ヒルデガルトが目を覚ますと、傷の手当てがなされ、ベッドに寝かされていた。 「お目覚めでございますか?」 ベッド横にいた一人の若い女性が、優しい笑みを浮かべてヒルデガルトを見る。部屋には照明が点灯しており、夜であることを連想させた。 「こ……こ、は……?」 女性が答える。 「ペーター・フォン・フォルバッハ侯爵のお屋敷でございます」 「フォルバッハ侯の……?」 考えてみるが、頭がうまく働かない。マイスナー領から山をグルリと迂回した、随分遠くだ、というのがわかる程度で、どこをどう逃げたか、さっぱり思い出せないのだ。まさかと思うが、巨人の右腕の力で強引に山越えでもしたのだろうか? その時、ドアが開く音がした。そして。 「お? 気がついたか?」 一人の青年がやって来て、ヒルデガルトを覗き込む。 「あなた……は?」 「俺か? 俺は優秀な兄と違って、出来損ないの次男坊、バルドゥルさ」 笑顔で青年……バルドゥルは言う。 「ああ、これ。今夜の残りのスープで悪いんだけど、温めてきたから、もし飲めたら」 トレイを見せる。いい香りが漂ってくる。スープ皿に、水の入ったガラスコップ、そして、パンがあった。女性(察するに、この家のメイド)が言った。 「バルドゥル様、そのような用務は、私が……」 「ああ、いいっていいって。今、兄貴の看病で、みんな忙しいし、気が張り詰めてる。これぐらい、俺がやんないとな」 そして、近くにあったナイトテーブルの上にトレイを置く。そのやりとりを聞くでもなく聞いていると、突然、背負ってきた背嚢(ザック)のことを思い出した。 「! 秘伝書!」 起き上がろうとして、全身に痛みが走り、苦鳴を上げたヒルデガルトは、ほんのわずかベッドから浮いて、またすぐに横になった。メイドがやはり柔らかい笑顔で言う。 「まだ、横になっていられた方が。お医者様のお話では、体の傷は打ち身や擦り傷程度で骨に異常はないそうですが、ダメージが全身に及んでいるので、一週間程度は満足に動けないだろうと」 確かに、体全体が痛い。 バルドゥルが椅子に座り、ヒルデガルトに言った。 「もしかして、これかい? 中身は見てないけど」 床から、汚れ、ところどころ破れのある背嚢を持ち上げる。黙って頷くと、バルドゥルは言った。 「君、名前は?」 答えるべきかどうか。 しばらく無言でいると、バルドゥルが背嚢を手に、ニヤリとして言った。 「これは、君を助けた礼にもらっておくよ、見たところ、君、文(もん)無(な)しみたいだからさ」 「バルドゥル様!?」 メイドは驚き、ヒルデガルトは睨んだ。なんと卑怯な男なのだろう。やはり貴族の男子には碌(ろく)な者はいない。今すぐ「ユミルの右腕」でくびり殺してやろう。 そうは思うが、体が動かせない。 バルドゥルが苦笑を浮かべる。 「逆を考えてみようか。名前も素性も知れない者を、君は匿(かくま)うかい?」 至極、正論だ。 観念して、ヒルデガルトは言った。 「……ヒルデガルト」 これ以上は、言わない方がいいだろう。 真面目な表情になって、ヒルデガルトを見るとバルドゥルは言った。 「ヒルデガルト・フォン・マイスナー。選帝侯フォン・マイスナーのご息女で、間違いないかな?」 呼吸が止まりそうになった。どこから素性が知れたのだろう? 背嚢は市井(しせい)で買い求めた物だし、自分自身、素性がわかるような物を持ってはいない。 驚きとともにバルドゥルを見ていると、彼は穏やかに答えた。 「手配書が回ってきてるんだ。フォン・マイスナーのご令嬢・ヒルデガルトが何者かに拐(かどわ)かされた。ついては情報を求む。人相書き、服装、持ち物。そういったものが記してある」 「手配書……?」 「君をここに運び込んでから丸一昼夜、経ってるんだ。手配書は今日の昼に届けられた。ご家族が心配してるぜ?」 そして、バルドゥルはズボンのポケットから出した、折りたたんだ紙を開いてみせる。確かに、似てるとまでは言えないまでも特徴をとらえた人相書き、逃げた時の服装に背負っていた背嚢などが記してある。 なんということか、一昼夜も自分は眠りこけていたのだ。手配については、想定していないことではなかったが、本来は執事とともに、この国を逃げおおせるはずだった。 計画が甘かったのだ。 しばらく沈黙の時間が流れた。 バルドゥルが真剣な表情で言った。 「よかったら、事情を聞かせてくれないか? この手配書、どうもキナ臭いんでね」 これにはメイドが問いを発する。 「キナ臭い? 私には、普通の手配書に思えましたが?」 苦笑いを浮かべて、バルドゥルは言った。 「これまでの選帝侯制度の廃止、それにフォン・ドゥンケル伯の領地での騒ぎに、拐かされた、なんて手配のわりには、ボロッボロの状態のご令嬢。誘拐犯に良からぬことをされて、逃げてきたのかとも思ったが」 バルドゥルの視線を受け、メイドが頷く。 「お医者様の話では、そのような痕跡はなかった、と」 「と、なると、だ。君はお家(いえ)で起きてる、何らかの騒動とか企(たくら)みとか、そういうものから命がけで逃げてきたんじゃないのか? なんなら、話を聞くぜ? それとも、誘拐犯から逃げてきた令嬢ってことでいいかな?」 それを肯定すれば、報奨金と引き換えに、自分と秘伝書はマイスナーの……アンゲリカとレオポルトの元に戻ることになる。 意を決し、ヒルデガルトは言った。 「あたしがここにいることは、秘密にしていただきたいのです……」 バルドゥルが片方の眉を動かして、ニヤリとする。 「『密約』か。嫌いじゃないぜ?」 メイドが困ったような顔をしてボソリと「面倒ごとを抱え込むのは、おやめいただきたいのですが」と呟いた。 ヒルデガルトは天井を見て、そして。
これまでのことを語り始めた。
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