感情の昂(たか)ぶりも、やや落ち着いて、しばらくしてから。 「あたしを、マイスナー領へ連れて行ってはもらえませんか?」 ヒルデガルトは、そう申し出てみる。だが、案の定、バルドゥルはミリヤムと顔を見合わせ、難しい表情になる。 「ヒルダ、君の気持ちもわかる。だが……」 「わかっています! そういうことをすれば、あなたにご迷惑が……」 「そうじゃない!」 と、ヒルデガルトの言葉を遮ってバルドゥルが声を大きくして言った。 思わず肩が震える。 バルドゥルが申し訳なさそうにあさっての方を向いて、頭を掻いてから言う。 「すまない、大きな声、出して。……でも、今の君は、動ける状態じゃないだろう? 無理はしない方がいい」 ミリヤムも頷く。確かに今のヒルデガルトは、満足に動ける状態ではない。まともに動かせるのはユミルの力が宿った右腕ぐらいで、立つことさえ難しい。二人が……バルドゥルが気遣ってくれる、その想いが、じんわりと心にしみてくる。 しかし。 「お願いします! あたしなら、大丈夫です!」 想いを乗せてバルドゥルを見る。 バルドゥルが困ったように、少し呻く。 その時、表のドアがノックされた。 『失礼いたします。オッペンハイムでございます。至急、お嬢さまにお伝えしたいことが。お取り次ぎをお願いいたします』 聞こえてきた、やや高い、中年男の声は。 「……え? オッペンハイム? まさか……」 その声に覚えがある。思わずバルドゥルを見るが、答えたのはミリヤムだ。 「はい。マイスナー家において、執事をなさっている方のお一人、オスカー・オッペンハイム様でございます」 耳を疑った。何が何だかわからないでいると。 「馬に乗せて、君をここに担ぎ込んだのを、見ていたヤツがいてな。それも複数。まあ、途中、街の中を通るし、時間的に、まだ人通りがあっても不思議じゃなかったからな。それから……」 と、バルドゥルがバツが悪そうになる。 なんだろうと思っていると。 「君が意識を取り戻した夜、ここで君にスープを振る舞ったよな? あれはここで作ったものじゃなくて、本宅で作ったものを持ってきて、ここで温(あった)めてたんだ。君の看病で、ミリヤムは自分の晩飯を作れないだろうし、俺もその日は本宅で用事があったから、ここで晩飯が作れなかったからな」 いきなり何を言いだしたのか、と思っていたら、部屋のドアが開いて、オッペンハイムが入ってきて、一礼した。 オッペンハイムは初老の古株で、父レオポルトの専属執事である。彼に知られるということは、父に、そして姉アンゲリカにも知られるということのはずなのだが。 チラ、とオッペンハイムの方を見てから、バルドゥルは言った。 「あの日は昼間、家の用務で王都へ行っててな。帰ってから親父にその時のことを報告していた。で、気がつかなかったんだ、スープを作ってる最中にこの人が来たこと。まあ、キッチンにいたから、来客にまで気が回らなかったのは、やむを得なかったと思ってくれ」 と、もう一度、オッペンハイムをチラ見する。 「そんで、まあ、噂を聞いたそうで、この近くまでついて来てて、それにも気がつかなくて。この別宅の外で俺を出迎えたミリヤムと俺の会話を、聞いちゃったらしいんだな」 すると、そのあとをオッペンハイムが続けた。 「『彼女の加減はどうだ?』『まだ意識は戻りません』『実はこんな手配書が回ってきているんだが』『それは私も目にしました。本宅の方(かた)にお届けいただいたので』『もしかしたら彼女、ヒルデガルトじゃないかな?』。……このような会話を耳にしましては、私も看過(かんか)できませぬ故(ゆえ)、お二人に事情を伺うべく、ここにお邪魔いたしました」 「そういうわけだ」 と、バルドゥルが苦笑する。 なるほど、と、ヒルデガルトは理解した。バルドゥルとミリヤムの、ある意味、余裕ある態度は、すでにオッペンハイムに知られているからだったのか、と。オッペンハイムが一度、バルドゥルを見てから、ヒルデガルトを見て言う。 「お嬢さま。ご安心くださいませ。わたくしの来訪にも、バルドゥル様は決してお嬢さまとのご面会をお許しにはなりませんでした。あの時点では、まだお嬢さまかどうか、はっきりとしておりませんでしたし、助けた女性にも、よほどの事情があるのだろうとバルドゥル様が推察なさっておいででしたので。ですので、わたくしとしては、その際にこちらの事情をお話しし、お嬢さまのお体が快癒なさってから、改めて私にご連絡くださる、それまではわたくしもダンマリを決め込む、そういうことになっておりました。その後、レオポルト様には偽りの用務を申し上げてこちらに伺い、お二人から間違いなくヒルデガルト様であるとお伺いし、ご無事であられたかと、安堵で胸をなで下ろしていた次第でございます」 そしてオッペンハイムはバルドゥルに一礼する。 どうやら、ここにも「密約」があったようだ。だが、オッペンハイムが本当に誰にも言わずにいたのだろうか? 事実、誰一人としてマイスナーの者は来なかった。バルドゥルがフォルバッハの名前の元に追い返した可能性もあるが、そうするためには「フォルバッハ家」で秘密を共有していないとならない。 そのような気配はなかったと感じる。 となると、オッペンハイムは約束を守ったと考えた方がいいだろう。 オッペンハイムが姿勢を正す。 「わたくしが本日、ここに参りましたのは、お伝えせねばならないことが出来たからでございます」 何事かと思ったが、およその見当はついた。 だから。 「アンゲリカ様が……姉上様がお亡くなりになられました」 この言葉にも、卒倒するほどの衝撃を受けずにすんだのだ。
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