二十一時。 ハインリヒは、父テオバルトの私室へ行った。ドアをノックする。 「ハインリヒです」 『うむ。入りなさい』 「失礼いたします」 ドアを開け、入室する。テオバルトは、自身のデスクについていた。 「ハインリヒ、何か付け足す文章を思いついたかね?」 「いえ。ございません」 シーレンベックの家に連絡する文章については、父の考えたこと以上のことは、思い浮かばない。 頷き、テオバルトがデスクの上のランプ近くに手紙を置く。読んでみろ、とのジェスチャーだ。 「失礼します」 歩み寄り、ハインリヒは手紙を読む。そして。 「父上、シーレンベック卿に『イグドラシルの秘法』について詳細を調べ、こちらに連絡を寄越すように、とのことですが、これにはどのような意味があるのでしょうか?」 高祖母ヒルデガルトが持参した写本群は、おそらく全伝だ。もしかしたら、シーレンベックのもとにある写本には不備があるというのだろうか? 「『イグドラシルの秘法』を行ったのは、おそらくシーレンベックだけだ。ラグナロク……王家の方では行っていないはず。というより、行えないのだろう」 「行えない? それは、どういう意味ですか?」 「『イグドラシルの秘法』について記した写本は、王家の方にはない、ということだ」 今ひとつ、言葉の真意がわからない。首を傾げると、テオバルトが言った。 「我が家の家系図を調べ直してみた。残念ながら、新しい発見はなかったが、実は曾祖母、お前から見れば高祖母のヒルデガルトの日記に、気になる記述があったのだ」 「気になる記述? なんですか、それは?」 「ヒルデガルトは一男一女をもうけている。一男は言うまでもなく我が祖父ヘルベルト、一女はフォン・ヴィッテンベルク家に嫁(か)し、現在の王妃グレートヒェンに続くノーラだ。だが、日記をつぶさに読んでみると、どうやらもう一人、女児がいたかのように思える」 「そうなのですか?」 テオバルトは頷く。ヒルデガルトの日記は、以前、目を通したことがあるが、特に興味がなかったので、さらりと読み流したに過ぎなかった。 「うむ。『やはりノーラには、女きょうだいが、いた方が良かった』。このような一文だ。一見、もう一人、女児を産んだ方が良かった、と述懐しているように読めるが、本来、もう一人、女児がいたが手放してしまったことを後悔しているようにもとれる」 このあたりは、解釈の相違というものだろう。ハインリヒはそれを口にする。 「確かにその通りだ。だが、もしもう一人、女児がいて、それがシーレンベックに嫁していたとしたら?」 「すると父上、何らかの事情でその女児が、どこかの家に籍を移され、その後、シーレンベックに嫁した、と?」 「あくまで推測するよりほかないのだがな」 「では、なぜ、その女児のことが記録に残っていないのですか?」 「それだが……。今はそうでもないが、曾祖母の時代は『双子は家を割る』として、貴族の家では忌み嫌われた。ひょっとしたら、双子の女児が生まれ、片方が別の家にうつされたのち、シーレンベックに嫁したのではないだろうか。その際、いくつか写本を持たされた」 すべては推測だ。だが。 「そうですね、その仮定で話を進めましょう。で、父上、それが王家に『イグドラシルの秘法』についての写本が存在しない理由だとして、アストリットが狙われる理由と、どのように結びつくのですか?」 テオバルトが腕を組む。父にも難解か、あるいは語れるほどの仮定ではないのか。だが、テオバルトは確信がなさそうではありながらも、口を開いた。 「エッダに語られるイグドラシルは、世界樹だ。神々の国アスガルズ、偉大なる神オージンと彼が得た奇(くし)なる言葉ルーン、そしてイグドラシルが根を張る創世の巨人ユミルの骸(むくろ)など、様々な要素が絡み合っている。その中のいずれかが、『イグドラシルの秘法』とは別に、フロイライン・アストリットに影響をあたえているのだとしたら?」 考えてみるが、この場ではわかりそうにない。だからこそ。 「なるほど、シーレンベック卿にその辺りを確認していただこう、と?」 「うむ。もっとも、それ以前の、それこそ、名も知れぬ女性がシーレンベック家に嫁してきた頃に遡るものかも知れんがな」 「ですが、それでも調べていただくべきか、と。私も、我が家に伝わる『イグドラシルの秘法』が記された写本を、調べてみます」 「頼むぞ、ハインリヒ」 これまでは、写本を表面的になぞるだけだった。だが、今は明確にキーワードがある。そのキーワードをもとに暗号文書を解くつもりで読んでいけば、何かわかるかも知れない。 確実になにかが変わる。 そんな予感を、ハインリヒは抱いていた。
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