」 「ふむ」 「そして昨日から、その姿を見なくなりました」 「見なくなった、だと?」 不意に胸騒ぎがした。 「はい」と頷いてから、ヨハンは言った。 「市中見回りの者たちと連絡を取り合いましたが、少なくとも市壁内都市、及び近隣のいくつかの村には、いないようです」 ゴットフリートは腕を組み、ソファの背もたれに背をあずける。 ノルデンから、キースリング領へと逃げた。おそらくは、こちらの捜索を逃れるため。他の貴族の領地ならば、ずかずかと乗り込んで、おいそれと探索が出来ないからだ。 「私からは、このぐらいしかお話しできることがございません」 ヨハンは、そう締めくくった。
ヨハンが二名の騎士とともに部屋を出た後。 「トラウトマン、いるか?」 ゴットフリートが呼びかけると、書棚の横の壁がスライドし、そこからトラウトマンと、他三名の騎士が現れた。 「こちらにおります」 そう言って、ゴットフリートの傍までやってくる。 「聞いていたな? どう思う?」 言いながら、トラウトマンを見る。 やや、考えたかのような間を置いて、トラウトマンは答える。 「私が聞いた限りですと、ウソは言っていないように思いましたが?」 やはり、そのように捉えたらしい。 「そうか。だが、気になることもある。伝えてくるならば、例のパトリツィアが近衛騎士だったということだけを伝えてくればよいものを、なぜイザーク卿のことまで書いたのか」 今一度、親書に目を落とす。ある意味で「一族の恥」という、令息の叛意(はんい)まで記したのは、いかなる意図か。 ゴットフリートは壁まで行き、紐を引く。程なくして、ヘルミーナがやって来た。 「お呼びでございますか、旦那様?」 「イルザを呼んできてくれ」 「かしこまりました」 一礼して、ヘルミーナが部屋を出る。 おそらくイルザならば、何かに気づくだろう。そう考えて、ふと彼女に頼り切りの自分に気づき、ゴットフリートは口元に苦笑いが浮かぶのを禁じ得なかった。
十分ほどしてやってきたイルザはソファに座って親書を読み、またゴットフリートやトラウトマン、他三人の騎士からの言葉・ヨハンの口ぶりなど、印象を聞いて、少し考えている。 ゴットフリートたちが見ている中で、顔を上げ、イルザは言った。 「あくまで、私の推測であることをお断りしておきます」 前置きして、イルザは言った。 「まず、キースリング侯ご夫妻が毒を盛られた、と書いてあります。ですが、誰が毒を盛ったかについては書かれてありません。これは、ゴットフリート様も、トラウトマン様もお気づきになられたと思いますが」 ゴットフリートはトラウトマンを見る。トラウトマンもこちらに顔を向けてきた。お互い、頷き合いゴットフリートはイルザを見て答える。 「毒味の時点で異常はなく、食(しょく)して後(のち)に異常を示した。となると、毒が混入されたのは、食卓でのこと。ならば、毒を入れたのはイザーク卿以外に考えられない。どのようなタイミングだったかまでは、わからんが」 頷き、イルザは言った。 「つまり、この『お家騒動』については、キースリング侯はわざわざ書く必要がないどころか、書くべきではないことになります。にも拘わらず、書いた。いえ、書かざるを得なかった。それは何故(なにゆえ)か」 焦(じ)らすつもりはないのだろうが、イルザは少し間を置いた。そして膝の上で組んだ両手を見ながら言った。 「向こうはこちらでのこと、つまりアストリット様のお命が狙われていることを掴んだ、それだけでなく、実際にパトリツィアことリタ・フォン・プリルヴィッツがアストリット様を殺害しようとしたところも、密偵の誰かが見ていた可能性があります。幸い、大事には至りませんでしたが、もし万が一のことでもあれば。あるいはそこまでゆかずとも、大怪我をなさったとあれば。……この親書には、毒を仕込んだ張本人については書かれておりません。また、パトリツィアのことについて、注意するように、と書いてあります。すなわち」 そして、顔を上げる。 「パトリツィアは危険人物である。自分たちはこのような目に遭った。だから、そちらも気をつけて欲しい。忠告だけは、確かにしておく。……自分たちには非がないことを強調する。パトリツィアの紹介状を書いた以上、アストリット様に何かあれば、その責めを負わされることは確実ですから」 トラウトマンが唸った。 「なるほど。予防線を張っておく、と、そういうことか」 頷き、イルザは続けた。 「そういう事情ですから、ヨハンという男の言うことも、信用してよいと思います」 ゴットフリートはわずかな間、考えて、言った。 「では、ウンディーネとサラマンダーは昨日までキースリング領にいて、今は行方知れず、ということだな?」 三人の騎士のうちの一人が言った。 「もしや、我が領内にいるのでは!?」 イルザが立ち上がって言った。 「アストリット様に、このことをお報(しら)せしましょう!」 トラウトマンはアストリットが実質的に「ミカ」であることを知っているが、他の三人は知らない。なので、イルザは、この場では「ミカ」とは呼ばない。また、実質的には違うので彼女は「お嬢さま」ではなく「アストリット様」と、呼び分けるようにしていた。
アストリット付(づき)のメイド、シェエラザードが、アストリットの所在を尋ねるゴットフリートの言葉に答える。 「お嬢さまでしたら、三十分程前に、ガブリエラ様とハンナを伴って、街への散策へとお出かけになられましたが?」 ゴットフリートはイルザと顔を見合わせた。思うことは同じだ。
何事もなければよいが……。
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