「流せ!」 また別の男の号令がして、複数の軽装兵が現れた。二人一組で一つの大きな樽(たる)を持っている。兵たちは横幅一杯に並んだ。そして樽の上蓋(うわぶた)を叩き割ると、中に入っている液体を、道にぶちまける。 ちょうどそのタイミングでウンディーネは着地した。そしてすぐに気づいた。 「ンなッ!? 油ですってッ!?」 樽に入っていた液体は油だった。ヌルリと滑って、ウンディーネは無様に転ぶ。立ち上がろうとしたが、油のために滑り、立つこともままならない。 すると、樽を待った兵たちの背後から、騎士が三人ほど現れた。そして弓を手に火矢をつがえる。
そうか、この道に追い込むための、弓兵だったか。
気づいたが、もう遅い。油のために立つことが出来ない以上、自慢の脚力は何の頼りにもならない。四つん這いになって脚に力を入れても、油で滑って、前のめりになるだけだ。むしろその勢いで頭や肩を石畳に打ち付けて、自分にダメージが来るだけ。 林のときといい、今といい、向こうには相当な知恵者がいるらしい。 もはやこれまで。観念し、ウンディーネは目を閉じた。これまで殺し屋として、相手を闇討ちし、狩ってきた。まさか、自分がこうして襲撃され、狩られる側になるとは思いもしなかった。これまでの殺しの手段は、刃物による斬殺・刺殺、ロープなどによる絞殺。火を使ったことは一度もない。 だが、これまでの所業は火あぶりに匹敵するということだろう。
そう思い、口元に自虐の笑みが浮かんだ時だった。 かすかにオレンジのような香りが漂ってきたかと思うと、何かが風を切る音が立て続けに耳に届き、騎士たちの苦鳴が聞こえ始めた。 何事と思って目を開けると、兵や騎士たちが腕や胸を押さえて、ある者はうずくまり、ある者は跪(ひざまづ)いている。 そして悲鳴を上げて左手にある横道から一人の騎士が、二十エル(約八メートル)ほど先の空中を飛び、一軒の家の壁にぶち当たって、転がった。首が妙な角度に曲がっている。騎士は壮年らしい風貌だ。ひょっとするとこの場のリーダーで、先に号令をかけた者かも知れない。その騎士が飛んできたところから、一人の若い男が現れた。一見、どこにでもいる少年に見えるが、特徴的なところが一つ。 まくり上げた右のズボン、そこから覗いているのは、木製の義足だったのだ。 「新手(あらて)が来る前に、逃げるぞ!」 こちらを見て少年が言った。素性が分からないが、この場は味方だと判断する。それは、あの林での一戦の時にも、かすかにオレンジのような香りを嗅いだ記憶があるからでもあった。あの時は、ほかにも手勢がいたように思えたのに、この香りがかすかにしている間、その動きがなかったのだ。だから、彼女は、この香りを味方と判断した。 ウンディーネはブーツを脱ぐと、滑らぬよう用心しながら裸足で少年の方に向かう。兵や騎士たちを見ると、短めの矢が刺さっており、騎士たちは動かなくなっていた。
しばらく歩き、横道に入ってそこを抜けた時、一人の若い騎士に遭遇した。三十エル(約十二メートル)ほど右手側になるだろうか。身構えてその騎士の顔を見た時。 思わず目を見開き、ウンディーネは言った。 「……貴様は、ヴィンフリート……!」 婚約破棄の時に、ハインリヒ・フォン・フォルバッハに白手袋を投げつけ、勇ましく決闘を申し込んだ、アストリットの弟。胸の中に、ドス黒い炎が渦を巻く。 この場は、せめてコイツだけでも屠って、一矢報いたい。 向こうも、こちらに気づいたらしい。剣を抜き、構える。 「遅いッ!」 ブーツを脱いで油の上を歩いたが、その後、砂が堆積(たいせき)している石畳の上を歩き、砂粒のおかげでもう滑らなくなっている。ウンディーネはダッシュをかけて、ヴィンフリートに向かった。とりあえず殴り倒し、アバラを踏み折って、そのまま心臓を潰してやろう。 そしてまさにヴィンフリートの喉元に手をかけようとした時!
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