フォルバッハ領からマイスナー領へ行くには、山を迂回せねばならず、王都へ行くよりも時間を要する。早馬ならいざ知らず、貴族の乗る馬車だと、六時間近くかかってしまう。 なので、この日は控え、翌朝早く、出発することになった。 夜。 バルドゥルは本宅に戻り、ヒルデガルトはミリヤムに体を拭いてもらっていた。 適温の湯に浸した石けんで汚れを落とした後、ハーブを煮て冷ましたぬるま湯で体を拭いてもらいながら、ヒルデガルトはミリヤムに礼を言う。それに答えながら、ミリヤムは言った。 「ヒルデガルト様、こう申し上げては失礼ですが、今、マイスナー領にお戻りになるのは、得策ではないと、私は考えますが?」 「ええ、それについては、あたしも考えました。父レオポルトの子は、姉アンゲリカとあたしだけ。父は、よそに愛妾(あいしょう)を囲うことはしていなかったので、他に子はいません。それをあたしは、母エルマを深く愛していたからだ、と思っていました……」 この先は、さすがに憚(はばか)られた。
父と姉は、情を通じ合っていたのです。
それが純粋に男女の愛だったのか、性愛だったのか、それとも姉アンゲリカが何らかの魔術を行使したが故に起こった、反動のようなものだったのか。 それを知る術は、もはや皆無。しかし、それにより母エルマはユミル復活のための贄(にえ)とされた。
おぞましい近親愛が肉親を巨人のエサに仕立て上げたのだ。断じて許していいことではない。 つまりは。 「だから、今、あの家に行き、なんとしても……一刻も早く魔術書を押さえないとならないのです」 「……え? すみません、ヒルデガルト様、仰(おっしゃ)るお言葉が、繋がりません」 「え?」 ミリヤムの、困惑したような声が耳に届いた時、ふと、気づいた。口にしてはならないことを頭の中で呟いてから、結論だけを口にしてしまった。これでは、何を言いたいのか、相手にはさっぱりわからないだろう。 だから、少し考えを整理し、ヒルデガルトは言った。 「姉が所持している魔術書を早く押さえる必要があります。もちろん、誰が実行してもユミルを復活させられる、といったものではないのですが、そのほかの魔術は実行可能な怖れもあります。それを防がないと」 「なるほど。それなりの知識があれば、魔術書が悪用される怖れがあるのですね?」 「ええ。ですから、早く押さえないと」 姉が死んだとなれば、ユミルの他のパーツを自身のものにすることが可能になる。もし知識と素養のある者がその魔術を実行すれば、その力を手に出来るのだ。だから、それに先んじてヒルデガルトが魔術を行えば、少なくともその力を悪用される心配はなくなる。もっとも、今のコンディションではユミルの力をこちらのものにする事は無理だろう。だが、それでも魔術書さえ手にすれば、不安材料を潰すことが出来るのだ。
体を拭いてもらい、服を着る手伝いをしてもらった後、ヒルデガルトは言った。 「本当に何から何まで、すみません。それで、あの……」 「なんでしょうか?」 洗面器を手に、振り返ったミリヤムは笑顔でヒルデガルトに応える。 その笑顔を見た瞬間、「しまった」と思った。「なんでもない」とごまかそうと思ったが、いずれは言わねばならぬこと、意を決し、ヒルデガルトは言った。 「明日、マイスナー領へ行けば、おそらくあたしはそこに引き留められることと思います。姉がいない今、フォン・マイスナーの血を嗣(つ)げるのは、あたし一人なのですから。そして父は固執(こしゅう)すると思うのです、『ユミルの力』、それに裏付けられた『唯一の選帝侯』という立場、『世界征服の野望』に!」 「……申し訳ございません、私はレオポルト様の『人となり』をよく存じ上げませんので、今のお言葉を肯定も否定もできません。ですので、その先をお話しになられても、私の理解の範疇(はんちゅう)を超えます」 先手を打たれたような気がした。出来ればここで話をしてミリヤムを味方(・・)にしておければ、バルドゥルも説得できると思ったのだが。
かなりの博打(ばくち)ではあるのだが、強みである「ユミルの力」を使えるのがマイスナーだけではないことを、フォン・フォルバッハの立場で、それとなく宣告してもらえればと思ったのだ。
|
|