ハインリヒが時計の使い方について説明を始めた。 「今、この時計は魔術的に『クリア』な状態にしてある。ここから君専用に調律する」 そう言って、ハインリヒは風防に指を当て、左側を支点にして時計の上方向に九十度以上、回転させた。そして銀色の長針を、ルビー色の文字盤に対して九十度、起こす。 「この長針に君の指を指して、血をつけて欲しい」 「え? あたし、糖尿病じゃないから血糖値を計る必要ないわよ?」 「え? 血をつけることと、糖尿病と、何か関係があるのか?」 「……あたしの世界じゃ、血糖値っていって、なんだったかな、伯父さんが検査キット使って指先に針を刺して……。ゴメン、よく覚えてないわ」 ハインリヒが少し残念そうな表情をしたけど、気を取り直したようにあたしに長針の先で指を刺すように促す。 あたしはあたしで、ボケたつもりの話がなんかマジな話になりそうだったんで、ちょっと気まずい思いをしながら、長針で左手の人差し指の先端を刺した。 ちょっとチクッとしたけど、そんなに痛いってほどじゃなかった。なのに、思った以上に血が垂れてて、ビビってると、ハインリヒが小さく呪文の様なものを唱えた。 よく聞き取れなかったけど、最後に「エイメン」って言ったのはわかった。すると、銀色の長針を伝って文字盤に流れたあたしの血は、まるでスポンジに染みこんでいくかのように、文字盤に吸い込まれた! これまでいろいろと体験して、いい加減、こういうことに慣れててもいいのに、あたし、ギョッとなって裏返ったような声が喉から出ちゃった。 ハインリヒがちょっとだけ笑って、針を戻すと、風防も戻して言った。 「これで、この時計は君専用になった。あとは竜頭を動かして、君自身の手で時間を合わせて欲しい。そうすれば、この時計の術が発動する」 「うん、わかった」 あたしは会議室にある柱時計を見て、竜頭を回した。 回しながら、ふと思い出したことがあったので、あたしは言った。 「そういえばさ、一緒に旅に出た人がいた、ってイルザから聞いたんだけど、このアイテムが一つっきりだったら、その人たちには効力ないよね?」 「ああ、それなら」と、ハインリヒは言った。 「君が言う『周回』を重ねる中で、何周目の時だったかな……?、こちらの邸宅にはスパイがいるらしいということになったので、民間から募った、外国への使節団を装ったんだ、私とシーレンベック卿との二人だけの合意でね。もちろん、今回も。だから、シーレンベック領を出た直後、同行した者たちは変装を解き、戻ってきた」 「スパイ、か……」 アメリアとか、サラマンダーとか、リタとか、いろいろ居たもんなあ……。 そう思っていた時。 会議室のドアがノックされた。ゴットフリートさんが入室の許可を出すと、入ってきたのは、お屋敷の警護長、トラウトマンさん。 「失礼します。ノルデンの行政代行官から、早馬で連絡が参りました。……ウンディーネが現れたとのことです」 「そうか」 と、ゴットフリートさんが厳しい顔をする。あたしは驚いてた。 「……すごい、また、イルザの作戦、大当たりだわ……」 以前、ウンディーネがノルデンに潜んでるっていうんで、その付近で動き回って、あと少しっていうところまでヤツを追い詰めたけど、逃げられたっていうことがあった(……んだって。あたしはその場にいなかったから、話、聞いただけなんだけど)。その時、ウンディーネはもうノルデンには戻らないだろうから、また「襲撃待ち」に入らないとならないのかなって思ってたら、イルザがこんな作戦を立てたんだ。
「ノルデンを包囲するように、周辺の町や村に一斉に捜索をかけましょう。それを一定期間、続ければ、奴は我々が『もうノルデンにウンディーネが戻ることはないと判断した』と考えるはず。また、そうすることで同時に奴を遠く離れた場所へ移動できないように、そして周辺の町に潜伏できないようにします。そうすれば、程(ほど)なくして奴はノルデンに戻り、潜伏するはずです。なので、平行してノルデンにも、秘密裏に似顔絵を回し、ウンディーネの顔を知っている者で網を張ります。必ず、奴は、かかります。そこを押さえれば」
その時は「そんなにうまくいくかなあ?」って思ってたけど! ほんとに、すごいわ、イルザって! ゴットフリートさんが立ち上がる。 「よし、急いでノルデンに向かおう」 ヴィンフリート(真)も立ち上がる。 「僕も行きます! 姉上の命を狙う不埒(ふらち)者は、僕がこの手で成敗してやります!」 「じゃあ、あたしも……」と言いかけたら、ヴィンフリート(真)がこっちを睨んで大きな声で、一語一語、ハッキリと言った。 「あなたはここに残って下さい!」 「……いや、でも、ヤツの脚に対抗するには……」 「聞こえませんでしたか? あなたはここに残って下さい!」 「………………」 「あなたの体は姉上の体、毫末(ごうまつ)ほどの傷も姉上のお肌につけるわけには、いかないのです!」 「…………………………」 「わ・か・り・ま・し・た・ね!?」 「あ、ああ、え、えと、う、うん。了解、だわ……」 ゴットフリートさんが咳払いをして、言った。 「と、とにかく。支度をするぞ、ヴィンフリート」 「かしこまりました」 一礼し、会議室を出ようとして、もう一度あたしを見て、何故か「チッ」と舌打ちをしてヴィンフリート(真)は会議室を出た。 ちょっとおいて。 ゴットフリートさんが言った。 「すまない、ミカ。幼い頃からヴィンフリートは、アストリットと一緒に過ごすことが多かった上に、私もことあるごとに『アストリットを護ってやってくれ』と言い聞かせていたからな、どうにも、姉を慕う、という以上の感情をヴィンフリートは抱いてしまっているようだ」 「ああ、それはなんとなく感じました」 苦笑いで答えると、あたしは聞いた。 「そうだ、イルザはここの敷地の北東の林にいるんですよね?」 「ああ。イルザの所に行くのか?」 「はい、何か、目印とかありますか?」 「そういったものはないな。だが、行けばわかる」と、ゴットフリートさんは笑顔になった。 「彼女も、ミカが行けば喜ぶだろう」 あたしも笑顔を浮かべて頷いた。彼女とは、アストリットと弟のヴィンフリート、っていう表向きの関係とは違う、不思議な友情の様なものを感じているんだ。
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