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作品名:婚約破棄された令嬢は婚約者を奪った相手に復讐するのが習わしのようです 第一部 作者:ジン 竜珠

第69回   取引
 ヒルデガルトが目を覚ますと、傷の手当てがなされ、ベッドに寝かされていた。
「お目覚めでございますか?」
 ベッド横にいた一人の若い女性が、優しい笑みを浮かべてヒルデガルトを見る。部屋には照明が点灯しており、夜であることを連想させた。
「こ……こ、は……?」
 女性が答える。
「ペーター・フォン・フォルバッハ侯爵のお屋敷でございます」
「フォルバッハ侯の……?」
 考えてみるが、頭がうまく働かない。マイスナー領から山をグルリと迂回した、随分遠くだ、というのがわかる程度で、どこをどう逃げたか、さっぱり思い出せないのだ。まさかと思うが、巨人の右腕の力で強引に山越えでもしたのだろうか?
 その時、ドアが開く音がした。そして。
「お? 気がついたか?」
 一人の青年がやって来て、ヒルデガルトを覗き込む。
「あなた……は?」
「俺か? 俺は優秀な兄と違って、出来損ないの次男坊、バルドゥルさ」
 笑顔で青年……バルドゥルは言う。
「ああ、これ。今夜の残りのスープで悪いんだけど、温めてきたから、もし飲めたら」
 トレイを見せる。いい香りが漂ってくる。スープ皿に、水の入ったガラスコップ、そして、パンがあった。女性(察するに、この家のメイド)が言った。
「バルドゥル様、そのような用務は、私が……」
「ああ、いいっていいって。今、兄貴の看病で、みんな忙しいし、気が張り詰めてる。これぐらい、俺がやんないとな」
 そして、近くにあったナイトテーブルの上にトレイを置く。そのやりとりを聞くでもなく聞いていると、突然、背負ってきた背嚢(ザック)のことを思い出した。
「! 秘伝書!」
 起き上がろうとして、全身に痛みが走り、苦鳴を上げたヒルデガルトは、ほんのわずかベッドから浮いて、またすぐに横になった。メイドがやはり柔らかい笑顔で言う。
「まだ、横になっていられた方が。お医者様のお話では、体の傷は打ち身や擦り傷程度で骨に異常はないそうですが、ダメージが全身に及んでいるので、一週間程度は満足に動けないだろうと」
 確かに、体全体が痛い。
 バルドゥルが椅子に座り、ヒルデガルトに言った。
「もしかして、これかい? 中身は見てないけど」
 床から、汚れ、ところどころ破れのある背嚢を持ち上げる。黙って頷くと、バルドゥルは言った。
「君、名前は?」
 答えるべきかどうか。
 しばらく無言でいると、バルドゥルが背嚢を手に、ニヤリとして言った。
「これは、君を助けた礼にもらっておくよ、見たところ、君、文(もん)無(な)しみたいだからさ」
「バルドゥル様!?」
 メイドは驚き、ヒルデガルトは睨んだ。なんと卑怯な男なのだろう。やはり貴族の男子には碌(ろく)な者はいない。今すぐ「ユミルの右腕」でくびり殺してやろう。
 そうは思うが、体が動かせない。
 バルドゥルが苦笑を浮かべる。
「逆を考えてみようか。名前も素性も知れない者を、君は匿(かくま)うかい?」
 至極、正論だ。
 観念して、ヒルデガルトは言った。
「……ヒルデガルト」
 これ以上は、言わない方がいいだろう。
 真面目な表情になって、ヒルデガルトを見るとバルドゥルは言った。
「ヒルデガルト・フォン・マイスナー。選帝侯フォン・マイスナーのご息女で、間違いないかな?」
 呼吸が止まりそうになった。どこから素性が知れたのだろう? 背嚢は市井(しせい)で買い求めた物だし、自分自身、素性がわかるような物を持ってはいない。
 驚きとともにバルドゥルを見ていると、彼は穏やかに答えた。
「手配書が回ってきてるんだ。フォン・マイスナーのご令嬢・ヒルデガルトが何者かに拐(かどわ)かされた。ついては情報を求む。人相書き、服装、持ち物。そういったものが記してある」
「手配書……?」
「君をここに運び込んでから丸一昼夜、経ってるんだ。手配書は今日の昼に届けられた。ご家族が心配してるぜ?」
 そして、バルドゥルはズボンのポケットから出した、折りたたんだ紙を開いてみせる。確かに、似てるとまでは言えないまでも特徴をとらえた人相書き、逃げた時の服装に背負っていた背嚢などが記してある。
 なんということか、一昼夜も自分は眠りこけていたのだ。手配については、想定していないことではなかったが、本来は執事とともに、この国を逃げおおせるはずだった。
 計画が甘かったのだ。
 しばらく沈黙の時間が流れた。
 バルドゥルが真剣な表情で言った。
「よかったら、事情を聞かせてくれないか? この手配書、どうもキナ臭いんでね」
 これにはメイドが問いを発する。
「キナ臭い? 私には、普通の手配書に思えましたが?」
 苦笑いを浮かべて、バルドゥルは言った。
「これまでの選帝侯制度の廃止、それにフォン・ドゥンケル伯の領地での騒ぎに、拐かされた、なんて手配のわりには、ボロッボロの状態のご令嬢。誘拐犯に良からぬことをされて、逃げてきたのかとも思ったが」
 バルドゥルの視線を受け、メイドが頷く。
「お医者様の話では、そのような痕跡はなかった、と」
「と、なると、だ。君はお家(いえ)で起きてる、何らかの騒動とか企(たくら)みとか、そういうものから命がけで逃げてきたんじゃないのか? なんなら、話を聞くぜ? それとも、誘拐犯から逃げてきた令嬢ってことでいいかな?」
 それを肯定すれば、報奨金と引き換えに、自分と秘伝書はマイスナーの……アンゲリカとレオポルトの元に戻ることになる。
 意を決し、ヒルデガルトは言った。
「あたしがここにいることは、秘密にしていただきたいのです……」
 バルドゥルが片方の眉を動かして、ニヤリとする。
「『密約』か。嫌いじゃないぜ?」
 メイドが困ったような顔をしてボソリと「面倒ごとを抱え込むのは、おやめいただきたいのですが」と呟いた。
 ヒルデガルトは天井を見て、そして。


 これまでのことを語り始めた。


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