「……あの時の、ひょろ長い男……」 バザールの時にいた、あの男に見えた。 イザベラは、再び剣で斬りかかるけど、男はそれを避ける。あたしはその隙をついて、短剣で斬りかかった。でも、それもかわされ、男のショルダータックルで、あたしは数メートル飛ばされて尻餅をついた。 すると、イザベラはステップを踏んで後ずさりして、そこから背を屈めて一気に踏み込んだ! でも男はヒラリと体をかわし、斬り込む前のイザベラを背中に左肘を落とした。そしてそのまま、体勢の乱れたイザベラの手を、右の手刀ではたいて、彼女が取り落とした剣を奪う。 「イザベラ!?」 あたしは叫んで立ち上がったけど、間に合わない!! そして今まさに男が剣でイザベラに剣を振り下ろそうとした時! 不意に男の手がイザベラの首の直前で止まる。 「ウ……グ……」 男が呻く。かすかに震えてるみたい。なんだろうと思う間に、男は剣を林の中に振り投げ、道を走って逃げた。 「待ちなさい!」 立ち上がってあたしは追いかけたけど、男の足はかなり速い。でも、その先には十メートル以上ありそうな塀があった。 追い詰めた、そう思った時。 「……ウソ……」 男は、軽々と塀を跳び越えたんだ。 「まさか、アイツも『ユミルの脚』持ってるんじゃあ……」 ちょっとしてイザベラが追いついてきたんで、あたしは男が塀を跳び越えたことを話した。
そのあと、詰め所にいて交代で仮眠を取っていた、当直の騎士の人たち四名が、イザベラと一緒にその独房に武装して赴いたけど、既に、もぬけの殻だったそうだ。 そして翌朝。 トラウトマンさん指揮の下(もと)、独房やその周辺を捜索した結果、壁が一部壊されているのに壊れていないように偽装され、外との出入りが自由になっていたんだそうだ。 それからそこには、どうも二人の人間が生活していたんじゃないかっていう痕跡が見られたという。それで、サラマンダーは、ここに潜伏していたのではないか、ということになった。
今となっては、確認取れないけど。
早朝。 王妃グレートヒェンは、朝の散歩をしていた。その時、彼女にしか聞こえない声がした。 『陛下』 「お前か。どうしたのじゃ?」 『申し訳ございません、私の潜伏場所が知られてしまいました』 「……そうか」 この間者(スパイ)には、「ユミルの耳」の力をいくらか貸し与え、アストリットたちの動向を探らせていた。「ユミルの口」の力も貸し、こうして連絡を取り合うことが出来るようになっている。潜伏場所も、まず探られることのない場所の筈だったのだが。 「やむを得ぬな。そこは放棄せよ」 『今、街道から離れた、森の中におります』 「そうか」 そう応え、グレートヒェンは左腕、そして両脚に意識を集中する。今、左腕の力はサラマンダーに、両脚の力はウンディーネに、何割かを貸与している。そして貸与する際、ある程度だが、「ユミルの脳」により、サラマンダーたちの意識をモニターできる魔法を仕掛けておいた。 この力を持ったまま、逃走されたり、あるいは裏切られないようにするためだ。 意識状態を確認する限り、両者はどうも協力することにしたらしい。ウンディーネからは、かなりの「悔しさ」というより「怨嗟(えんさ)」に近い感情が伝わってくるから、シーレンベックの者たちに煮え湯を飲まされたのだろう。 そして二人は今、キースリング侯爵領にいるようだ。かなり南に下がったところだ。シーレンベック領からは、馬の駈歩(キャンター)で丸一日程度かかる場所だが、ウンディーネの脚なら、サラマンダーを背負っていても半日とかかるまい。 「今、ウンディーネとサラマンダーはキースリング侯爵領にいる。お前もそこへ向かい、まずは監視せよ。それからのことは、追って連絡する」 『かしこまりました』 「残念よのう……。お前が『女は殺さぬ』という『ゲッシュ』なるものを誓っておらなんだら、アストリットを殺すのは、遙かにたやすいものであったのに」 『………………申し訳ございません』 少しばかり、イヤミを言ってやる。 わずかに愉悦を感じたのもつかの間、気持ちを切りかえ、グレートヒェンは言った。 「仕方あるまい、それがお前の国のしきたりならば。とにかく、今はキースリング侯爵領へ行け」 『御意』 「期待しておるぞ、アルスターの番犬、クーフリンよ」 『……難破船からお救いくださった御恩は、忘れてはおりません。必ずや、お役に立って見せましょう』 そして、声は聞こえなくなった。
これで、シーレンベック領での間諜がいなくなり、動向を探るというアドバンテージがなくなった。 「別の間者を送り込むか……」 しかし、滅多な者は送り込めない。リタ・フォン・プリルヴィッツがしくじり、さらにシーレンベックとフォン・フォルバッハが手を組んだらしいことから考えて、外から来る者はたとえ王家からでも、かなり警戒されることは想像に難くない。 別の方法を考えた方がいいかも知れない。
※駈歩(キャンター)……時速約二十キロ。丸一日(二十四時間)ぶっ続けだと仮定すると、大体、東京→神戸間程度になるらしいです。かなり遠いけど、本作の舞台である広大な王国全土から見ると、そうでもない距離。もっと遠い侯爵領もあって、そこから先は庇護地・半自治領などがあったりなかったり。
ちなみにシーレンベック領とフォルバッハ領の間は、馬車(二頭立てで時速約十キロ程度と想定)で普通に移動して、およそ一時間、シーレンベック領から王都までは、約二時間程度。フォルバッハ領からも王都までは約二時間(王都から等分の距離にある)。
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†††過去のお話†††
パトリツィアことリタ・フォン・プリルヴィッツは西の人工林を抜け、監獄がある敷地との境の塀まで来た。そして、塀をノックする。 しばらくして、塀を跳び越え、あの男……クーフリンが現れた。 着地したクーフリンにリタはバスケットを手渡す。 受け取ったクーフリンは、無表情に言った。 「サラマンダーが、腹を空かせて、文句を言っててな」 「悪かったわね、今日は最後の見回り当番だったの。だから、遅くなったわ。……ねえ、前から聞きたかったんだけど」 「ん? なんだ?」 バスケットの中身を、持参した皮袋に移し替え、クーフリンはリタを見た。 「あなたの言葉、ちょっと訛(なま)りがあるのよね。出身は、どこ?」 「エリン島だ」 「なるほど、他国だったのね。エリン島っていうと、セイズや色んな魔法が残ってるって聞いたけど、この塀を跳び越えたのも、その魔法?」 皮袋を手に、クーフリンは頷く。 「ああ。我が師スカアハから教わった『鮭飛び』という跳躍術だ」 「……変わった名前ねえ、その術?」 少し呆れて、そして聞いた。 「お屋敷の中の様子は、どう?」 「俺の『耳』は、こういう塀とか壁のような遮蔽物があると意味をなさないから、分からない。塀の外へ出ないとな。……そういえば先日、ここの敷地にある絞首台で、処刑が行われたようだ。アストリットの弟、ヴィンフリートが話す声が聞こえた。ここの敷地内で処刑が行われるのは、余程のことらしい。もしかすると、お前のような潜入者がいて、バレたのかもな。お前もせいぜい気をつけることだ」 肩をすくめて、リタは応える。 「そうね。もっとも、ここでは一番下っ端のメイドだから、用心されることなんか、ないと思うけど」 「じゃあ、お互い、任務を果たそう」 こちらが応える前に、クーフリンはジャンプし、塀を跳び越えた。 「せっかちな男は嫌われるわよ」 呟き、リタは空(から)になったバスケットを手に、再び林の中の道を歩いて行った。
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