往古(おうこ)。
某所(ぼうしょ)。
ひげ面の大男が、カンテラをかざし、「あるもの」を照らす。そして随行した者たちに聞いた。 「貴公らは、これをなんと見る?」 最初に答えたのは、一番小柄の少女だ。 「巨人……でしょうか?」 最初ではあったが、この答えが出るまでには、たっぷりと十、数えるほどはあったろう。事実、その声は震え、わずかながら汗が額に浮かんでいるように思えた。 「自分は」と、ザンバラ髪の若者が言った。 「単なる岩肌……自然の造形の妙か、と」 嘘(ウソ)だ、と、長い髪の乙女は思う。 このような巨人など、存在するはずがない、あり得るはずがない。だから「自然の造形の妙」などと、苦しいことを言っているに過ぎぬのだ。 同じことは、髪をきちんと整えた若者も思ったようだ。 「いや、いくらなんでも、これを偶然の産物というには、無理があるだろう」 「それを言うなら! このような身の丈百エル(約四十メートル)の人間なぞ、いるわけないだろう!」 必死の形相で言ったザンバラ髪の若者の言葉に、髪をきちんと整えた若者は、困惑気味に言う。 「旧約のネフィリムよりは、現実的ではないか」 この言葉に、長い髪の乙女は吹き出しそうになった。ある種、「秘密の共有」という荘厳な場であるにも拘わらず、だ。 他の者たちも、ああではない、こうでもない、と口々に言い始めた。頃合いを見計らい長い髪の乙女がひげ面の大男に言った。 「お父様。そろそろ」 「うむ。あとは任せたぞ、アンゲリカ」 長い髪の乙女……アンゲリカは、一同の前に進み出る。自然と水を打ったように静かとなり、皆の視線が集まる。それを確認してアンゲリカは言った。 「ここに集いし、選帝侯(クルフルスト)の皆様、そしてそのご家族の皆様。ここにある者こそ、『いと古きエッダ』に謳(うた)われし、原初にして創世の巨人、ユミルです」 一同は今の言葉が理解できなかったのか、しばし沈黙し、顔を見合わせている。 さもありなん。 アンゲリカ自身、確信を得たのは、ほんの十数日前のことなのだ。 「フ」と、笑いとともに鼻から息が漏れるのを感じながら、アンゲリカは言った。 「私は、このユミルと心を通わせ、その知識と力を手にしました。イグドラシルはエッダに根を張る架空の大樹にあらず、オージンは片足でイグドラシルに逆さ吊りになった『吊され人』にあらず。いえ、旧約にある大洪水すら、エッダの引き写しなのです」 「不遜(ふそん)であるぞ、フォン・マイスナーの小娘が!」 今、その言葉を吐き出した愚か者は、選帝侯フォン・カレンベルクの現当主だ。 アンゲリカは相手を見下すように、わざと顎(あご)をしゃくって見せてやる。 「よろしい。貴公が熱烈なるテスタメントの原理主義者であることは、ここの一座、皆が知っていること。ですが、私は今言いましたよ、ユミルの力を手にした、と」 カレンベルクの当主、ルッツが怪訝な表情になる。 「世界を作った巨人からすれば、世界の果てなど、距離のうちにも入らず。まして、貴侯と私との空間、たかが十エル(約四メートル)程度など」 そして、右手の指を弾く。その時、指にはほんのわずかの「わたゴミ」を乗せたのだが。 どのような醜悪な動物とて、ここまで醜い声は出しは、すまい、と思われるような声を上げて、ルッツは仰向けに倒れる。しばらく体を引きつけさせていたルッツだが、周囲の者に起こされ、自分の額を触って、息を引き、体を震わせた。 「あら、失礼。ほんのわずか、力も乗ってしまいましたわ」 嘲笑混じりに、アンゲリカは言う。まるで石をぶつけたかのような裂傷が、ルッツの額に刻まれていたのだ。そこからあふれ出る血に、ルッツは失神してしまった。 アンゲリカは再び一同を見渡す。光量の少ない場所ではあったが、皆の顔が青白いのは、そのせいだけではあるまい。 「旧約に曰く」と、アンゲリカは続けた。 「かつて、地に悪がはびこり、神は洪水を起こして地を洗い流された。そして、舟に乗って洪水を逃れた者たち、動物たちがその祖となって今の世界がある。しかし、それは正しくはない。真実は」 一同が、アンゲリカの言葉を待っている。もし自分の立っているところが、ほんの一エル(約四十センチ)でも高ければ、自分の気持ちは高揚の極みにすら到達するだろう。 そう思いつつ、アンゲリカはユミルから得た知識を披露した。 「エッダに曰く、ムスペッルヘイムより訪れし炎の巨人、大地を炎に包まん。洪水ではなく、炎の海と化したの、この大地は」 誰かが、いや、複数の者の、息を呑む気配があった。 「炎によってすべての悪は滅ぼされ、海の底より新たな大地が浮かんで、死せるバルドルがよみがえり、新しき世界を築いた。それが、今ある世界、ここなのです!」 アンゲリカは一同を、三度(みたび)見渡す。今や、すべてはアンゲリカの聴衆となっていた。 「皆様に、ご提案いたしたきことがございます。……皆様は、この一(いち)小国(しょうこく)の選帝侯(クルフルスト)に止まるを、よしとなされるか?」
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